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花子

 深い闇の支配する無人のプール。

 花子は遅い時間にも関わらずまだプールの清掃をしていた。


 デッキブラシでプールの底をゴシゴシとこする。

 腰を使った前後運動を長時間続けたせいで腰だけでなく、体中の全てが痛い。


 それでも、全体の三分の一も終わっていない。

 周囲に広がる二十五メートルの水槽を見渡して腹の底からため息が出た。


「まったく、どうして私一人しかいないのよ」


 語気荒く文句を吐き出した。

 そして、再び不毛なブラシ掛けを再開した。


 すると、プールを囲む金網の向こうで何やら物音がした。

 闇の向こうを目を細めて懸命に見透かすと、複数の影が金網の辺りで身動きしているのがわかった。

 影たちはやがて金網をよじ登りだした。


―――侵入者だ。


 にわかに、花子は体を緊張させた。


 影たちはプールサイドに降り立ち、こちらに向かって歩いてくる。

 花子はデッキブラシを胸の前でギュっと握り、物音を立てないようにこっそりと端に移動する。

 この暗い空間ならば闇に紛れて姿を隠せるかもと思ったのだ。


 影は三つあった。

 それらはちょうど、花子が身を潜めているところの真上の縁まで歩いてきて、立ち止まり、ヒソヒソと話し合っている。


 声を聞く限り、影は全員男性のようだった。


 パッと光が差した。

 彼らのうちの一人が懐中電灯を出したのだ。


「ふぅ。あちぃなぁ、もう」

「本当にここなのかよ、元ネタって」

「あぁ、間違いない」

「たしかに分かるかもな。ほら、あの飛び込み台なんかモロに下敷きにしているだろ」

「そうか? やっぱりこんなに暗くちゃよく分かんねぇな」


 彼らは懐中電灯に照らし出されるプールの各部を鑑賞しているようだった。

 花子は見つからないようにソッと首を上向きにして、彼らの足下の闇の中から盗み見た。


 一人は大きなリュックを背負った小太りの男。

 その後ろに控えているのは三人の中で一番のっぽのガリガリ男。

 懐中電灯の光を左右に走らせているのは胴を交差する鞄を肩から提げた眼鏡の男。


 花子が持つオタクという人種のイメージを体現したような三人組だった。


 そういえば、と花子は思い出した。

 このプールはあるアニメの中の舞台の題材にされたという。

 そのせいもあってか、たまにアニメのファンが聖地巡礼と称してこうして見物に来たりするのだった。


 花子にとっては単なる掃除の面倒なだけの巨大水槽にすぎないのだが、彼らは何が面白いのか写メを撮っていったり、あそこのあれはどこそこのエピソードに使われていただの、この角度があのキャラクターが立っていたシーンの再現になるだの言って落ち葉の堆積した隅にたって熱心に議論しているなど、およそ花子には理解しがたい行動をとる。


 花子はこれまでの経験上、そういう輩とは一切関わらず、ちがう世界の住人だと思うくらいの気持ちで無視するのが上策だと分かっていた。

 下手に関わっていたら仕事がはかどらない。


 しかも、中には行儀の悪い見物客もいて、タバコや飲み終えた空き缶をその辺にポイ捨てする者も少なくない。

 

 勝手にゴミを捨てられては迷惑です、とさすがに注意らしきものはするのだが、正直にゴミを拾ってくれる者は少数で、たいがいは耳に入らなかったようにシカトするか、嫌な顔してゴミを拾ってまた違う場所の捨てて行く者などばかりだった。


 もともと、花子は他人に対して強く出られる性格じゃなかった。

 だから、他人に注意する時は弱弱しく尻込みしていて、注意というよりもお願いをしているかのような様子だった。


―――もごもごしてないではっきり言いなさい!

―――ねえ、今なんて言ったの? あんたの言葉って全然聞き取れない

―――お前さ、もう社会人だろ? もっとちゃんとしろよ

―――次の仕事もあるんだからモタモタトロトロしてんじゃないよ!

―――役に立たねぇんならせめて笑ってみろよ、このブス!


 様々な人たちに叱られてきた記憶が付随する。

 もう誰に言われたのか覚えていないけど、言われた時の心の痛みだけは確実に覚えていた。


 花子は胸中にずっしりとぶら下がる岩石を噛締めた。


―――もしも、ゴミを投げ捨てるような真似をしたら絶対に許さない


 握り締めたデッキブラシが軋みをあげる。


「結構、面白いな。なんか作品の中にいるみたいなっていうかさ」


のっぽ男は体に似合わない甲高い声だった。


「面白い? こう汚くちゃそんなもん全然面白くねぇよ」


 小太りが鼻を鳴らす。


 花子は総毛立った。

 自分の清掃を非難されたように思ったのだ。


「まあな。ここ、全然掃除されてないんじゃね?」

―――今もこうして遅くまで頑張って掃除しているよ


「本当にな。いい加減かたづけろよって感じだ」

―――余計なお世話だ


「そういえばさ、昔、ここを毎日掃除していたこわーいオバサンの話、聞いたことある?」


 眼鏡の小男が懐中電灯を振りながら言った。


 花子の心臓が跳ね上がった。


「いや。なんだそれ?」

「いつもこのプールを掃除している無表情のオバサンでさ、客のことは完全に無視してるクセにちょっと騒いだり小さなゴミ捨てただけで口を出してくるんだよ」

「いや、それは捨てたほうが悪いだろ」

「でも、そのときの注意の仕方が傑作でさぁ。肩のあたりをちょんちょんと突いてきて振り向くとそのオバサン、下を向いたまま『ご、ご、ごみをすてないで、く、ください……』みたいにブツブツ言ってんだってさ」

「うわっ、キモチワルッ」

「だろ? しかも相手が男だと顔を真っ赤にして声も高くなってさらに早口で、もはや日本語しゃべってんのかも分からないレベル」

「ははは、ホントにキメェ」

「ネットでも結構話題だぜ? プールババァなんて名前つけられてさ」


 花子は痙攣したみたいに体を震わせていた。

 すさまじい羞恥と怒りが血液を沸き返らせていた。

 額よりにじみ出た冷や汗が気味悪く目元を濡らす。


 穴があったら入りたいという気持ちはこのことだった。

 ぴっちり蓋をして深い穴の底に寝転んで死んでしまいたかった。


 もう、足腰に力が入らず、いまにも膝を突いてしまう瀬戸際である。


「なんかそこまで聞くと逆に会ってみたいな。そのオバサンに」


 小太りが冗談交じりに言う。


「あぁ、それは無理だな。声だけなら誰かがレコーダーで録音したものが動画サイトにアップされてるけど」


 と、眼鏡の小男。


「あはは、ひでえな。そのオバサン、世界デビューだな」


 のっぽの乾いた笑い。


「無理ってどうして? 会えないのか?」


―――会いたきゃ下を見てみなよ


 花子はいきなり飛び出して連中を恐怖のどん底に陥れてやりたい衝動に駆られた。


 それでも、長年の忍耐と自制の精神が彼女の暴挙を押し止めていた。


 眼鏡の小男はもったいぶった口調で続ける。


 「無理なんだよ…・…死んだんだよ。このプールでさ」


 花子の呼吸が止まった。


 小太りとのっぽは驚いて目を見開く。


「死んだ?」

「そう。何年か前にニュースになっていたけど、たしか、夜中に一人で掃除していたオバサンが数人の若者に襲われて、財布を盗まれたうえにリンチされて殺害されたんだと」

「うわっ、マジかよ」


 小太りは眉をしかめる。


「んで、死体が発見されたのは事件発生から三日過ぎたころだったらしい」

「なんで死体発見が遅れたんだ?」


 のっぽが興味津々といった感じで眼鏡の小男に質問する。


「そのオバサン、会社でもほとんど忘れらたみたいな存在で、重要な仕事は一つも任されていなかったらしいんだ。このプールの清掃も体面上継続しているだけのクビ待ち業務だったわけ。それで、上司も出勤しないおばさんことは知ってはいても、ついに辞めてしまったかと特に気にもとめなかったらしい」

「それでも、ここは町中のプールだぜ? さすがに誰かが気づくだろ?」

「まぁな。でも、町中つっても西と南は雑木林、北側に小学校があるがでっかい木のせいですっかり隠れている。東には誰も近づかない廃工場跡。加えて事件が起こったのは四月の初め。まだまだ、利用しようなんて人間のいない時季だ。発見が遅れたのも仕方ない話だろ?」

「で、死体発見時はどんな様子だったんだ?」

「凄かったらしいぜ。なにせ春先に三日間も放置されてたんだ。蠅やら蜂やらがブンブン飛び交って死体に食らい付いていたらしい。おまけけに水に浸かってたもんだから肉もふやけて、ドロドロに腐ってたって話だよ」


 小太りはウゲ~っ、と渋い表情をつくった。


「そんな話聞きたくなかった。せっかくの観光が台無しだよ」

「まぁ、でも、このままじゃ少し物足りなかったし、心霊スポットに来た思えば面白いし」


 のっぽが小男の肩を叩く。


「そうか? 楽しんでくれたならいいけど」

「いやだいやだ、気味悪ぃ。早く帰ろうぜ」


 三人は来た時の道筋を戻っていく。


「うちで××××のゲームでもするか」

「おっ、買ったのかよ。水臭ぇな、そういこうことはまず俺に……」


 パシャ。


 水の跳ねる音に三人は黙り込んだ。


「なんだ?」

「なにかいるのか?」

「犬か猫じゃないか?」


 眼鏡の小男が懐中電灯の光をプールの方向に向けた。


 光の中に出たのはプールから這い上がってくる女性の姿だった。


「「「う、うわぁぁぁぁぁぁーっ」」」


 三人は一目散に逃げていった。

 焦った三つの人影が我先に金網につかみかかり、蠅を叩きつけるみたいに次々と向こう側に落ちて、草むらをガサガサかき分けながら逃げていった。


 花子は元の位置に戻って嘆息した。


 連中を驚かせることには成功したが、彼女の心の中はそれを喜んでいる場合ではなかった。


―――私が死んでいる


 そんな馬鹿な。ありえない。

 きっとあの眼鏡の小男は仲間を怖がらせるために即興のホラ話を聞かせたのに違いない。


―――だって、だって、もし本当だとしたら……


 もし、彼の話が真実ならば、彼女自身は何者だというのか。


「…………」


―――そう、じゃあ、私は何者なんだろう?


 このプールで清掃員をしていた女性は何年も前に不幸な事件に遭い死んでいる。


 それでは、今、わざわざ夜中に、プールを掃除している、


―――私は誰?


 彼女は思い出す。思い出そうとする。

 自分の本当の記憶を。


「そうだ。そもそも、花子って誰?」


 彼女は花子などという名前ではなかった。

 人生に疲れた中年女性ではないし、そもそも清掃員ですらない。


 自分が着ている服を見下ろす。

 清掃員の作業服とは似ても似つかない今流行りの私服である。


 腕に填めた腕時計はすでに日付の変わったことを示している。

 この時計だってデザイン会社に就職した後、頑張って仕事をして貯めたお金で購入したのだ。

 

 彼女の記憶は徐々に甦っていった。


 彼女は今夜、仕事仲間たちに誘われて合コンにいったのだ。

 しかし、芳しい成果は上がらず同類たちと悲しい酒を飲んだ。


 帰り道、酔ってフラフラする彼女の耳元に、彼女を呼ぶ、悲しげな声が届いたのだ。


 そして、彼女は夢うつつのまま、雑木林の中に足を踏み入れて……。

 

「くさっ!」


 不意に彼女は、周囲に漂うすさまじい悪臭に気づいた。

 臭いは下から来ていた。


 いつのまにか、彼女の腹部から下は大量の汚水に浸かっていた。

 見渡すと濁ったプール全体に大量のゴミが浮いていいた。

 それは、まるでゴミ捨て場だった。


 溜まった水には様々なゴミから溶け出した分類不能の成分が溶け出し、肌に触るとピリピリとした痛みを感じる。


 彼女はプールから脱け出そうとした。

 しかし、粘度の高い液体がへばりつくのと大量のゴミ袋に邪魔されて、思うように前に進めない。

 両手で抵抗感のある液体をかいて、遠くにあるプールの縁を一心不乱に目指しているとき、何かが足首を掴んだ。


 それは、ウナギのようにヌルヌルしていて、タコのように多くの触手を備えていて、赤ん坊のように弱々しくよじ登ってきた。


彼女は、これまで感じたことのない恐怖に心を浸し、下方より迫り来るモノに目を向けた。


 水面にふやけた女性の顔面が張り付いている。


「花子さん………」


 二本の白い腕が彼女に向けて飛び出してきた。


この作品は全三章から構成されています。興味を持たれた方は全て読み通すことをお奨めします。

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