11・アレスタのカイル・ディーン・モーガン
いつもありがとうございます。
一連のカイル滞在に関する騒動はひとまず今回で決着です。
のちのちまで揉めますが、ひと段落。
カイルは巨大な翼を打ち振って、空路を祖国へ向けて飛んでいた。
空を飛ぶのは初めてだったが、一刻も早く主人のもとに帰りたくて夢中なあまり不安は何も感じなかった。
馬車に乗って長い時間をかけ進んだ道のりが、竜になって空をいけば一瞬で通り過ぎる。
風を切る音がゴウゴウと耳を鳴らす。
開放感と爽快感で胸が躍った。
ウェスタリアにいる主君の事を想うと満たされて自信があふれてくる。
出来ないことなど何もないと思えたし、実際にそうだろうとも感じていた。
もしも世界中に、竜人が主人を持つことを許さないと言われたら、そのときは、アルファとカイルとで、シリウスのためどこかに国を興したっていいとさえ思っていた。
稜線を超えたあたりで祖国の国境近くの村々が見えはじめ、カイルは高度をあげた。
あまり人々に姿を晒すと、いたずらに怖がらせてしまうかもしれないと思ったからだ。
そのまま雲の上を飛び、国都にある自宅の上空で人身に戻った。
人の型で空の上からまっさかさまに落下し、地上に到達する寸前でクルリと長身を回転させ、わずかな魔力で風を操り速度を落とす。
コートの裾がはためいた。
カイルが地上に降り立ったとき、中庭には猫が塀から飛び降りたときと同程度の音と衝撃しか伝わらなかった。
「ふう……」
息をつくと、やや乱れた髪をかきあげて整え、カイルは知り尽くした中庭をまっすぐに歩き、そのまま邸宅の扉を叩く。
「カイル様!?」
扉を開けたのはカイルが子供の頃から親しくしている執事長の老人だった。
「ただいま、じい。父上と母上はご在宅だろうか」
「は、はい。ですがカイル様、歩いてここまでお戻りになられたのですか?!」
数名の追従と馬車で出かけたはずだったのに、カイルがたった一人、馬車はおろか馬にも乗らず、いきなり帰ってきたので驚いたのだった。
カイルは祖父のように親しんでいる執事に微笑んだ。
「うん……。まあ、歩いたり、飛んだり、かな」
「はあ……歩いたり飛んだり……ですか。父君と母君は居間にいらっしゃいます。お帰りの日程が予定より遅かったのでご心配なさっておいででしたよ」
首をかしげながらも、カイルが普通の青年ではないことを熟知している執事はどうにか納得したようだった。
「そうか。挨拶してくるから、すまないが、茶を頼む」
カイルの父は政務で城に詰めている事も多いが、自宅にいるときはカイルの母である妻と一緒にすごす。
国にも家族にも忠誠心が厚く、マジメなカイルよりも一層マジメで、他人にも自分にも厳しい人物だった。
その厳格さから部下に恐れられる上司でもあったが、カイルは父が怖くはなかった。
意味のある失敗だったらかえって認めてくれる人だったし、悪い事をさえしなければ叱られたりしないと、子供の頃から知っていたからだ。
「ただいま戻りました、父上、母上」
挨拶と共に部屋に入ると、カイルの母、ミーナは作業途中の刺繍を机に置いて立ち上がり、カイルの手をとって喜んだ。
「まあカイル、もうすこし早くに帰ってくると思っていたから、心配していたのよ」
実際にはあと五日は帰宅が遅くなるところだったのだが、飛んで帰ったせいで早かった、などと知る由もないミーナはそう言った。
「ウェスタリアの様子はどうだった」
父ガーラントは分厚い書籍を膝に乗せたまま閉じる。
カイルは手近な椅子に腰掛け、執事長の運んできた紅茶を受け取った。
「ウェスタリアの国都は非常に穏やかで、成熟度の高い街でした」
「確かに国王陛下はなかなか名君だと噂を聞いている」
「そんなに素敵な国なら、いつか私も行ってみたいわ。ゆっくりお話をきかせて」
ミーナはのんびりと微笑んだのだが、カイルは
「母上、実はあまり時間がないのです」
と、カイルらしからぬ性急なしぐさでお茶を飲み干した。
「父上、母上、私はこれからまたウェスタリアに戻るつもりです」
「なに?」
「これからって、まさか、今日、これからじゃないわよね?」
カイルは不安そうな母に頷いてみせた。
「今日これから、戻ります。……命を懸けてお守りしたい、いっときもお傍を離れたくない、大事なご主君を得たのです」
普段何事にもあまり動じないガーラントも、おっとりとしたミーナも驚きを隠せない。
追加で紅茶を用意しようとしていた執事長がカップを取り落としそうになる。
両親が呆然としたまま何も言えない間に、カイルは言葉を続けた。
「実は、今朝まで私はウェスタリアに滞在していました。可能な限り私の主人……シリウス様のお傍にいたくて……」
「今朝? ウェスタリアの国都からここまで五日はかかるだろう……?」
「竜になって飛んできたのです」
今度こそ、執事長はカップを取り落とした。
幸い毛足の長い絨毯のおかげで割れずにすんだが、ここにいてはいけないと感じたのか、失礼しました、と叫んで、慌てて部屋を辞去してしまった。
ミーナはポカンと口をあけ、かわいい息子を見つめた。
世間では、息子は世界の宝である竜人であったけれど、ミーナにとっては普通の息子だ。
賢く、美しく、礼儀正しい、自慢の息子ではあったけれど、特別な力を使っているところもあまり見たことがないし、カイルはなんといってもまだ十七歳なのだ。
「竜になって飛んできた、って……、私もまだ竜になったカイルを見ていないのに……」
「……ミーナ、そんな問題ではない」
「急ぐあまり、ジャンや他の騎士たちも置いてきてしまいました。戻ったら彼らに謝罪しないと」
一方、息子から突然わけのわからない告白をされたガーラントは、本人が思っているよりも困惑していた。
息子の言葉は耳に届いてくるが、頭の中には入ってこない。
「……それで、主君を得た、などというのは、もちろん冗談なんだよな?」
そんな冗談を言う息子ではないとわかっているが、冗談以外はありえない状況だ。
ほかに言うべき言葉がみつからなかったのだ。
カイルはゆるぎない視線で父を見つめた。
「いいえ、今日中に御許に戻ると私はシリウス様に約束しました。これからすぐに戻ります」
「バカを言うな! そんなことは許さん!! お前は私の息子なんだぞ!」
ガーラントは怒号と共に椅子を蹴って立ち上がり、息子をにらみつけた。
壮年とはいえ、過去には実践経験豊富な軍人であり、カイルに勝る長身の偉丈夫だ。
これが部下だったら縮こまって平伏し、ただちに自分の過ちを認めて謝罪するだろう。
けれど息子のカイルはまったく動じていなかった。
「許しを求めに戻ったわけではありません」
灼熱色の瞳に、かぎりなく冷静な光を宿し、カイルはきっぱりと言った。
「主君を得たことのご報告に参っただけなのです」
少しだけ寂しげに立ち上がる。
「今日すぐにわかっていただけるとは、思っておりませんでした。ですが私の心はもう定まってしまった」
父ガーラントの怒りに満ちた瞳と、母ミーナの困惑した表情を見る。
「……シリウス様に出会えて、私は今、本当に幸せなのです。お二人にもいつかはお解りいただけると信じています」
「本当に、これからウェスタリアに行くつもりなのか?!」
ガーラントは「今ここを出て行ったら、二度と屋敷の敷居はまたがせない」と脅しの言葉を言いかけて思い留まった。
もし脅しても息子はためらわず出て行き、そして父の言葉に従って、二度と帰ってこないと思った。
いや、そうなると確信していたから、言えなかった。
カイルは窓辺に歩み寄り窓を開け放つ。
部屋は三階であったので穏やかな風が吹き込んだ。
カイルの真紅の前髪が風にあおられ炎のように揺れる。
「では、行ってまいります!」
振り向いて笑ったカイルの表情に、迷いは一切なかった。
見たものすべてがつられて幸せを感じる、子供のように無邪気でさわやかな笑みだった。
泣きそうになっていたミーナも、怒りに燃えていたガーラントも、ああ、これは、もう仕方がない、と、思わず納得してしまうような、そんな笑みだった。
窓から身を乗り出したカイルがそのまま足をかけてためらいなく飛び出す。
「あっ、カイル……!」
息子が三階から飛び降りたぐらいで怪我をするとも思っていなかったが、反射的にミーナは動揺して立ち上がった。
窓辺に駆け寄ろうとしたその視界に、ルビーを連ねたような赤い輝きがまぶしく映る。
真紅の竜は、冬にやってくる水鳥のように甲高く満足げに一声なくと、夕焼けの赤に身を溶け込ませるように、あっという間に消え去ってしまった。
シリウスと一緒のときとえらく違う印象のカイル。
さわやかカッコイイ。
シリウスと一緒のときは緊張してたり嬉しかったりして微妙に平常心ではないようです。