124・☆未だ遠く
シリウスは、深呼吸して目を閉じ、再び開く。
ふと気づくと、さきほどまではるか上にあった魔物の触手がずっと近くまで迫ってきているように思えた。
シリウスはほんの一瞬目を閉じただけのつもりだったけれど、実際には5分ほど意識が飛んでいた。
その間も障壁はなんとか維持されていたが、集中力の低下に伴い縮小してしまっていた。
同級生たちが身を寄せ合い、ラナ先生が後ろから支えてくれている。
息を吸い込むたびに、傷ついた胸に引き絞られるような激痛が走った。
ワグナーが傷口を強く押さえている。
「なあ、オレ、ちょっとの間なら、あの魔物と戦えるよ。だから先にシリウスの怪我を治そうよ」
すぐそばから、いつも元気いっぱいなマイクの、泣きそうな声が聞こえた。
一瞬でも障壁を失ったら、この場所はおわりだよ。
そう言いたかったけれど、呼吸するのが精一杯で声が出ない。
ラナ先生も、ワグナーも、答えなかった。
ただ支えてくれている先生の腕がかすかに震えたように思う。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
ラナは地下の穴を埋める魔物の触手を見上げた。
シリウスは助けがすぐに来るというが、それは疑わしい状況だ。
今、自分たちは校庭の地下深くに飲みこまれ、周囲は光も届かないほど魔物に埋め尽くされている。
シリウスがいなければ全員死んでいただろう。
けれど一瞬、ほんの一瞬だけ、この障壁を解除できたなら。
シリウスの怪我を治してあげられるかもしれない。
ここまで大規模ではないけれど、障壁魔法はラナにも使えた。
生徒たちを守る最低限の守護魔法、治癒魔法は、教師の資格を取るのに必須習得魔法だったからだ。
ただラナが全力で魔法を展開してもここにいる全員は収容できないだろうし、魔物の攻撃にどれほど耐えられるかもわからない。
一撃で破壊されてしまう可能性もある。
そもそも、詠唱している間にすべてが終わってしまうかもしれない。
向き合う形でシリウスの傷を押さえているワグナーと、暗闇の中視線があった。
この少年は、自分の不幸に対処しきれず性格がゆがんでしまっていた。
だがシリウスと出会ってからは、気高く勇敢な自分を取り戻したのだ。
手下や、取り巻きではなく、友人を得たワグナーは、いまその無二の親友の傷を必死で押さえている。
「先生」
ささやくように、そのワグナーが話しかけてきた。
「俺は少しなら治癒魔法も使えます。せめて出血だけでも止めないと」
真剣な表情で、何かを覚悟するように、そう訴えた。
いまラナの足元には、暖かな血溜まりがじわじわと広がっている。
逆に、支えている少年の体からは、徐々に熱が奪われていくのがわかっていた。
ラナも、ワグナー少年と同じく覚悟を決めた。
不安げに見守る生徒たちを見渡す。
全員を収容できない、などと言っていられる状況ではない。
なにがなんでも、全員を収容できる障壁魔法を実行し、魔物の攻撃をほんの数分でいいから凌ぐ。
その間に、ワグナーにシリウスの出血を止めてもらう。
「みんな、なるべく近くに寄って。狭くてもぎゅうぎゅうでも、なるべく近くに集まるの。ワグナー、治癒魔法の準備を」
暗がりの中、ワグナーが頷く。
「シリウス、私が障壁を作ってみるから、少しの間だけ魔法を解除して。ワグナーが治癒魔法をかけたら、そのあと……」
「先生、ぼく、魔法を解除したら、たぶんもう一度使うのは無理だと思う」
とぎれとぎれに苦し気に言って、シリウスは空を見上げた。
かすかに届く光。
だがその隙間から、ときおり雷光が輝くのが見えたのだ。
それだけではない、炎の赤い影が蔦を焼く様子も。
「ここが暗すぎてぼくを見つけられないんだ……」
地下深く、魔物の中に埋もれ、どこにシリウスがいるのかわからず、アルファたちも少しずつしか進めないだろう。
けれどこの障壁魔法の中では魔法を使えない。
傷を押さえてくれているワグナーと、支えてくれている先生を見る。
それから、おびえて身を寄せ合っているクラスメイトたちも。
留学はまだ二週間ほどの期間を残していた。
もう少し、最後まで、一緒に過ごしたかった。
けれどシリウスは意を決した。
足に力を入れ、立ち上がる。
「だめよ、シリウス!」
あせったラナが再びシリウスを支えたが、シリウスは自分の力で立っていた。
「大丈夫。見つけてもらえれば、助かる。目印さえあれば……」
「でも魔法は使えないんでしょう?」
頷くと、シリウスは目を閉じた。
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ワグナーはその光景を一生忘れないだろうと思った。
傷口から血を流し、満身創痍になりながら、クラスメイトと教師とを守っていたシリウスが、よろめきながら立ち上がり、みんなの見ている中で静かに目を閉じたのだ。
きらきらとやわらかな金の光がシリウスの背に現れ、蛍のようにやさしく輝いた。
光はやがて美しい黄金の翼の形となってゆっくり広がった。
「シリウス……」
天使のような顔をしていると、いつも思っていたけれど、本当に天使だったのだろうか。
金の翼はそれ自体も穏やかな光を発しながら、生徒たちを守るように開かれていた。
生徒も教師も等しく息をのむ。
周囲がわずかに明るくなると、シリウスの怪我の様子もよく見えた。
胸の下辺りからひどく出血していて、足元に血だまりができている。
「もういい、シリウス、障壁を解くんだ! 俺が治すから!」
あまりに治療が遅れると、体力を消耗しきってしまい治癒魔法では傷が塞がらなくなる。
もう手遅れにさえ見えた。
血に染まり、黄金の翼を広げ、かすかに届く日の光を受け立つ姿は、神々しく近寄りがたい空気を発していた。
全員が息を呑み、ほんの数瞬、時間がとまったように、その光景に心を奪われていた。
だが次の瞬間、シリウスがバランスを失ってよろめく。
「シリウス!」
ラナとワグナーが同時に細身の少年を支えた。
黄金の翼が掻き消え、魔法の障壁が不意にゆがむ。
もう限界なのだろう。
「ここにいます! 誰か! 赤竜公閣下!」
ワグナーは声を限りに叫んだ。
きっと、あの青年、ワグナーにとって憧れの英雄である赤毛の青年は、シリウスを探している。
声さえ届けば。
抱きしめたシリウスと目があった。
紫の瞳がワグナーを見て微笑む。
「きっとカイルに聞こえたよ」
かすかな声で、搾り出すように言って、再び瞳を閉じてしまった。
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そのころカイルは、校庭があった場所を埋め尽くす魔物を、掻き分けるように両断しながら進んでいた。
一気に燃やしてしまえば大事な人を傷つけるかもしれない。
からみつき、襲い掛かってくる蔦を、見える範囲で薙ぎ払いながら進む。
だがはらってもはらっても、蔦は次々に沸いてくる。
校庭で授業をしていたなら、主人は魔物がつくった地下に落ちたはずだった。
真っ暗で広大な地下は、埋め尽くされた植物で混沌としている。
巻きついてくる蔦を引きちぎり、必死にはるかな地下を見下ろしたが、やはり何も見えない。
絶望感と焦燥感で気が狂いそうになったとき、地下の南東の一点から、一瞬金の光が見えた気がした。
しかしその光は、すぐに大量の蔦に阻まれ再び見えなくなる。
「シリウス様……!」
わずかな可能性を頼りに進みはじめた瞬間
「ここにいます! 誰か! 赤竜公閣下!」
「!」
遠く、かすかにだが、確かに聞こえた。
意識がそこに向いていなければ、気づかなかっただろう。
以前、下宿を訪ねてきた少年の声。
カイルはその場で己を火炎に転じさせた。
周囲を巻き込み爆発が起こる。
熱と光が収縮し、その場に巨大な生物が現れた。
一瞬で真紅の竜の姿へと変わったカイルは、さきほどの呼び声に答えるように一声鳴いた。
おそらくアルファやフォウルにも聞こえるだろう。
それから声の聞こえた場所、金の輝きが一瞬見えた場所に向け、一直線に降下する。
蔦の魔物は竜のうろこに触れただけで焼きただれ引き裂かれ、千切れ飛んでいく。
たちまち目的の場所に迫ったカイルは、翼を広げて減速し、地下の底に着地した。
近づけば、確かに大事な大事な人の存在を近くに感じる。
しかしいつものようにおだやかな波ではない。
地下の温度を上げすぎないよう、炎を使わず、つめと牙で魔物を引き裂き、ついにカイルはシリウスの作った障壁に触れた。
金色のしゃぼんのように、キラキラと輝く障壁魔法。
「シリウス様!」
障壁の上部から中を覗き込む。
数名に支えられるように横たわるシリウスを見て、カイルは心臓に氷の杭を打たれたような衝撃を受けた。
少年の衣服を濡らす赤黒い液体は、誰のものなのか。
「シリウス様!!!」
あせっても叫んでも、行く手を阻む障壁は消えない。
強引に破壊してしまって術者に影響がないのかどうかわからなかったため、カイルはその場で悲痛な叫びをあげた。