第6話 「守矢神社とっても素敵なところ!(自称) ①」
芳春の穏やかな風が髪を撫でると、早苗の心も安らぐようだった。
上機嫌な朝だ。雲一つない空に掛かった太陽が、笑いながらのどかな陽光を降らせてくる。早苗はその太陽にもらい笑いをしながら、日課である境内の掃除に勤しんでいた。
「~♪ ~♪」
掃く竹ぼうきのリズムをメトロノームにして、鼻歌を刻む。お気に入りのアニメの主題歌。メロディーが進むたびにまた一枚、また一枚、木の葉を払った。春先なのにこうも落ち葉が多いのは、きっとあたりをよく天狗が飛び回っているからなのだろう。
「~♪ ~、~♪」
早苗が風祝を務める神社、守矢神社がこの幻想郷に移転して半年。それはすなわち、外の世界の常識がほとんど通用しない幻想郷の荒波に揉まれ続けて半年、ということでもある。
移転初日、博麗霊夢と霧雨魔理沙にいきなり弾幕ごっこで襲い掛かられては泣きかけ。その後の宴会で、馬鹿騒ぎをする幻想郷の住人たちに神社をめちゃくちゃにされては挫けかけ。未成年が当たり前のように酒を呷る(非)常識に付き合わされては、酔い潰れて死にかけ。そんなこんなで苦労が絶えず落ち込むことも多かった早苗だが、この日、心は未だかつてないほど晴々としていた。
朝起きた時から、ずっとこんな心模様だった。朝食を作る時も食べる時も鼻歌が止まらなくて、それを見た諏訪子と神奈子が豆鉄砲を食ったような顔をしていたのを思い出す。早苗自身も、これには内心不思議だなと感じていた。
予感がある。なにか、素敵なことが起こりそうだという予感だ。鼻歌が終わると同時にすべての落ち葉を払い終え、空を見上げれば、広がる蒼は己の心を映し出すかのよう。これはきっとなにか幸福の前触れなのだと、早苗は確かに感じていた。
その時、早苗はある音を聞く。
パン、パン、と。空気を打つ二回の高音は、参拝の際に行う二拍手の音。
「あっ、参拝客かしら?」
胸が躍った。この守矢神社は、恐らく山の頂上付近という立地条件の悪さからだろう、参拝客がほとんど訪れない。だから博麗の巫女らの力を借りて分社を建てることで信仰を集めているのだが、本社で二拍手の音が響くのは実に四日振りのことであった。
ああ、やっぱり今日は素敵な一日なのかもしれない。期待に満ちた足取りで、早苗は賽銭箱が置かれている拝殿へと駆けていく。
そして、拝殿の影から飛び出すようにして、
「あの! ご参拝の方で、す、か……」
高々と声を発し、しかし後に続く言葉は、尻すぼみに小さくなって消えていった。
「ふえ、」
突拍子もなくそんな声が漏れた。未知の力に体を支配されて動けなくなる。心拍数が跳ね上がり、頭が一気に熱くなって、思考が不明瞭になっていく。
目の前に立っていたのは、一匹の妖怪だった。ただの妖怪ではない。今まで見たことのないような美しく澄んだ銀髪、もふもふそうな大きな尻尾、そして――
……ふと、視線が合った。
その瞬間、早苗の脳が瞬く間もなく沸騰した。視線は強大な引力を以て“それ”へと引き寄せられ、もう片時も離すことができない。
(けっ、)
熱暴走を起こしぐちゃぐちゃになった思考の中で、けれども早苗は、“それ”の存在だけははっきりと己の網膜に焼きつけていた。
“それ”とは、
(けものみみ――――!!)
彼の頭の上でピクピク震える、二つの獣耳。
――守矢の巫女・東風谷早苗。
獣耳に目がない、お年頃。
○
とはいえ、早苗はこの幻想郷で暮らすこと半年だ。獣耳を持つ妖怪なんて、兎とか猫とか白狼天狗とか、既に何度も見てきている。
しかしそれでも、今回の場合はまったく例外。なぜならば相手が男で、狐で、しかも銀色の毛を持っているからだ。
ではなぜそれが例外となりうるのか、理由は至極単純。
早苗が持っているお気に入りのマンガで、ちょうどこんな感じの銀の狐が登場するからだ。
そしてその狐は、早苗がそのマンガで一番好きなキャラクターだからだ。
それだけである。
まったくもって、それだけである。
東風谷早苗。
アニメやマンガが大好きな、元高校生。
○
「あの! ご参拝の方で、す、か……」
月見は、拝殿の影から飛び出してきた少女が、そう元気よく声を上げるなり石像のごとく固まったのを見た。
この神社の巫女だろうか。青と白を基調にした涼やかな巫女服には腋の部分がなく、まるで博麗の巫女と対極しているかのような出で立ちをしていた。雛と同じエメラルドグリーンの髪の奥で、まん丸く見開かれた大きな瞳が、こちらを捉えたきりまばたきもせずに動かなくなっている。
少女にはそのまま、一向に動き出す気配がなかった。どうかしたのだろうか――そう不審に思った月見が、声を掛けてみようとした瞬間だった。
「うわ、うわ――――――!?」
少女がいきなり奇声を上げた。瞬く間もなく真っ赤に熟れた頬を両手で押さえ、どことなくうっとりとした目で数歩あとずさる。驚いているというよりかは、感激しているとでもいうかのような反応だった。
「ど、どうした?」
月見も思わずあとずさりしてしまいたくなる程度には異様な反応。愛想笑いが引きつるのを感じながら問い掛けると、少女はハッとして、邪念を追い払うようにぶるんぶるんと頭を振った。
「ご、ごめんなさい! なんでもないんです、なんでも!」
わたわた両手を振り乱して、大きく二度深呼吸。表情を凛と整えて再度月見を見るも、
「は、はああぁ……」
途端、せっかく引き締めた目尻が実にあっさりと垂れ下がり、口元はふにゃふにゃに緩み、頬はうっとりと色づき、そのだらしなさといったらまさに夢見心地のごとく。
月見は今まで数多くの人間たちと知り合ってきたが、初対面でいきなりこんな反応をしてくる者は初めてだった。どう反応したらいいのかわからなくて、そしてついでに微妙に嫌な寒気を背中に感じて、頬が痙攣を開始する。
「え、ええと……私の顔に、なにかついているのかな?」
「え? いいえいいえそんなことはー……ただそのー、はい、いいですよねええぇ……」
甘い甘い、濡れた声音。……どうやらこの少女、月見の知らない世界にトリップしてしまっているらしい。
逃げた方がいいだろうか、と月見は悩んだ。
「あのぉ」
「……な、なんだ?」
そう少女に声掛けされた瞬間、月見の背筋がさっと粟立った。
なんだろう、本当に嫌な予感がする――月見が身構えた、その直後。
「一度だけでいいので、『どうか僕を、あなたの犬にしてください』って言ってくれませんか?」
逃げよう、と月見は踵を返した。
「あっ……うわあああああすみませんすみません今のなし――――!! も、ももももも申し訳ありませんつい現実とマンガがごっちゃになっちゃって、つい、つい!!」
「……」
「ものすごく不潔なモノを見る目っ!? 違うんです違うんです言い訳をさせてむしろ『貴方様の仰ることなら喜んで……』ってうわあああああまた現実とマンガがごっちゃになってる私――――――!? そして待ってください行かないでください違うんですってばあああああ!?」
顔を真っ青にした少女に腕を掴まれ、強引に引き止められる。そのまま目の前に回り込まれたので、月見はふっと横に視線を逸らした。
「あ、あのっ、おおおっおお落ち、落ち着きましょう? ここは一度、お互いに落ち着いて話し合いましょう!」
「……」
「す、すみません、目を逸らさないでくれませんか? あ、あの、こっちを見てっ……すみませんもしかして私避けられてますか!?」
「…………」
「一瞬たりとも見てもらえない!? だから違うんです誤解なんです話を聞いてくださいってばー!?」
必死に目の前に回り込もうとする少女。それに対し月見は、体ごとでくるくる回って視線を逸らし続けた。
くるくる。ぐるぐる。回りに回って段々と目も回り始めた頃。
「――ウチの早苗になにしてくれてんだこの狐があああああ!!」
「ぐは!?」
怒号とともに疾風の勢いで飛来した何者かの両足が、容赦なく月見の脇腹をブチ抜いた。
○
目の前からいきなり妖狐の姿が消えたので、早苗は思わず目を見張った。
一瞬遅れてから横の方をなにかが派手に転がっていく音が聞こえ、視線をその方へ向ければ、ちょうど彼が砂利の上を転がり切って動かなくなったところだった。
「ちょ、」
「大丈夫か、早苗!?」
早苗は慌てて駆け寄ろうとするも、飛び込んできた人影に目の前を遮られる。背後に巨大なしめ縄を据え、藍色の髪をなびかせた女性……この守矢神社に祀られる神が一柱、八坂神奈子だ。
彼女は目を見開き、思わずこちらが仰け反るくらいに強い剣幕で詰め寄ってきた。
「怪我はないか!?」
「え? あ、はい、お陰様で――じゃなくて! いきなりなんてことするんですか!?」
勢いに呑まれて思わず頷きかけた早苗だったが、すぐに我に返ると両手で神奈子を押し返し、物言わぬ屍になった彼を指差しながら難詰した。
神奈子は、不意を突かれたように真顔になって答えた。
「なにって、襲われてるみたいだったから……」
「冷静に訊きますけど、目大丈夫ですか?」
いや、先ほどは早苗もとかく彼の誤解を解こうと必死だったから、もしかしたら傍目にはそういう風に見えていたのかもしれないが――ともあれ、今は彼の無事を確かめるのが先だ。このままでは、守矢神社では参拝客にドロップキックをかます、などという不本意な風評が立ちかねない。
早苗は彼のもとに向けてすぐに駆け出そうとするけれど、神奈子は依然として食い下がった。こちらの腕を掴み、しつこく引き止めようとしてくる。「もう、なんなんですかっ?」返す声に、知らず知らず苛立ちの色がにじんだ。
「だって、妖怪だよ? しかも見知らぬ」
「知ってますよ。幻想郷なんだから当たり前じゃないですか!」
「ああやってやられたフリをして、近づいたところを襲う気かも。ピクリとしないところなんか実に怪しい」
「神奈子様が本気で蹴っ飛ばしたから気を失ってるんですよっ!」
よくよく思い返せばこの軍神、ドロップキックをかます際に両足にしっかり神力を込めていた。もし人間だったら、間違いなく永遠亭に送り届けなければならなくなっていたレベルだ。いくら彼が体の頑丈な妖怪であるとはいえ、直撃を受けたのでは気も失おう。
ああもう、と早苗は強引に神奈子の腕を振り切って、彼のもとへ一直線に駆けた。背後から神奈子の制止の声が飛んでくるが、一切構いなどしない。
「大丈夫ですか!?」
膝を折り、両手で彼の体を揺すると、少し遅れてから反応が返ってきた。
「――いったぁ……ああ、なんとか大丈夫だよ」
「ああ、よかった……」
それから彼が体を起こそうとしたので、咄嗟に腕を伸ばして支える。すると柔らかい笑顔で「ありがと」と返され、それがまた、件の狐のキャラとダブった。決して顔立ちが似ているわけではないのだけれど、そのキャラと同じ銀髪の狐というだけで、どうしても頭から離れなくなってしまう。
そして、改めて強く思う。やっぱり、「どうか僕を、あなたの犬にしてください」って言ってみてほしいなあ、と。
この笑顔でそんなこと言われたらと考えると、こう、心の奥底から、なんだかムラムラしてきた。おお、けしからんけしからん。
「……お前、なんかまた失礼なこと考えてないか?」
「うええぇっ!? い、いえいえもう全っ然そんなことっ!?」
「……そうか」
いけない、なんだかまた不潔なモノを見る半目で見られてしまった。とりあえず一旦落ち着こう。
――でも、逆にこういう目で見られるってのも……。
「さて、早く帰らないとな……」
「うわーすみませんすみません! 大丈夫ですよ守矢神社とっても素敵なところ!」
ふん! と早苗は心頭滅却、気力と根性ですべての雑念を頭の中から追い払った。
「……もしかして、私の勘違いだった?」
同時、背後から神奈子が恐る恐る尋ねてきたので、非難の半目を向けるとともにはっきりと頷いてやる。
「だから言ったじゃないですか」
「わ、悪かったよ。ええと、そこの狐も――」
「うん、まったく相変わらずだなあ。神奈子は」
神奈子の言葉を遮って響いた声。それが一体誰のものであるか、早苗はしばらくの間認識できなかった。
「え?」そう声を漏らし、彼を見やる。聞き心地のよいバリトンの声音は間違いなく彼のもの。けれど早苗は、まだ彼に神奈子の名前を教えてなどいない。
であれば、彼が神奈子の名を既に知っている理由は、一つだけ。
「ア、アンタ――!?」
神奈子の表情が驚愕で塗り潰され、それが早苗の推測を確信に変えた。
彼が、くつくつと喉を鳴らす。早苗が目を丸くし、神奈子がつなげる言葉を失う先で、少年のような若さを口元に宿して微笑んだ。
「――この神社に来るのも、随分と久し振りになるね」
○
自らを月見と名乗ったその妖狐は、早苗の予想通り、神奈子――そしてこの神社に祀られるもう一柱の神、洩矢諏訪子と、昔からの知り合いであるようだった。
所は変わり、母屋の和室。そこでテーブルを囲みながら昔話に花を咲かす彼らに、早苗はただただ驚き感心することしかできない。
神奈子曰く、千年以上も昔から生きている妖怪で、早苗のご先祖様とも面識があるとか。
諏訪子曰く、尻尾がすごくもふもふしてて気持ちよくて、もう最高だとか。
後者はとりあえず置いておくとして、前者の内容は非常に興味深い。ということはこの妖狐、東風谷一族が先祖代々お世話になってきた古馴染で、早苗にとってもまったくの他人とは言い切れないことになる。
「……先祖代々お世話になってます、と言うべきなんでしょうか?」
「いや、そんな大それたものではないよ。この神社も、数十年置きで思い出した時にフラッと訪ねるくらいだったし」
「もふー……」
最後に守矢神社を訪れたのは、早苗の先々代の頃。そんなに守矢と関わりのある妖怪がいるのなら、神奈子様たちも教えてくれればよかったのに――そう思ったが、神奈子たちとしては、いつ会えるかも知れない妖怪のことをわざわざ教えようとは思わなかったらしい。
ああ、そう言われればそうかもねえ。気づかなかったよ――とは、神奈子の弁解である。
「でも、そうやって長生きしている妖怪だから、神奈子様の蹴りを受けても平気だったんですね」
「いや、まあ……平気ではなかったけどね?」
「そ、そうですよね。申し訳ないです……」
「ぐおー……」
そこで、早苗と月見は一度会話を切り、揃って月見の背後を見やった。
床に伸ばされた彼の尻尾に、諏訪子がひっついて寝息を立てている。彼女は月見のこの尻尾がかなりお気に入りらしく、昔話も早々に切り上げると、我が物顔で抱き枕にして眠ってしまったのだ。
「……諏訪子様」
「………………んー?」
こちらの呟きに対し、諏訪子の反応は数秒ほど遅れた。尻尾に抱きついたまま寝惚け眼を擦って、
「……なんだぁい、早苗?」
「なにしてるんですか?」
「なにって、抱き枕だよぅ……」
「いや、そうじゃなくてですね」
「すごぉーく、気持ちいいよぉ?」
へにゃあ、とだらしなく笑ったあと、再び月見の尻尾にもぞもぞと顔をうずめて、夢の世界へと戻っていってしまった。
ダメだこりゃ、と早苗は小さくため息。
「すみません月見さん、諏訪子様が……」
「いや、気にしなくていいよ。昔からこうだからね、もう慣れたものだ」
具体的にいつからなのかはわからないけれど、そう苦笑する彼の表情には諦観の色が見て取れた。何度言ってもやめてくれないので、もう諦めたのだろう。諏訪子を信仰する身としてはなんとも申し訳ない話だ。
とはいえ、決して羨望の念がないわけでもない。諏訪子があそこまで骨抜きにされる月見の尻尾、その触り心地はいかなるものや。是非とも触って確かめてみたい。
だが、初対面でいきなり“あんなこと”を言ってしまった手前だ。これ以上彼を困らせるようなことをしては、いよいよ愛想を尽かされてしまうだろう。
――今は我慢よ、東風谷早苗……!
せっかく巡り会えた銀色の狐だ。ここはなんとしてでも友好的な関係を結んで、気軽に冗談を言い合えるくらいに仲良くなって、いつか「どうか僕をあなたの犬にしてください」と言ってもらうべきである。
お気に入りのマンガの、お気に入りのキャラの、お気に入りのセリフ。それを彼の口から言ってもらえたなら、きっと早苗の生涯に悔いはない。
「諏訪子は、相変わらずアンタの尻尾が好きなんだねえ……」
早苗がそんなふしだらな目標に向かって燃え上がっている脇で、諏訪子の寝顔を眺めながら、神奈子が苦笑で目を細めた。
「まったく、ホントにしょうがないやつだよ。諏訪子もまだまだ子どもだね」
「ああ、そういうお前も興味津々だったもんな、この尻尾」
「!? ……な、なんのことかな」
神奈子の肩が一瞬ビクリと震えたのを、早苗は決して見逃さなかった。
月見もそれを知ってか、これ見よがしに声の調子を上げて続ける。
「ここしばらくは自重してくれるようになってたけど、そう、昔は諏訪子とよく取り合いを」
「わ、わあわあわあ!」
顔を真っ赤にして両手をバタバタさせる神奈子は、明らかに早苗の様子を気にしていた。恐らくは神として、自らを信仰する人間に恥ずかしい姿は見せられないというのだろう。
けれども早苗は、神奈子が月見の尻尾に興味を持っているとしても一向に構わないし、むしろ賛同すらする。ああ、出会い頭で“あんなこと”を言ってさえいなければ、今頃三人揃って彼の尻尾をもふもふしていただろうに。本当に軽率だったと、早苗は過去の自分を叱責した。
月見と神奈子のやり取りは続く。
「あとはそう、いつだったかお前が尻尾にひっついたまま眠ってしまって――」
「ちょ、ちょっと待って、それは待」
「――あんまりにもきつく抱きしめて寝たものだから、尻尾に跡が残って大変だったんだ」
「うわあああああ!?」
そしてその暴露で、神奈子の羞恥心は限界を迎えた。絶叫とともに月見に跳びかかり、押し倒さんとする勢いで彼の胸倉を掴もうとして、
「む~、うるさいぞぉ!」
「ガッ」
安眠を妨げられて怒った諏訪子が、神奈子を弾幕で吹っ飛ばした。畳と平行になって飛行した神奈子の体は、そのまま慣性に従って隣の部屋へ。ガシャーンと派手な破砕音を立てて墜落し、それっきり沈黙した。
「……むふー」
邪魔者を見事撃退した諏訪子は、満足げな表情で一つ頷き、再び月見の尻尾に顔をうずめて夢の世界へ。早苗は必死の作り笑いを顔一面に貼りつけ、なにが起こったのかを極力理解しないように務めていた。特に隣の部屋がどんな惨状になってしまったのかなど、想像すらしたくもない。
神奈子は、いつまで経っても戻ってくる気配がなかった。超至近距離での直撃だったし、気絶したのだろう。
そこで早苗は、ふと気づいた。神奈子は気絶し、諏訪子も早々に夢の中に帰っていってしまった現状、起きているのは早苗と月見だけ。……事実上、月見と二人っきりのシチュエーションだ。
なので早苗は、改めて月見の容姿を観察してみた。
繰り返すが、早苗のお気に入りのキャラクターには決して似てはいない。銀の狐という共通点こそあれ、髪はそれよりも少し長めだし、面差しも柔和で整っているのだけれど、宿るのは包容力のある大人びた優しさだ。あのキャラクターのような、異性を誘惑する“甘さ”ではない。
例えばあのキャラクターの絵を隣に置いて、彼の顔と見比べたら、ほとんどが口を揃えて「似てない」と答えるだろう。早苗だってそうする。
しかしそれでも、彼に対する関心がなくなるわけではなくて。
「月見さんは……その、マンガとかアニメが好きな女の子についてどう思います?」
言うまでもなく早苗自身のことだ。月見は外の世界で人間と一緒に生活していたというから、きっとそういった文化について思うところもあるだろう。
この手の文化は、外の世界では多くの若者から人気でこそあれ、一部からの風当たりが悪いのもまた事実だった。一体彼は、どちら側の意見を持っているのだろうか。
もし好意的なら今すぐあのマンガを布教しようと思うし、あまりよく思っていないようなら、色々お話をして魅力を伝えて、理解してもらいたいと思った。そうでなければ、彼に「どうか僕をあなたの犬にしてください」と言ってもらう夢は到底成し遂げられるはずもない。
問われた月見は、ふむ、と諏訪子の頭を撫でながら思案した。
「残念ながらそういう文化には、決して詳しくないのだけれど」
でも、と微笑み、
「いいことだと思うよ? 好きな事に夢中になれるのは、素敵なことだ」
「そ、そうですか」
割かし好意的な返答に、早苗はほっと胸を撫で下ろした。これからの自分の頑張り次第で、夢を叶えることも充分に可能だと思った。
――よし、頑張ろう!
ふん! と心の中で意気込み暴走する早苗を、幸か不幸か、止めるような者はこの場にいない。
じゃあまずは、私が外の世界から持ってきた一般向けのマンガを紹介してみよっかな――そんなことを考えて、早苗が腰を上げようとした折だった。
「早苗さーん。早苗さ~ん。いますかー?」
開かれた縁側から不意に強い風が吹き込んできて、さわさわ髪を撫でられる。そして併せて聞こえてきた少女の声で、そういえば、と早苗はあることを思い出した。
(文さんが、私に取材したいって言ってたっけ)
幻想郷中を飛び回る鴉天狗の少女、伝統の幻想ブン屋――射命丸文。守矢神社が幻想入りしておよそ半年、今の早苗の心境やこれからの展望について色々と記事にしたいと、先日申し出があったのだ。月見のような妖狐と会えたのが嬉しくて、すっかり忘れてしまっていた。
「あっ、お客さんみたいですね……。月見さん、」
少し、お時間をもらってもいいですか? ――その言葉を、早苗は気がついたら飲み込んでいた。
月見がなにやら、頬をひくひく引きつらせて、目頭を押さえている。
「……どうしたんですか?」
問えば彼はすぐに顔を上げたが、その眉間にはほぐし切れなかった皺がたくさん刻まれていた。
「いや、今の声……射命丸、だよなあ」
「ええ、そうですけど……」
ああ、と月見が天井を仰ぐ。早苗は思わず目を丸くした。彼がこうやって、この場に文がやって来たことを快く思っていないのが、意外だった。
だって月見はとても人当たりのよい性格をしていて、誰かを露骨に嫌って避けたりするような妖怪だとは思えなかったから。
「文さんが、どうかしたんですか?」
「いやね……」
「――あ、いたいたっ。早苗さーん、取材にやって来ましたよー!」
月見が応えるのを渋っている内に、縁側の方から件の文の声した。早苗が振り返れば、縁側の向こうから笑顔で手を振っている彼女の姿。
「おはようございます、文さん」
「おはようございます早苗さん! 今お時間大丈夫ですか――って、え」
文の時間が止まる。視線が向かう先は、早苗の奥、銀の妖狐。
奇妙な沈黙がやって来る。時間の流れから取り残された文と、顔を押さえて大きなため息を落とす月見。二人の間に板挟みにされ、居心地の悪い早苗はおろおろと視線を彷徨わせるのみ。
最初に動いたのは月見だった。意を決したように顔を上げ、努めて貼りつけた作り笑いを以て、
「や、やあ」
そう挨拶した瞬間、文は叫んでいた。
「なんであんたがこんなところにいるのよ――――――!!」
早苗が思わず体を竦めるほどの大絶叫だった。そんなことをしてしまえば、当然、眠っていた諏訪子が癇癪を起こして飛び起きる。
「だから~、うるさいんだよぉ!」
同時に放たれる弾幕。早苗は慌てて頭を下げた。その上を諏訪子の怒りをありありと宿した弾幕たちが通過、引き寄せられるように文へと迫る。
文は、月見がここにいることに対する驚愕で大目玉を剥いていて、反応が完全に遅れた。
「――え?」
直撃。
「ふにゃあああ!?」
彼女の悲鳴にやや遅れて、ズジャア、と地面を滑る勢いのいい音が聞こえてくる。安全を確認した早苗が頭を上げれば、守矢神社の庭に、すっかり目を回して気を失った鴉天狗の肢体が一つ。
「むふ~……」
諏訪子が心底満足した表情でまた夢の世界に戻り、部屋に静寂が満ちてくるけれど、早苗は今までの一連の流れにどう反応すればいいのかがわからなくて、ただ困り果てた目で月見を見つめた。
その目線に、月見はしばしの間沈黙し、
「……はぁ」
やがて肺の空気をすべて吐き出すようにして、大きな大きなため息を響かせたのだった。