詩織
八月某日。
連日、テレビでは猛暑がどうだこうだと報道している時季。
詩織は体調を崩した友人の見舞いにやって来た。
強い日差しとうるさい蝉の声を間近に聞きながら、四階建てアパートの階段を二回くらいのぼった頃には、腋の下や背中には汗が多量に流れ、むき出しのノースリーブの腕をヒヤリと伝っていく。
深い切れ込みの入った背中部分のシャツの隙間から庭に立つ木々の合間に吹く自然の香りを乗せた風が侵入する。
詩織は友人の部屋の前に到着した。
インターホンを押す。
ジリリリリ! ジリリリリ!
………誰も出てこない。
「美雪? いないのーっ!?」
詩織は錆の浮いた朱色の鉄製ドアを拳の脇腹で叩く。
ガンガンガンガンガン!
やがて、人間が歩いてくる音が聞こえ、鍵が回される。
「……詩織」
ドアを開けて顔を覗かせた友人の頬は土気色で、眼鏡の奥の眼差しには元気がなくて、くすんだを光を含んでいた。普通にしてても美雪は快活さから無縁な表情をしているのだが、今では病院で見かけたら余命いくらと考えるほど生気がない。
「やっぱり熱? うるさくしてごめんね」
「いいよ……いつものことじゃん」
「そう? まぁ、みんなから無駄に元気がいいってよく言われるけど」
「うん……そうね……」
「あっ、どういうこと? 美雪も私が無駄だって言いたいの?」
疲れた顔をしながらも美雪はかすかに笑ったので、安心した詩織はいつも通りの勢いで話をする。
「入って……もう熱も下がったし……お茶入れるわ」
「ありがとー! 冷たいのちょうだい。もう暑くって暑くって」
詩織は慣れたようにズカズカと上がりこむ。
リビングの中央に置かれたちんまりと可愛いテーブル、二人で座るのが精一杯のソファ、やわらかな桃色と白の調和のとれた内装、多くの小物類がところせましと並べられた女の子らしい空間の中に、唯一の角ばった物である三十五インチの大型液晶テレビが大きな存在感を発している。
「あいかわらずキレイにしてるよね。こんなにたくさん物があったら、私だったら掃除する気も起きないかも」
結露して雫が付着したキンキンに冷たい麦茶のコップを盆に載せて運んできた美雪に言うと、曖昧な笑みを浮かべた。
詩織は、美雪のそういう男だったら淑やかだとか言って褒める部分を、実は嫌っていた。物事は思ったことをストレートに口に出した方が良いと考えている詩織にとって、何事かを含んで口に出さない秘密めかした美雪の態度は、まるで馬鹿にされているように感じられるからだった。
「それよりさ、はいこれ。旅行土産とお見舞いのお菓子」
詩織は陰った気分を吹き払うつもりでわざと動作を大きくして包装した菓子箱を渡す。
「うん……ありがとう。私、誘い断ったのに……ごめんね」
「気にしない、気にしない! てか、これ買ったの別に私じゃないから。マコが美雪のためとか言って買ってきたやつだから」
「そうなんだ……。マコは?」
「それがさ、信じられる? なんか今日、彼氏とデートだってよ」
「えぇ? 彼氏?」
「そう。今日は初デートだからどうしても外せないの、って言って私にコレの渡し役押し付けたんだよ! もう、やるんなら最後までやってほしいっつうの!」
「ははは、マコらしい……」
「ホントに迷惑だわっ! それからさ、あの子ったらさぁ………」
詩織の止め処もない話題を美雪は飽きもせずに聞いていた。
美雪は時折、苦しそうに眉間に皺を寄せるが詩織に気を遣ってすぐに笑みを張りつかせる。詩織とて美雪のそんな仕草に気づいていないわけではないが、それはいつもの美雪のオーバーな仕草だと考えていたので、見て見ぬフリをしていた。
詩織が話し、美雪が聞く。
それが普段から決まりきった二人の役だった。
けれど、その日はちょっと違った。
いつもなら詩織が飽きるまで付き合う美雪が、途中で彼女の話を遮ったのだ。
「なによぉ、まだいいじゃん」
「ごめんね。今日はもう帰ってほしいの」
「どーしてよぉ。まだ来たばっかだしー、もっとお話しようよー」
正直なところ、詩織はもう帰っても良いと思っていたが、こうして、しつこく食い下がったときの美雪の困った顔が見たかったのだ。
―――こいつったら冗談も本気にしちゃうんだから。馬鹿だよね。
心の裏で意地の悪いことを考えながら、詩織はなおも美雪をからかう。
「ねぇねぇ、どうして? 私がいると邪魔?」
「ちがくて……あのね、具合が悪いからもう少し休んでいたいというか」
嘘だ。口実だ。なにか隠している。
詩織には一発でわかった。
付き合いは長くはないが、単純な美雪の隠し事など百発百中で見破れると詩織は自負していた。
「さては、美雪にも彼氏ができたの? これから部屋に来るの?」
「ち、ちがうよ……そんなんじゃないよ……」
「じゃぁ、なんなのよ? 私に隠さなくちゃいけないこと?何かいけないことでもしてるの?」
「だから……そうじゃないよ」
「だったら私に言ったっていいじゃない。あっ、そうか、美雪は友達を信用しない悲しい奴なんだー」
「……わかったよ。言うよ」
美雪は水でも浴びせられたようにショボンと俯いた。
その格好がまた詩織にとって愉快だった。
「……実は、これから友達が来るの」
「友達? だれ? マコじゃないよね」
「マコは彼氏とデートだって、さっき自分で言ったじゃん」
「うん、まぁ……じゃあ、だれのこと?」
「詩織の知らない人だよ」
「えぇ? 同じ大学の人じゃないの?」
「たぶん、違うと思う」
「へぇ。男? 女?」
「女の人」
「どういう人? 美人? ブス?」
「さぁ……」
「さぁって何よ。顔くらいわかるでしょ」
「うん。そうなんだけどね……」
なんだか妙に歯切れが悪い美雪の態度に詩織のイライラは募る。
―――つまり私には合わせたくないってことか。
詩織は少し頭にきた。
対照的に表向きのフレンドリーさが増していく。
「私の知らない美雪の友達かぁ。私も会ってみたいなー……」
「…………」
「ねぇねぇ、美雪ちゃん? 私もその友達に会いたいな?」
「でも……」
「だめぇー? どーしてもぉ?」
「えーと……」
その時、インターホンが鳴った。
ジリリリリ! ジリリリリ!
美雪がビクリと身を震わせる。
件の友達とやらが来たのだと詩織は直感した。
「はーい! 待っててくださーい!」
詩織は声を張り上げて玄関まで飛んでいった。
ドア向こうの人物はまだインターホンを鳴らし続けている。
美雪の制止する言葉を無視して声を掛ける。
「すいません、居ます居ます! 今開けますからぁ!」
鍵を解く前に一応ドアスコープから外の様子をチェックする。
何も映らない。
レンズは真っ黒な何かに塞がれていた。
なんなのか理解できなかった詩織はしばらくレンズを覗き続けた。
やがて、焦点が合ってきて何かの輪郭が形を成していった。
円形の模様。
二重三重の円環が渦巻きみたいにぐるぐると中心の黒点を囲んでいる。
渦巻きは生きているように収縮したり拡大したりしている。
それまで、微動にしなかった黒点が右斜めに向かって移動した。
それは人間の眼球だった。
何者かが外からこちらを覗き返そうとしているのだ。
びっくりした詩織はドアから飛び退いた。
なぜだかとても嫌な予感がした。
「もう、詩織ったら強引なんだから。しょうがないな、特別に紹介するよ」
後ろから美雪が近づいてきた。
しかし、詩織には振り返るだけの余裕がなかった。
見慣れているはずの美雪の顔を見るのが、とても不安だった。
詩織の脇を通り抜けて美雪はドアに手を着き、施錠を解こうとした。
詩織はやめて、と叫ぼうとした。
しかし、その前に、鍵の回る音がした。
ゆっくりと、扉が開くと共に外の光が隙間から漏れてくる。
「こんにちは、花子さん。こっちは大学の友達の……」
ゴミの塊のような悪臭が詩織の鼻を突いた。
この作品は全三章で構成されています。興味を持たれた方は全てを読み通すことをお奨めします。