116・☆校長と王太子
校長は突然隣国の王太子が訪問してきたことに驚いてはいたが、その驚きを表情に出さずに済むほどには老成していた。
校長室を訪れた王太子一行の人員は、王子とその側近と思われる人物が三名、それに赤毛の狼だった。
王太子の連れにしてはかなり少人数だが、狼をつれているあたりが弟王子のシリウス少年と同じだ。
校長は隣国の王子に向け、祖母のようにおだやかな笑顔を向けた。
「はじめまして、ルーク殿下。私も少し休憩しようと思っていたところだったんです。学園での弟君のご様子をお聞きになりたいのですね」
仕事を邪魔されたことなどまったく感じさせない、和やかな口調と表情で、応接用のソファを薦める。
ソファに腰掛けたのは、王太子ともう一人、護衛というにはいささか線が細い印象の青年だった。
あとの二人は立ったまま、ソファの後ろに陣取る。
校長は、彼らの傍らに腰を下ろした狼に視線をやった。
「ルーク殿下も狼をお連れなのですね。シリウス殿下の狼は毎日校舎を守ってくれておりますよ」
「ああ、実はこの赤毛の狼もシリウスの狼なんだ。普段は下宿の方を警護しているのだが、今日は道案内をしてもらった」
王太子がそう答えると、赤毛の狼は、そのとおり、と言いたげに優美な尾をふさふさと揺らす。
シリウスの狼だと、ちゃんと伝えてもらえたことが嬉しかったらしい。
校長は着席したルークとロン、立ったままのモリスとジョウの分も茶を淹れ、それから自分も着席した。
「ルーク殿下が留学の後半にアレスタをお尋ねくださることはシリウス殿下から伺っておりましたが、こんなに早いとは思っておりませんでした」
「実は、シリウスが怪我をしたと聞いたもので、予定を切り上げてしまった」
「ああ……、剣術授業での事故ですね……。その件は本当に、申し訳ありませんでした……」
もう数週間前のことだったが、校長は心底から詫びた。
たまたま軽症で済んだが、護衛の蒼い狼が飛び込んでこなければ、もっと大事件になっていたところだったからだ。
「怪我の件はもう気にしていない。シリウスに詳しく事情を聞いたし、痕も残っていなかった。それに子供同士のもめごとだ。――怪我をさせられた相手と、今では一番の友達になったと弟は言っていたけれど、本当だろうか」
「ええ、本当ですよ。私も、担任のショーンも驚いていますが、シリウス殿下は私の知る誰よりも広い心の持ち主です。これは誇張でもなんでもありませんよ。怪我をさせたワグナーに対して、まったく怒っていないようでした。ワグナーは事故の後、シリウス殿下から遠ざかろうとしていたようですが、殿下は逆に、ご自身の部屋へワグナーを招待なさったとか」
それを聞いたルークは苦笑した。
弟が、誰かに対して本気で怒ったり、うらんだりした所を見たことがなかったからだ。
首脳会議のとき、敵意を剥き出しにしてきた相手にさえ、シリウスは悲しみこそすれ怒りを見せることはなかった。
やさしすぎる性格は、弟の長所でもあり、弱点でもある。
その一因もわかっていた。
「私の弟は、生まれたときから竜人たちに守られているせいか、敵意を持った人物にさほど脅威を覚えないようだ。この世界で誰よりも、なによりも強い生物が常に傍にいるせいで、人間など、どんなに強がったところで恐れる対象ではないのだろう」
「確かにそうかもしれませんね」
校長が微笑み、場は和やかになったが、狼の姿のカイルだけはわずかに耳を伏せた。
今、その非力なはずの人間が、竜人たちを警戒させている。
「それで校長、最近弟に何か変わったことは起こらなかっただろうか」
「かわったこととは?」
ルークは少し間をおき、ロンと視線を交わした。
本当はカイルに部屋を出ていてほしかったが、入室するときならともかく、いまさら狼を外に出すのも妙な話だ。
迷ったがそのまま話し始める。
「……どうもシリウスは落ち込んでいるように見える。私に会えて喜んでくれたし、学園でのことを楽しく話してくれるが、いまひとつ笑顔に精彩が欠けている」
「まあ、それは気づきませんでした」
校長はここ数日の出来事を可能な限り頭に思い浮かべたが、シリウス王子に関する問題は何も報告されていない。
一番最近のものが、例のワグナーとのもめごとだ。
それ以来、実に平穏な日々が続いている。
「学園では特に何もなかったはずです。担任には、些細な問題もすべて報告するように申し伝えておりますし」
「学園では、か……。では外で何かあったのかな……」
ルークは顎に手を当て、その姿勢をする人間の常でナナメ下に視線をやって、視線の先で赤い狼の太い尾が、そわそわと落ちつかなげに揺れていることに気づいた。
外で何かあった、という言葉に反応したらしい。
「ふむ……。校長、何でもいいので、ここ最近アレスタで、何か普段と違う出来事がなかっただろうか」
「最近ですか? それでしたらまず一番は赤竜公閣下の祝賀パレードでしょうか。つい先日のことですよ」
「!」
思わず立ち上がったのは赤い毛並みの狼だ。
ルークだけでなく、ジョウやモリスも苦笑する動揺ぶり。
「カイルの祝賀……。帰国したことで?」
「いえ、赤竜公閣下が魔物にさらわれた要人の方々をお救い下さったので、その祝賀のパレードとパーティが行われたんです」
「シリウスも参加したのだろうか」
「それは存じませんが……」
そんな大きなイベントがあったのに、シリウスは何も言わなかった。
常であったなら、まっさきに教えてくれただろう。
チラリとカイルを見やると、平静を装おうとして再び座っていたが、前足が片方所在なさげに浮いている。
「赤竜公閣下が竜になって街の上を飛んでくださったんです。私も始めて竜を見ましたが、それは美しく雄大なお姿でしたよ。あの日は竜を見た興奮で眠れませんでした。――王太子殿下は竜をごらんになったことがおありですか?」
考え事をしていたルークは急いで校長に向き直り、
「ああ、4頭の竜、すべてを見た」
と答えた。
特にカイルの赤竜はやたらと何度も見た、とは付け足さなかった。
「それは本当にうらやましい……。この世界に、4頭の竜すべてを見たことのある人間は数えるほどしかいないでしょう。私は若いころ竜人を研究していましたが、私も含め、実際に竜を見たことのある研究者は一人もいませんでした。いつか死ぬまでに、一度でも見られたらと願っておりましたが、なかばあきらめかけた夢でした。それが今回かなったのは、シリウス殿下がアレスタへ留学に来てくださったおかげですね」
しみじみと言う校長の目に光るものがある。
「ウェスタリアで竜人を研究している科学者達は本当に幸せです。――竜人方は、ウェスタリアでどのように過ごされているのでしょう。やはり常人とはまったく違う、創造的で有意義な生活をなさっておられるのですか?」
「まあ、常人とは明らかに違うな……」
毎日毎日、弟にベッタリくっついて離れない。
護衛とはいえ、誰がどう見ても常軌を逸した張り付きっぷりは、確かに常人とは遠い生活だ。
創造的であるかどうかは微妙だが、竜人たちは日々満足いくまで彼らの主人の傍に侍り、彼らなりの有意義な生活を送っていることは間違いないだろう。
「この部屋で竜人のお二人ともお話ししましたが、心からシリウス殿下を大切にしていらっしゃるようでした。もし殿下に何事かあっても、彼らが全力でお守りくださるのではないでしょうか。王太子殿下が大事な弟君をご心配なさるお気持ちは十分理解できますが、きっと大丈夫ですよ」
実際に黒竜アルファが、主人が小さな怪我をした際に激高していた様子を校長は思い出していた。
冷静で厳格、威厳にあふれた黒竜が動揺し、主人を守るため、即座にウェスタリアに帰る決断を下していた。
もっともそれはシリウスの説得で大事にいたらなかったが、彼らが主人の危機に際してのんびりしているとは思えない。
「黒竜公閣下にも大学で講師をしていただいておりますが、今日もいつもどおりに授業をして下さっております。生徒たちに大変な人気で授業を受けるのも抽選になっているようです」
校長は言わなかったが、彼女自身も変身魔法を用い、顔だけ若返った姿でこっそりアルファの授業を何度か受けた。
竜人の授業をどうしても受けてみたかったのだった。
「アルファの授業が人気……」
ルークには想像し難い光景だった。
だが何にせよ、今日、大学でアルファが普段どおりだというのなら、ここはとりあえず安全だということなのだろう。
ではやはり外で何かあったのだ。
それもカイルの動揺ぶりを見ると、祝賀パレードか、もしくはパーティでのことに違いない。
校長には学園内のことしかわからないだろうから、これ以上聞き出すのは無理そうだった。
「もし迷惑でなかったらシリウスの授業を見学できるだろうか」
「かまいませんが、シリウス殿下のご身分を明かさないようにするためには、王太子殿下もご身分をお伏せにならないと」
「この格好では不十分かな」
ルークとロンは今日、腰には短剣しか帯刀しておらず、貴族や王族というより育ちのよい青年といった雰囲気のスーツを着ていた。
だがジョウとモリスはどう見ても騎士の出で立ちだ。
騎士団の制服ではなかったが、物々しいロングソードと膝裏まであるマントだけでも、旅人ではありえない訓練された青年達だとわかる。
態度も立ち居振る舞いも、ルークを護衛していることは一目瞭然だった。
校長は少し考えたが微笑んだ。
「まあシリウス殿下も、ご本人はお隠しになっているおつもりですが、同級生たちには地位のある貴族の少年だと思われているようです。外見もそうですが、お育ちになった環境で覚えた居振る舞いは簡単に隠せませんから」
「ではこのまま行っても?」
「みなさんがルーク殿下を敬称つきでお呼びしたりしない限りは大丈夫でしょう。――そろそろ昼休みですから、弟君とお食事をご一緒なさっては?」
穏やかな微笑みを受けて、ルークもようやく学園への信頼を感じ頷いたのだった。
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シリウスの担任であるショーンが午前の授業を終えて廊下に出ると、そこに4人の若者と一頭の狼が立っていた。
そのうち二人は身なりも良くどこかおっとりした雰囲気があったが、後ろの二人は剣を下げマントを羽織り、いかにも騎士といった風情だ。
見たことのない青年たちだったので驚いて立ち止まると、身なりの良い青年のうち背の高いほうの人物がショーンに向け堂々とした笑みを向けた。
「はじめてお目にかかる。私は……」
青年が名乗ろうと口を開きかけたときだ。教室から喜びに満ちた声が響いた。
「兄上!」
ショーンが開けっ放しにしていた横開きのドアからシリウスが飛び出してきた。
兄上と呼んだ青年に抱きつき頬を摺り寄せる。
廊下に立つ青年たちも、たちまち固かった表情を緩め笑顔になった。
「兄上が会いに来てくれると思ってなかった! 道に迷ったりしなかった?」
「学園まではカイルに案内してもらったんだ。――それよりシリウス、兄上は担任の先生にご挨拶の途中だったんだよ」
兄にそう言われると、シリウスはハッとしたように紫の瞳を見開いて兄から離れ一歩下がった。
ショーンはシリウスが兄を紹介してくれるのかと思ったが、シリウスはそうしなかった。
兄がいるのであれば出しゃばるべきではないと心得ていたからだ。