125・☆到達
「本当に赤竜公閣下……?」
ラナは信じられない思いで、障壁の向こうから絶叫する真紅の竜を見つめた。
生徒たちも、安堵するより間近で見る竜の迫力にただただ呆然としている。
赤竜公は、障壁の外からシリウス少年を何度も呼んだ。
「シリウス様」と。
それでラナはすべての事情を察した。
赤竜公が小等部で講演してくれたこと。
そこで話してくれた内容。
ワグナーがシリウスへ必死に話しかけていた。
「シリウス! もう障壁を解除していい。赤竜公閣下が来てくださったんだぞ!」
少しの間反応がなかったが、生徒たち全員が何度も呼びかけ、シリウスはようやく重たげに瞼を開けた。宝石のような紫の瞳がさまよう。
「カイル……」
確認するように真紅の竜を見て、それからわずかに手を上げる。
「シリウス様!!」
障壁が解除された瞬間、カイルは人の姿に戻り、倒れている主人に駆け寄った。
「ああ……っ! なんてこと……」
自分の流した血だまりの中に横たわるシリウスを見て絶句する。
ワグナーとラナから奪い取るようにして、細身の少年をそっと抱き、すぐさま傷口に手を当てた。
カイルの手のひらがまぶしく光る。
白く輝く治癒魔法は代謝を高めるためのものだ。
本来であれば傷口をふさぎ、出血も収まる。
だが体力を消耗しすぎたシリウスの傷は、代謝を高めても簡単には塞がらなかった。
出血もじわじわと続いている。
自分を必死に治療しようとする青年を見上げ、シリウスは微笑んだ。
「カイル、やっぱり、来てくれた」
「当たり前です」
「ぼく、みんなに、翼を見せちゃった……」
悲しげにつぶやき、小さく咳き込む。
肺に傷を負っているせいで、赤い飛まつがかすかに飛んだ。
「喋ってはいけません」
「誰にも見せないって約束したのに、ごめんね……」
金のまつげが伏せられ、まぶたが徐々に落ちていき、意識が遠のいていくのが目に見えてわかり、カイルは再び叫んだ。
「シリウス様!」
呼びかけても反応しない。
「目を開けて下さい!」
紙のように白くなってしまった頬を手のひらでたたく。
「だめ、だめです、目を閉じないで! シリウス様!」
「……カイル……」
カイルの必死の呼びかけにこたえるように、シリウスはかすかに目を開け、苦しげに名を呼んだ。
「声を出してはいけません。眠らず、私を見ていてください! すぐに傷をふさぎますから……!」
「……うん……。寒いよ、カイル……」
ハッとなったカイルは、膝の上に乗せていたシリウスをそっと抱きしめた。
魔力を使って自身の体温を上げ、血を失って凍えている主人を暖める。
「……あったかい……。ありがとう……」
「大丈夫です。すぐに治ります。フォウルもアルファも、すぐ近くにいますから……!」
それを聞くと、シリウスは微笑んでうなずき、目を閉じる。
「シリウス様……?」
回復魔法をかけるため傷口に触れていた手で、シリウスの白い頬に触れる。
ひどく冷たい肌に、赤い跡がベットリと残った。
「シリウス様!」
再び呼ぶが、さっきとちがって今度は目を覚まさない。
カイルは天を仰いで声を限りに叫んだ。
「フォウル! アルファ! どこにいる!」
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
フォウルはカイルに呼ばれるまでもなく、すでにそこまで迫っていた。
身軽に駆け抜けるため狼の姿になっていたが、その姿のままカイルの隣で急ブレーキをかける。
すぐにその場で人身に戻り、血にぬれた地面に躊躇せず膝をついた。
見知った狼が人の姿に変わったことで、周囲からは息を呑む気配が伝わってきたが、もちろんフォウルは気にしない。
いま、フォウルの視界の中にあるのは、傷つき横たわる主人の姿だけだった。
カイルの手に重ねるようにして、自分の手のひらを乗せる。
「カイル、君は血管の傷をふさぐ。ぼくは内臓の損傷を癒す。他はあとまわしだ」
震える声でそう言う。
だがカイルは真っ青のまま弱々しく首をふった。
「私には自信がない。そんな局所的な治癒を行えない。もしも失敗したら……。アルファが来るまで待ってくれ……」
「そんな時間はない。やれる。君はずっと練習していた」
カイルの言葉をさえぎって断言すると、フォウルはシリウスの額に触れた。
「二度と失わない」
それを聞いたカイルも覚悟を決めた。
一度だって、絶対にごめんだったからだ。
血管をふさぐ。
頭の中に、明確なイメージを作り出す。
傷つき、破損した血管。
イメージの途中で、シリウスの青ざめた顔を見てしまい、頭をふる。
今は余計なことを考えている場合ではない。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
状況が改善していく様子は、子供たちにもちゃんと伝わった。
シリウスの呼吸がさっきよりも深くなり、表情も穏やかになったからだ。
それにほとんど真っ暗だった地下に、今は明るい空の光が届いている。
障壁はなくなっていたのだが、あれだけいた魔物が襲ってこない。
気づけば上空に漆黒の竜が舞い、地下に害が及ばぬよう、魔物たちを片っ端から消し去っていた。
ひしめき合っていた魔物をあらかた片付けると、黒竜は長大な体を滑り込ませるようにして地下に降りてくる。
「我が君!」
シリウスの怪我を目にしたアルファはその場で人身に戻ると、横たわる主人の隣に膝をつき青白い頬に触れ絶句する。
「ああ……」
治療のおかげか呼吸はしっかりしているが、苦しげで、意識がない。
それに出血こそ収まっているものの、胸部の怪我はまだ完全には塞がっていなかった。
「フォウル、なぜ傷を治さない!」
フォウルは怒声にも怯む様子を見せず、シリウスの胸に手を当てたまま顔をあげた。
「今は体力を消耗しすぎているから、これ以上の治癒魔法はかえって危険だ。命にかかわる傷は回復しているから、このまましばらく休ませたほうがいい」
「しかし、時間が経つと治しても傷跡が残る」
悲しげにつぶやき、アルファはシリウスの頬についた血をそっとぬぐった。
「目は覚まさないのか?」
「血液量を増やすため、脊髄だけ代謝を上げたままにしている。痛みが伴うから眠っていたほうがいい」
それを聞いたカイルはシリウスを慎重に抱き上げ立ち上がる。
カイルは傷ついたシリウスに負けず劣らず真っ青だ。
命よりも大事な人を失ってしまうかもしれなかったという恐怖で震えも収まらない。
「……とにかくここから出よう。私の家にお運びする」
下宿では全員が傍にいて世話をするには狭すぎる。
カイルの提案にアルファもフォウルも頷いた。
すぐにその場に蒼い竜が現れる。
蒼竜は、アルファと、シリウスを抱いたカイルを腕の中へと納めた。
そのまま飛び立とうとしたときだ。
「あの……!」
それまで黙ってなりゆきを見守っていたラナが初めて竜人たちに声をかけた。
「あ、あの、私はこの子たちの授業を受け持っているラナ・バンブルと申します。私はともかく、子供たちを地上まで連れて行ってはいただけませんか」
目の前にいる二名と一頭の竜が、同時にラナを見つめたので、普段は気丈な体術教師の彼女もひるみそうになった。
けれどこれだけはどうしても聞き入れてもらわないと。
暗く深い地下で魔物に襲われ、生徒たちはさっきまで怯えきっていた。
一刻も早く安全な場所に連れて行ってあげたかったのだ。
竜人たちはこのとき、ラナに声をかけられるまで、完全に他人の存在に気づいていなかった。
彼らにとっては傷ついた主人がすべてであり、それ以外の人間は空気と同じだったからだ。
フォウルは今すぐにでも出発したいようで、翼が半開きになりそわそわと落ち着かないし、カイルはシリウスを抱いたまま動かない。
アルファは自分たちを必死の想いで見上げる子供たちとラナを見下ろし、それから大事な主人の青ざめた顔を見た。
シリウスに意識があったなら、生徒たちを助けるよう頼んだだろう。
祈るような気持ちで竜人たちを見る人々の中、ラナの袖を引いた生徒がいた。
「ラナ先生、俺たちのことはきっと校長先生がなんとか助けてくれます。浮遊魔法で引き上げてもらえばいいじゃないですか。――俺たちの事は気にせず、シリウス殿下をお願いします」
竜人達に向け、深々と頭を下げたのは、ワグナーだった。
アルファは深く息をつく。
「いや、ワグナー、魔物は完全に掃討されたわけではない。ここに残るのは危険だ。フォウル、カイル、先に行け。俺は彼らを地上へ送ってすぐに後を追う。彼らに何かあったら我が君が悲しまれる」
アルファはシリウスの手をとりその甲を額に当てた。
離れがたいのか少しの間動かなかったが、やがてフォウルの腕から飛び降り、蒼いうろこに包まれたその体を叩いた。
「我が君を頼んだぞ」
蒼竜は待ちかねたように首をあげて一声甲高く鳴くと、光を透す蒼い翼を広げて空へ飛び立った。