美雪
美雪の通う大学が夏休みに入ったのは七月の中旬。
それから先、二ヶ月は完全に自由な日々が約束されている。
さっそく、詩織やマコたちが長期の旅行計画に誘ってくれたが、美雪は後ろ髪を引かれながらも丁重に断った。
この夏休み、美雪は卒論のフィールドワーク作成に専念するつもりでいた。
詩織は
「そんなに真面目になんなくてもいいじゃん。もっと気楽にいこうよ」
と、無責任に言う。
が、詩織自身、落第と進級の狭間で危ういフライトをしているのを、美雪は傍で見守り続けていた。
彼女の二の舞を踏みたくはなかった。
むしろ、美雪の真面目さは詩織の大雑把な性格を反面教師にした結果維持されているとも言える。
とにかく、美雪はこの夏休み、勉強の鬼となって机に打ち込む予定だった。
美雪がその噂を知ったのは七月も残り数日を切ったころ。
とある新聞記事に載っていた事件をネット検索したときだった。
記事には次のような事件が記載されいた。
町の郊外にある小学校裏手のプールから清掃員と思われる四十代の女性の死体が発見されたこと。死後三日が経過しており、状況から物取り目的の強盗だと推察されること。事件発覚から一週間後、地元の三人の高校生が殺人容疑の共犯で逮捕、少年らが自白したことで事件は解決した、というものだった。
大学の図書館で郷土史を調べていた美雪は、殺人事件など数年に一回起きるかどうかというこの平穏な町で、過去にこれほど無残な事件が発生したことに興味を持ち、ネットでもっと調べてみることにした。
ヒットしたいくつかのページを開いて、掲示されたトピックを読み流していくが、特に取り立てるような事項は見つからなかった。
少年らの犯行動機も、様々な仮説が出された挙句、公判の「金銭目的と集団心理の特殊状況下による殺人」という結論に行き着いたらしい。
つまり、現代ならばどこでも起こりうる常識の範疇の犯罪事件というわけだった。
美雪とて、「事件の裏の隠された真実」などを期待していたわけではなかったが、この程度の事件ならば郷土史研究の枠に入れるわけにもいかなかった。
しかし、美雪の関心を引いたのはその事件の記事にくっついて現れた都市伝説を扱うオカルトサイトだった。
―――何か関係でもあるのかな
軽い気持ちでそのページを開くと、おどろおどろしい如何にもな色調のページに導かれた。そのホームページには古今東西のいわくつきな噂話の解説ページがぎっしり集まっていた。
陰謀、宇宙人、UMA、秘密結社、宗教、幽霊、現代妖怪、………。
その中の片隅にある小さなページが、ヒットしたキーワードを含んでいた。
「ゴミ捨てプールの花子さん」
内容をまとめると以下のようになる。
1、その昔、ある町の小さなプールで「花子」という名の女性清掃員が殺された。
2、そのプールはとあるアニメの舞台にもなったところで、ファンの間ではそこそこ有名だった。
3、彼女の怨念なのか、それとも元々の運命だったのか、プールはやがて閉鎖されてしまった。その後、プールはもっぱら地元住民のゴミ捨て場のようにされていた。
4、ある時を境にネット上で、このプールに夜中に行くと、死んでからも掃除をしている花子さんの霊が見られる、という噂が話題になる。
5、よく聞かれる話によると、夜、花子さんはゴミだらけのプールの中でデッキブラシを使って掃除しているという。もし、その時、プールになんらかの手出し(ゴミを捨てる、物を落とす、など)をすると、花子さんに水中に引き込まれて溺死させられるのだという。
6、事実、そのプールの付近で数人の人間が行方不明になるという事件があったことは確実だった。
7、が、やはり、この噂も一過性のものに過ぎなかった。近年は幽霊についての新しい目撃情報はなく、行方不明者も皆無。すでにその筋でも覚えている者はほとんどいない。
と、こう締めくくられていた。
美雪はしばし、読んだ内容を吟味する。
―――よくある怪談だ
美雪は鼻白んだ。
こんなものをフィールドワークに組み込んだら物笑いの種になる。
美雪はさっさと忘れてもともとの作業に戻っていった。
図書館を出たのは閉館間際の午後八時。
昼間のうだる暑さはなく、人の肌にちょうどいい温度になっている。
美雪は頭痛を緩和しようと目元を揉んでみるが効果はあまりない。
首を回すとゴキゴキと骨が鳴る。
夏の夜空に満天の星。
しかし、最近の不健康な生活のせいですっかり女子的な感覚は擦り切れてしまい、とても感傷的な気分にもなれない。
美雪はトボトボと家路に着いた。
足取りに力はなかったが、なぜだか心はとても満たされている気がする。
目的にたどり着くまで毎日を懸命に過ごしている。
詩織やマコがなんと言おうと、美雪は今の生活に不満などなかった。
しかし……
―――もっと気楽にいこうよ
詩織の快活な物言いを思い出す。
詩織は本当に楽しそうだ。それが全身からにじみ出ている。
マコだって最近恋をしているらしく、しきりにその手の話題を出してくる。
私たちは若い女の子で、あの二人はそれを全力で実行していた。
「それに比べたら私なんて、まるでオバサンみたい・・・…」
ふと、美雪は「花子さん」という幽霊の出るプールを思い出した。
なぜか、急に、冒険したくなった。
「そうだよ、夏休みなんだもん。たまには息抜きしてもいいよね」
美雪は、夏らしく、肝試しをすることを思いついた。
彼女には元来、その手のものに対する興味があった。
大学で専攻するにあたって選んだ科目も、そのこの世ならざるモノに対する憧憬があったからだった。
美雪は、昼間にチェックしたプールの住所を頼りに道を進んでいった。
この町で生まれて、この町で育ち、この町を調べている彼女にとって、住所さえわかっていれば、行けないところなどなかったのだ。
大して苦もなく、美雪は雑木林を探し出した。
木々を透かして向こう側に小学校の白い壁が眺望できた。
美雪の心はドキドキとはずんでいた。
サァーッと吹き抜ける風、無数の葉が擦れ合う黒々とした木々、街灯よりも明るく地上を照らす蒼い月光。
まさに、怪談の舞台となるにふさわしい条件は揃っている。
ここ最近、書物と睨めっこしていた美雪とって、こんなに刺激的なことは久しぶりだった。
美雪は恐れもせずに雑木林に踏み入った。
さっきまで感じてた疲労や倦怠はどこかに吹っ飛んでいた。
林は案外短く、すぐに例のプールが見えてきた。
周囲を取り囲んだ金網には、誰の仕業か人が通り抜けられるサイズの通り穴が開けらていて、侵入するのは簡単だった。
サイトの記述通り、プールは無数のゴミ袋で埋っていた。
燃えるごみだけでなく、燃えないごみや、空き缶空き瓶、タバコの吸殻まで水に浮いてた。
これらゴミの山は、一体、何年ここに放置されて来たのだろう。
ムッと鼻を刺す刺激臭、腐敗臭、かび臭さ、たくさんの種類のニオイが渾然一体としてプール周辺を覆うように塞いでいる気がした。
―――もしかしたら、この悪臭は保護膜なのかもしれない
この地に他者を寄せ付けないための障壁。
安息を邪魔するものを追い払う防衛手段。
―――殺された花子さんはどういう人だったのだろう
美雪は、ぼんやりと、そんなとりとめもないことを考える。
嗅覚はこの攻撃的な悪臭にさえも適応しつつある。
硬質な月光を受けたゴミ山は汚らわしさを陰に溶かし、別の何かに変貌したようにも見える。
浮いたゴミ袋はデコボコな丘陵となり、角ばった電化製品は在りし日のように機械的に輝き、陰影を施された細部にはある筈のない相貌が表情を伴って現れた。
蒼い光を吸い込んだ濁った水をよく観察すると細かな粒子が銀色の光を反射させていた。
一場の幻想かもしれなかったが、そのとき、この陰惨な場所は間違いなく美しかった。
が、その仮初の美は月が雲に隠されたことでたちまちにして消え失せた。
美雪は慌てた。
もう一度、さっきまでの絵画のような風景を目にしたかった。
このとき、美雪の思考は悪臭と幻想とによって著しく麻痺していたのかもしれない。
美雪は何を思ったか、落ち葉にまみれて転がっていたデッキブラシを手にとって、プールに近づいていった。
「もう一度、キレイにしなくちゃ……。掃除しなくちゃ……」
美雪はデッキブラシを汚い水に突っ込み、かき回し出した。
彼女自身、自分が意味不明な行動をしているとは一欠片も思わなかった。
ただ、自分は掃除している、と思い込んでいた。
と、水中に没していたブラシの先端におかしな手ごたえを感じた。
底に沈んでいたゴミにぶつかったのかと思い、引き離そうとしたが、手ごたえは重くブラシにまとわりついていた。
美雪は腰に力を込めて引き抜こうとしたが、泥にでも埋ったようにまるで微動だにしない。
ヤケクソ気味に体重を後方に乗せて柄を引っ張る両腕に全力を込めた。
すると、底で引っかかっていた物が軽くなり、水面に浮き上がってきた。
美雪はそれを見ようとしたが、暗闇の、しかも真っ黒い汚水に浮かぶものの見分けなどつくはずもない。
と、雲が切れて再び月光がさし込んできた。
美雪は悲鳴を上げて飛び上がり、デッキブラシを投げ捨ててプールから逃げていった。
浮上してきたのは水を吸って膨張した女性の死体だった。
それから、一週間。
美雪は高熱を出して寝込んでいた。
暦は八月になっていたが、当初の目的だったレポート作成の予定は大幅に遅れていた。
熱のピークは二日目であり、そのときは悪夢と苦痛が同時に押し寄せて、一時は死を覚悟しさえした。
その後も、日常的に悪夢を見ていた。
悪夢の内容は思い出したくもない、あの夜に見た水死体だった。
デッキブラシで引き上げた死体は、夢の中では「花子さん」となっていた。
花子さんはブラシでプールをかき回した美雪を恨んでいるようだった。
死んだはずの肉体は、腐り、膿み、膨らみ、まるでまだ生きているかのように変化を続けていた。
花子さんのふやけた手がブラシの柄を掴み、美雪に向かってよじ登ってくるのだった。
美雪は耐え難い恐怖から逃れようとするのだが、夢の中では決してその場を動こうとしない。
恐いのに、逃げたいのに、嫌なのに、どうしても夢の中の美雪は逃げようとしなかった。
やがて、花子さんの粘土みたいな手が美雪の手首を掴み、眼球が腐って落ち窪んだ空っぽの眼窩とつぶれた鼻梁と舌も歯もない空洞と化した口腔が、美雪の視界いっぱいに広がり……。
「いやぁぁぁっ!」
そこで、美雪はいつも目覚める。
最近では、眠っていなくても、花子さんのことが分かるようになってきた。
ただ、ぼーっとしているだけであのプールのイメージが浮かんでくる。
夜のではなく、まだ見たことないはずの昼間の情景を鮮明に思い描くことができるのだ。
やがて、水中から花子さんが這い出してくるのが分かった。
―――やってくる気なんだ。ここまで。
美雪はいつしか、花子の来訪を心待ちにしていた。
悪夢を通して絶えず繋がっていた美雪と花子には、もはや両者の精神を分かつ境界がなくなっていた。
美雪は花子の過去を自分のものとし、花子は美雪の意思を自分のものとしていた。
美雪と花子は、秘密も悩みも共有する、本当の親友になっていたのだった。
―――花子さん……早く来てください
ジリリリリ! ジリリリリ!
「…………」
ガンガンガンガンガン!
「美雪? いないのーっ!?」
美雪はのっそり立ち上がった。
この作品は全三章から構成されています。興味を持たれた方は全て読み通すことをお奨めします。