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竹取物語 ④ 「極光の昇り龍」






 ねえ、地上の世界ってどんなとこ?


 ……なによ「知らない」って。あなた一応、昔は地上の世界にいたんでしょ? ……いや、うん、本当に昔だってことは、わかってるけど。まあいいじゃない、ふっと気になったの。ほら、教えなさいよ。


 今の地上の世界って、どうなってるのかしら。月人たちはみんなみんな地上の連中は穢らわしいやつらばかりだって言ってるけど、本当なのかしらね。あなたもそう思ってる?


 ……そうよ。ぶっちゃけ言えば、行ってみたいって、思ってる。……バ、バカで悪かったですねー。だって退屈なのよここの生活、別の世界に行ってみたいって思ったって仕方ないことじゃない。

 なんの不自由もない生活ってのも考えものよね、頭の中空っぽにしたって生きていけるんだもの。それだったら、地上はここほど文明が発達してなくて不自由が多いっていうし、そっち方がまだ魅力的だわ。――ちょっと待ってなによ「月の世界もおしまいかしら」ってどういう意味だコラ。ま、まあ、面倒くさがりだってのは否定しないけど! でも私はそれ以上に好奇心旺盛なのよ、常に新しい刺激を求める自由人なの!


 ……。

 ……ごめん、嘘。あはは、やっぱ敵わないなあ。


 うん。別に、地上の世界に興味を持ってるわけじゃないの。別に、地上の世界に行きたいって、本気で思ってるわけじゃないの。や、違うな……ええと、地上の世界に行きたいってのは本気で思ってるんだけね。うーん……。

 ぐっ……う、うるさいわね! 悪かったですねー言葉が不自由で! ああもういいわよ、私は地上の世界に行きたいんですー! 地上の世界で生活してみたいんですー! どーせ私はバカですよーっだ!


 ったく……はいはい、じゃあ最初の質問に戻るわよ。ほら、地上の世界ってどんなとこなの? 『月の頭脳』のあなただったらちょっとくらいは知ってるでしょ?

 ねえ。


 ――地上の世界って、楽しいのかしら?











 知らない世界だった。

 ――ここはどこだろう。薄暗くて、彼方までが灰色で透き通った世界だった。

 ここはどこなのか、自分は一体どうなってしまったのか、思い出そうとする。けれど記憶は曖昧で、前後不覚になってしまっていて、上手く行かなかった。

 体を包む感覚は、水面を漂うものに似ている。息を吐き出すと、こぽ、と小さな音を立てて空気の泡が空に昇っていく。

 水の中。

 でも不思議と息苦しくはない。呼吸が、できた。

 ――ここは、どこだろう。

 声が、返ってきた。


(私の中ですよ)


 頭の中に直接響く、男の優しい声だった。

 ――あなたはだれ?


(それは、些細な問題かと)


 ささい。

 ささいって、なんだろうか。

 ……じゃあ、わたしは、だれ?


(それも、些細なことです)


 わたしは、どうなるの?


(どうにも。あなたはただ、そのままごゆるりとなさっていればよいのです)


 ごゆるり。……ゆっくり、ってことかな。

 このまま、ゆっくりしていればいい。

 そうなのかな。

 ……そうなのかもしれない。なんだかいまは、とても気分がらくだ。

 このままなにも考えずに、ねむってしまいたい。


(ええ、それでいいのですよ)


 いいのかな。

 なにか、たいせつなことをわすれてる気がするけど。


 ……まあ、いいか。


 このまま、ずっと。

 このまま、なにも――


 声、




「――輝夜ッ!!」




 声が聞こえた。頭の中に響くのではない。水の中にも関わらず、耳を通り、耳朶を叩いてくる、旋風のような声を聞いた。輝夜の脳裏に立ち込めていた靄がすべて吹き飛ばされていく。夢から覚めるようにすべてを思い出す。自分のこと、今までにあったこと、どうしてこうなっているのかということを、すべて。

 輝夜は、すべてを思い出した。


(――銀山!?)


 声は、上から聞こえた。淡く光が差す空の彼方から、銀山が輝夜に向けて手を伸ばしていた。


(そうだ、私は……!)


 水の蛇――大伴御行に呑み込まれて、意識を失った。だがここは水蛇の腹の中ではない。大気の代わりに水がすべてを包み込む世界で、上下はあるが天地が存在していない。上にも下にも灰色の水だけが無限に広がっていて、まるで自分以外の生命がまったく存在していないような、自分がこの世界でたった独りぼっちであるかのような、錯覚を起こしそうになる。

 ここが一体どこなのかなんて、わかるはずもなかったけれど。

 けれど一つだけ、確かに理解できることがあった。銀山の声に耳朶を叩かれる直前、輝夜は少しだけおかしくなっていた。すべての思考を放棄して、眠ってしまおうとしていた。

 頭の中で、御行の声が響いていたのを覚えている。夢の中へ誘うように、甘い言葉を掛けられたのを、覚えている。

 姿は見えないが、この世界のどこかに御行がいる。御行が、輝夜のすべてをおかしくしてしまおうとしている。

 ここはただの水の中などではない。輝夜を現実とは違う世界に引きずり込んでしまおうとする、恐ろしい魔物の顎門だった。


(銀山……!)


 これ以上ここにいてはいけないと寒気を感じて、輝夜は銀山へと必死に手を伸ばした。けれど動いたのは右腕だけで、彼のもとへと水を掻き分けることすらできなかった。

 体が動かない。金縛りを受けたような。別の誰かに体を乗っ取られているかのような。


『――邪魔をするな、小僧!!』


 脳裏に、怒りを孕んだ御行の声が響く。姿はどこにも見えないままだ。……或いは、無限に水があまねくこの灰色の世界では、周囲に満ちる水そのものが、御行なのかもしれない。

 脳裏に直接響いたはずの彼の声は、けれど輝夜の周囲の水を震わせた。そして一度震えた水は、まるでその言葉に支配されたかのように不自然に乱れ、激しい水流となって銀山を襲った。

 灰色の中に、赤が生まれる。黒を混ぜ込んだ決して綺麗ではない色で銀山の姿を覆い隠し、水流にさらわれあっという間に消えていく。

 血だった。


(――ッ!?)


 水の流れが更に乱れる。そのたびに赤は次々と銀山の体から生まれ、水の中へと連れ去られていく。

 銀山が輝夜へと手を伸ばせば、また一つ。

 水を掻き分け輝夜に近づけば、また二つ。


(銀山……!? 銀山ッ!!)


 御行だ。水を操って、水流で銀山の体を切り裂いている。水を操る異能を得た御行にとっては、この場所では、この世界そのものが、己の意のままに動く武器となるのだ。


(やめてっ……! やめて!!)


 それが御行に向けた言葉だったのか、それとも銀山に向けたものだったのか、輝夜は自分でもわからなかった。ただ、これ以上はダメだと思った。水に溶け出した赤の量はもはや(おびただ)しいくらいで、見るだけで心臓が凍るようだった。

 これ以上は、銀山が殺されてしまう。


(ダメ、ダメだよ……!)


 ここが水の中でなければ、もしかすると輝夜は泣いていたのかもしれない。銀山は止まらなかった。どんなに傷ついても、どんなに血を流しても、輝夜に向けて伸ばされたその右手は、決して折れなかった。


(どうして……!?)


 どうして、だろうか。どうして、こんなことになっているのだろうか。どうして御行は、こうまでして銀山を殺そうとするのだろうか。どうして銀山は、こんなに傷つけられてまで、輝夜に手を伸ばしてくれるのだろうか。

 わからないことだらけだった。目を瞑ってすべてをなかったことにできればどんなに楽だろうかと思った。けれど輝夜は、目の前の光景から目を離すことができなかった。

 ――どうして、


(どうしてそんな顔を、しているの)


 銀山の顔は、静かだった。肌を裂かれる痛みに呻くのでもなく、失われていく血に背筋を震わせるのでもなく、縮まらない輝夜との距離に苛立つのでもなく、静謐の瞳で、まっすぐに輝夜を見つめていた。

 本当に、どうして、なのだろう。今にも殺されてしまいそうなのに、どうして銀山は、あんな顔でいられるのだろう。

 理解できなくて、わからないことだらけで、泣いてしまいそうで。けれど一つだけ、強く胸を焼く思いがあった。


(行かなきゃ)


 呼ばれている気がした。動かなきゃいけないと思った。動いて、銀山の手を取らないといけない。彼の右手が、輝夜を助けるために伸ばされているものなのだと。それだけは、間違いのないことなのだと、思ったから。


(動いて)


 水を漂うままの己の体へ、強く、強く呼びかける。これは他でもない輝夜の体なのだから、自分が命ぜば動くはずなのだと。

 動け。輝夜が動かなければ銀山が死ぬ。自分が結界の札を手放してしまったせいでこの世界に取り込まれて、その上助けに来てくれた銀山を殺すつもりか。このまま見殺しにするつもりなのか。

 ふざけるなと思った。


(動きなさい)


 左の指先が、震えた。


(思い出しなさい)


 左腕に、力が戻る。


(お前は、私の体)


 両脚が、熱を取り戻す。


(私の言う通りに、動きなさい)


 応じるように、心臓に強く胸を叩かれた。

 ――動ける。


(行って)


 水を掻いて、天を見上げて。

 輝夜は、叫ぶ。


「――銀山ッ!!」


 体は動いた。腕は天へと伸びた。


『姫ッ……!?』


 銀山を切り裂く水の流れが止まる。輝夜を巻き込んではいけないと焦った御行が、一瞬、水流の制御を失ったのかもしれない。

 好都合だった。水を蹴る。泳ぎ方なんてよくわからないはずなのに、輝夜の体は魚のように水を切って進んだ。地の上を走るのと同じ感覚。手を伸ばして掴み取った。

 切り裂かれ、傷だらけになって――それでも温かい、銀山の手を。


「――上出来だ」


 傷だらけなのは右腕だけではない。左腕はもちろん、着物を取れば全身がそうなってしまっているのだろう。

 だがそれでも、銀山は笑って輝夜を引き寄せてくれる。こんなに傷ついたのが、こんなに血を流したのが嘘のように、命にあふれた強い笑顔を見えてくれる。

 それを見た輝夜は、なんだか無性に泣いてしまいたくなった。心臓がぎゅうっと苦しくなって、息が詰まって、鼻の奥がつんと痛くなって、けれど決して辛くはない、温かい痛みだと、思った。


「行くぞ」

「……うん」


 頷き、銀山の手を愛しく胸に抱き締める。

 銀山がなにか小さく言葉を紡ぐ。抱き締めた彼の手から炎が起こって、ゆっくりと輝夜の体に燃え広がっていく。熱くはない。痛みも感じない。だから恐怖も驚きもなかった。ただ、暖かいと、そう思った。

 目もくらむくらいに綺麗な銀色の炎が、輝夜と銀山の体を包み込んで、そして、この灰色の世界すらをも。

 一色の、銀に染める。






 ○



 銀は、そして青に変わった。

 天色の天蓋の下、あの時御行に呑み込まれたその場所で、輝夜は銀山とともに水の底から這い上がった。


「――ッ、は!」


 肺の目一杯まで空気を取り込むとかすかに胸が痛んで、自分の体が元に戻ったのだと実感できた。頭の靄は既に晴れているし、体は指の先まで自分の思い通りに動く。そんな当たり前のことをこの上なく尊いと感じながら、輝夜は周囲を見回した。

 夏の青空と、水が満ちた屋敷の光景は変わっていない。ただ、少しだけ水位が下がっているようだった。初め飛び込んだ時は辛うじて足がつくかどうかという深さだったが、今は両脚を水底につけてなお、不自由なく呼吸ができるだけの余裕がある。

 隣に銀山がいる。水蛇は、少なくとも目に見える範囲にはいない。輝夜と銀山の前髪から水が滴り、水面を叩く音だけが、断続的に繰り返されている。


「……」


 ……あの世界は、一体なんだったのだろうか。輝夜には想像することしかできないが、もしかすると御行が創り出したまやかしの世界だったのかもしれない。あのまま銀山が助けに来てくれなかったら、自分はどうなってしまったのだろうか。それを思うと、水とは違う冷たさで全身が凍らされていくようだった。


「……ありがとう、銀山」


 傍らの恩人へと、小さく微笑む。だが返事が返ってこない。聞こえていなかったのか、銀山は体を微動だにさせることもなく佇んだままだった。


「……!」


 彼の顔を覗き込んで、輝夜は息を呑んだ。彼の肌が、まるで死人になってしまったように白くなっている。命の気配が感じられない、体温を失った不吉な青白さだった。

 ……そうだ。そうに決まっている。銀山はあの時、なに一つとして苦しい顔をしなかったけれど、水の中で彼の体はこれ以上ないほどに切り裂かれ、血を失った。

 人間の彼が無事でいられる傷では、とっくにない。

 ふと気づけば、彼の体は既に力を失っていた。


「ッ、銀山!」


 咄嗟に銀山へと手を伸ばす。水の中というせいもあるのだろうが、その体は恐ろしいほどに軽かった。命が抜け落ちてしまったように冷たくて、ほとんどなんの重さも感じられなくて、そのまま消えていってしまいそうだった。


「ちょ、ちょっと、しっかりしてよ!」

「……」


 支えた銀山の体を抱き寄せると、彼は無抵抗でこちらの胸へと落ちてくる。呼びかけても声は返ってこない。言葉を返す力さえも残っていないのか、気を失ったのか、ただ、針で開けた穴から空気がもれるようなひゅうひゅうとか細い呼吸だけが、冬の木枯らしよりも冷たく輝夜の心を冷やした。


「銀、……ッ!」


 銀山の体を抱き直した自分の手が、血で汚れている。それはすぐに周囲の水にさらわれ、溶けてなくなってしまうけれど。


「だめ……しっかり、しっかりして!」


 濡れた手で銀山の顔を汚す赤を拭うが、彼は本当になんの反応も返してくれなかった。言葉はもちろん、目を開けることも、重く閉じたまぶたをほんの一瞬動かすことすらも、してくれない。

 早くなんとかしないとと思った。輝夜は早鐘を打つ心臓を懸命に押さえつけて、まずこの水の中から出ようとした。水から出て銀山の止血をするために、とにかく足場を求めて、闇雲に水を掻き分ける。


『……なぜなのですか、姫』


 響いた声に、輝夜は動きを止めた。正面の水が静かに渦を巻き、水底から男の姿が浮き上がってくる。

 大伴御行――彼が水面に立って見下ろす瞳には、輝夜ではなく銀山が映っている。侮蔑と嫉妬と激情をごちゃまぜにした、憎悪の炎を宿す瞳で、動かない銀山から片時も目を離さない。人の姿に戻ってなお、その眼光は蛇を思わせた。

 輝夜は御行のその視線から守るように、銀山を己の中に強く抱き寄せた。特別意識をしたわけではなかったが、こいつが銀山をここまで傷つけたのだと思うと、知らず知らずのうちに輝夜の瞳も力を増した。

 その輝夜の瞳に、御行は嘆く。歯噛みし、眉を捻じ曲げ、全身を震わせて、


『なぜなのですか、姫ッ! なぜその者を庇われるッ!!』


 激情の声は、輝夜の肌を殴りつけるように強かった。思わず目を瞑り、息を殺してしまう。

 だが、心の奥から染み出してくる恐怖心を、輝夜は強い意志で押さえ込んだ。負けてたまるかと思った。呑まれてたまるかと思った。私が今ここにいるのは、銀山が助けてくれたから。銀山がいなければ、私はあの水の世界から帰ってくることはできなかった。

 だから、こんなに傷ついてまで私を助けてくれた、銀山を。

 今度こそ私が、守ってみせると。


「……なんでですって?」


 かつて弓を引き水蛇を射抜いたあの時のように、輝夜は再び己の弓に矢を番う。

 声という名の弓に、言葉という名の矢を番う。


「――守るに決まってんでしょ!?」


 叫ぶ、


「こいつは私を助けてくれた! こんなに傷ついて、もう喋れもしないくらいに傷ついて、それでも私を守ってくれた! だったら私も守るのが筋ってもんでしょうが!! 命張って私を守ってくれたんだから、私だって命張るわよ! そんなこともわからないの!? まあ、私の難題をクソ真面目に受けたあんただったら無理もないけどね!」


 私は、こんなやつには絶対に負けない。こんなやつのものになんて、絶対になってやらない。

 銀山が命懸けで守ってくれたのだから、御行を恐れて震えるだけの、弱い私はもう終わりだ。


「なんのことだって顔してるわね。あんたがわざわざここまで婚約話持ってきた時、なんで私があんな無理難題押しつけたと思ってんの? ……ああ、あんたの愛が本物かどうか確かめるためとかあの時は言ったかもね。もしかして本気にしちゃった? 残念、――遠回しに断るためだったに決まってんでしょうがッ!! 直接言ったら傷つくだろうと思って言えなかった、そんなごくごく普通の乙女心よ! 私はあの時にあんたを振ったのよ、ちょっと考えればわかることでしょうが! なに、ひょっとしてほんとにわかってなかったの? だったらいい機会だからはっきり言ってやるわ! 私は、あんたを、振ったのよ!!」


 言葉を武器にして、輝夜は己の心を奮い立たせる。決して賢い選択ではなかったろう。輝夜と御行とでは力の差が歴然だし、銀山だって気を失ってしまっているから、たとえ言葉であっても武器を構えるべきではなかったかもしれない。

 でも、それでも。

 ここまでしつこくつきまとわれて、屋敷中を水の中に沈められて、銀山をこんなに傷つけられて。

 ――ここまでされて、黙ってなんていられるか。


「あんたが私になにをしてくれたっての!? あんたの愛に応えたいって思わせてくれるようななにかを、あんたは私にしてくれた!? 気持ち悪い目で私を見て、聞き飽きた愛の言葉ばっか並べて、私の気持ちも知らずに勝手に勘違いして勝手に無茶やって勝手に死んで、その上せっかく甦っても、やったことっていったら私を襲うくらいじゃない! 言葉でダメなら力づくでとか言うつもり? 気色悪いッ! 私を手に入れるために黄泉から戻ってきた? ふざけんなッ! 誰があんたのものになんてなってやるもんですか! 私は私のもの、私が男を選ぶ権利だって私のもの! そして私は、絶対に、あんたなんか選ばないッ!!」


 笑顔すら浮かべて、誇るように。

 銀山を支える己の腕に、強い強い想いを込めて。


「あんたは相当な朴念仁みたいだから、教えてあげるわ! なにかを傷つけたり、奪ったりするために力を使う乱暴者なんて真っ平御免! あんたなんかよりもね、なにかを守ったり、助けたりするために力を使う! そんなこいつの方が、何倍も何百倍もいい男なのよ!!」


 この声は弓。この言葉は矢。すべての女に与えられた、それは確かな己の武器。

 意志を宿し、敵を貫け。


「ええ、そうよ。私は! 蓬莱山輝夜は!!

 ――あんたなんか、大ッ嫌い!!!」









 ○



 やってしまったとも思ったし、やってやったとも思った。己の言葉が水を、空気を震わせ、そして消えていくまでの数秒間、輝夜の脳裏では勢いに任せてなんて啖呵を切ったんだと青くなる自分と、女なんだからこれくらい言う権利はあると胸を張っている自分が、互いに譲らず激しい舌戦を交わしていた。

 最終的に勝ったのは、後者の自分だった。……ああ、そうだ。私は、他でもない私だけのもので。だから誰を嫌おうが、誰を守ろうが、それは全部私だけの意思であり、私だけの権利であり、他人に踏み躙られる筋合いなんてない。

 御行は目を剥き、言葉を失っていた。御行が知っているのは『かぐや姫』としての輝夜だけだったから、『蓬莱山輝夜』の言葉に呆気にとられるのも無理はなかった。

 呆然とし身動き一つしない御行がなんだかひどく滑稽だったから、どんなもんだと、輝夜は笑ってしまいたくなったが。


「……く、ふ」


 最初の反応は、輝夜の腕の中で起こった。銀山の体が小さく震え、薄っすらとではあるが、彼がまぶたを持ち上げた。

 傷に呻くのではなく、静かに喉を震わせ、笑っている。


「は、は、は」


 輝夜の腕の中からゆっくりと体を起こす。だがその力はとてもかすかで、こちらが気を緩めたら途端に消えていってしまいそうで、輝夜は彼の体から手を離すことはできなかった。

 彼が水の中に沈んでしまわないよう、その肩を支えながら。


「銀山……」


 名を呼べば、銀山は輝夜の掌に己の掌を重ねた。冷たい手ではあったが、そこには確かな命の気配があった。

 銀山は愉快げに口端を曲げて、水上の御行を見上げて言った。


「そら……振られたぞ、色男」

『――!』

「お前と一緒は、嫌だってさ。……大人しく諦めた方が、潔いんじゃないか」

『ッ、黙れ!!』


 御行の大喝に水面が激しく波立つ。銀山に言われてようやく、御行は己の状況を飲み込んだのだった。だがそれは到底、はいそうですかと二つ返事で認められるようなものではない。眉を激しく逆立て、御行は銀山へと激墳を吐き捨てる。


『私に負けた男が、なにを言うッ!!』


 対し、銀山の表情は涼しげだった。くく、と喉だけで笑って、


「まあ、確かにそれはそうかもしれないけど……関係ないだろう、今は。ただの事実確認だよ。お前は輝夜に振られたんだ」

『黙れッ……!!』


 それは、紛れもない事実だ。他でもない輝夜が、そう断言したのだから。

 しかし御行は引き下がらない。決して頷きはしない。言い返す言葉がなくとも、己を黄泉より甦らせた執念だけを以て、諦めはしない。


『――貴様の』


 そして、鬱積した怒りが御行へともたらすものは、


『貴様のせいだ』


 すなわち、妖力の開放であり、


『貴様がいなければ、今頃、私は』


 もしもこうでさえなければと夢想し、すべての原因を他人へと押しつけることによる、己への救済。


『なぜだ……なぜどいつもこいつも(・・・・・・・・)、私の邪魔をする……!』


 そして、原因を押しつけた他人を始末すればなにかが変わるはずだと、盲信する。


『貴様さえッ――!!』


 御行の足元から立ち上がった水が形作る物は、一振りの剣だった。それを握り、大きく振り上げた御行は、躊躇いなどしない。

 銀山目掛け、振り下ろす。


「ッ――!」


 輝夜は、咄嗟に銀山を庇おうとした。だがわずかに御行の剣の方が速い。輝夜が前に出るよりも先に、透き通る水の刃が、銀山の額を――


「――ところで」


 断ち切る、瞬間、風が吹いて。


「此度のかぐや姫の護衛は周到でね」


 断ち切られたのは、御行の右腕だった。振り下ろしたその剣ごと、根本から吹き飛び、明後日の水面に沈んで消えた。


『――!?』


 風が吹いている。

 風とともに、唄うように、銀山が言う。


「今回は私以上に、或いはお前以上に、かぐや姫に執念を燃やしている人がいるんだよ」


 強く風が吹き抜ける音とともに、見えないなにかが御行の体を両断する。


『なっ――』

「……え?」


 腰から二つに分かたれた御行が、驚愕の表情のまま崩れ落ち、水の底へと消えていく。ただの水に戻った彼の体が水面を叩き波紋を広げる、その光景を、輝夜はひどく呆然としながら見つめることしかできなかった。

 理解を追いつかせるには、あまりに一瞬の出来事で。

 特に驚いた風でもない、銀山の困ったような声が、耳に届く。


「そうでしょう? ……随分と、狙ったような登場じゃないですか」


 空を見上げて呼ぶ、その名は、


「――御老体」

「……!」


 讃岐造より依頼を受けたもう一人の陰陽師であり、この都を代表する実力者――『風神』。

 大部齋爾が、そこにいる。


「齋爾……様」


 空を、飛んでいた。ひどく現実離れしたものを見ているような気がした。こちらの世界で空を飛べる人間を見るのは、輝夜にとって初めてのことだった。


「……ふん」


 輝夜に美辞麗句を並べ立てていた時とはまったく違う、厳つく、鹿爪らしい面持ちで、齋爾は小さく鼻を鳴らした。銀山を見下ろし、この上なく不機嫌そうに、


「一応、役目だけは果たしていたようだな。……そのザマでは、とても褒められたものではないが」

「そんなこと言わないでくださいよ」


 銀山は、力のない苦笑で応じた。


「色々あったんです。……まあ姫に怪我はありませんので、それでよしということで」

「言い訳はするな。それが己の実力だと認め、精進するんだな」


 言葉こそ無愛想だが、齋爾の声にはわずかに銀山を叱咤する色があった……気がする。だから輝夜は、ああやっぱり、と思った。やっぱり齋爾は、表面でこそ銀山をひどく嫌っているけれど、内心ではそこまで、大嫌いというわけでも、ないのではないか。

 だからこうして、銀山の命の危機に駆けつけた。本人は銀山ではなく輝夜を助けたのだと言い張るだろうが、そんなの結果的には同じことだ。

 本当に素直じゃないなあと、輝夜は思わず笑ってしまいそうになったけれど。


「……御行は」


 すぐに、まだ気を抜くには早すぎることを思い出す。輝夜は、御行の体が真っ二つになった瞬間を見た。崩れ落ち、ただの水へと帰り、水底に沈んでいく光景を見た。

 だが、あれで終わったとは到底思えない。体を両断された程度で、あいつが終わってしまうはずがない。


 なぜなら御行は、銀山に頭を吹き飛ばされても、何事もなかったかのように復活してみせたのだから。


 動いたのは銀山だった。濡れた札で、輝夜と己の周囲に結界を展開する。低い地響きの音とともに、輝夜の目の前で大量の水が巻き上がる。巻き上がった水が、空を昇る中で水蛇の輪郭を形作っていく。人のものとも蛇のものとも判別がつかない不吉な咆吼を上げて、ひと一人を容易く噛み砕ける顎門を限界まで震わせる。

 だが、その狙いは輝夜でも銀山でもない。空を駆け上がり迫る先は、


「ッ……齋爾様!」


 輝夜が思わず息を呑むけれど、齋爾は鹿爪らしい面持ちのまま眉一つ動かさなかった。どこまでもつまらなそうに、一つ小鼻を鳴らして。


「――寄るな」


 右腕を振り払えば、大気を打つ轟音とともに、水蛇の巨体が真横に吹き飛ばされた。

 一瞬は、齋爾がその拳一つで水蛇を殴り飛ばしたのかと思った。だが違う。


「風だよ」


 答えを告げたのは、傍らの銀山だった。薄い笑みを見せて、ため息をつくように、


「『風神』、だからね」


 齋爾の二つ名――『風神』。人間でありながら“神”の一文字を許された大陰陽師は、風を己の意のままに掌握する。

 御行が、この周囲に満ちる水をすべて武器に変えるというならば。

 齋爾は、世界にあまねく大気のすべてを、己の力へと昇華させる。


『……!』


 思いがけない迎撃に怯んだ水蛇が、しゅう、しゅうと低い声をもらしながら齋爾を睥睨する。その額には、やはり御行の相貌が埋め込まれていた。


『大部、齋爾……ッ!』

「しばらく振りになりますな、大伴殿」


 御行の相貌が、今にも歯を噛み砕き、唾を吐き捨てんとするほどの深い憎悪で歪む。だが齋爾は特に意に介した風でもなく、ろくに御行を見ることすらしなかった。

 水蛇が吼える。


『やはり来ていたのだな……! わざと屋敷の警固に姿を見せ、陰陽師を呼び寄せれば、必ず貴様が来ると思っておったわ!』


 輝夜の隣で、おや、と銀山が意外そうに眉を上げた。


「これは、なんだか訳ありみたいだねえ」

「そう……みたいね」


 御行も、生前はこの都で生活をしていた貴族の一人だ。齋爾となんらかの接点を持っていたとしても、特別不思議なことではない。

 だが、深い憎悪を刻んだ御行の表情から察するに、決して友好的な関係ではなかったようだ。


「いかがでしたかな、龍を討つ旅のご感想は。私が忠告した通り、散々なものであったことでしょう」


 齋爾の声にはなんの感情も浮かんでいなかったが、言葉はなによりも御行の心を逆撫でしたようだった。蛇の顎門を再び限界まで開き、齋爾へと襲いかかる。

 齋爾は鳥さながら巧みに身を翻して躱す。併せて右腕を振って、生み出した風の刃で水蛇の体を切り裂いた。


「……なるほどねえ」

「え……なにかわかったの?」


 銀山は素早くおおよその事情を察したらしい。輝夜が問えば、彼は「ありふれた話だよ」と前置きしてから、


「わがままな顧客っていうのは、どこにでもいるものでね。……恐らく御行は、お前の難題を受けて龍の討滅に向かう際に、御老体に話を持っていったんだろうさ」

「……龍を倒すのを、手伝えって?」


 頷く。


「そして当然ながら、御老体はその依頼を却下した。龍は神獣だ。存在自体が眉唾だし、人間に倒せるような相手でもない。その上で、無謀だからやめておけ、とでも忠告したんだろうね」

「……それは」


 話の意味はわかる。だがそれが、齋爾が御行の恨みを買う理由とどうつながるというのか。

 まさか、


「依頼を受けなかったからって、それだけで?」

「いや」


 銀山は首を横に振った。そしてそこから先の言葉を引き継いだのは、御行自身の叫びだった。


『貴様が! 貴様が余計な一言を言わなければ、私が部下を失うことも、嵐に敗れることもなかった!』


 風をまとった齋爾は、また自身も風であるかのように、その叫びを飄々と受け流す。


「さて、そこまでは与り知らぬことですな。私は陰陽師として当然の忠告をした。そしてそれを聞いた貴殿の部下が、命の惜しさ故に身を眩ませたとしても、それは英断でありましょう」


 そこでようやく、輝夜にも彼らの事情を理解することができた。

 かつて御行が船を出した時、彼の周囲には、船の操縦すら満足にできないほどの寡兵しかいなかったという。それは、御行の行動を無謀と察した多くの部下が、齋爾の忠告を呼び水にして逃げ出したからだった。


「それでもあいつは船を出した。けど突如襲いかかってきた嵐を前に、少ない部下たちも一瞬で瓦解したんだろうね。結局船の操縦もままならず、そのまま海の藻屑と消えた。つまりあいつが命を失ったのは、御老体のせい、と言い換えられなくもない」

「……でも、それって」


 呻くように、輝夜は空を見上げた。水蛇の突進を躱して齋爾が右腕を振るえば、風の打撃が御行を打ち飛ばし、風の刃が体を切り裂いていく。

 ……嵐に見舞われた御行は、不運だった。船の操縦ができるだけの部下たちがいれば。或いはそもそも、船を出さなければ、彼は死ぬこともなかったろう。

 だが、それは、


「仕方ないことじゃない」


 齋爾の忠告は適切だった。それを聞いて身を眩ませた多くの部下も、自己を守るために当然のことをしただけだった。

 間違っていたのは、それでも構わずに船を出した、御行自身の蛮行で。輝夜を手に入れるためならば龍すらも超えられると、なんの根拠もなく妄信した、御行の執着で。

 それは、まるでただの自業自得では、ないのだろうか。


「そんなのであいつ……齋爾様を恨むなんて」

「恨むさ」


 だが銀山は冷徹に言い切った。目を眇めて空を見上げ、同情するのでも非難するのでもなく、静かに御行の姿を見つめて言った。


「もしもあの時に、ああでさえなければ。或いは、もしもああなってさえいれば。……『もしも』という言葉は、人の心を簡単に惑わせる。お門違いな恨みの一つを生み出すくらい、どうってことない」

「……」


 輝夜は言葉を返せなかった。そうなのかもしれないと思った。

『もしも』という言葉が、時に抗いがたい強い力を持つことは、輝夜だって身を以て経験していた。もしも今の立場を捨てれば、もしも外の世界に飛び出せばと、そう思って、輝夜はこの世界へと落ちてきたのだから。

 もしかすると御行は、今でもなお。

『もしも』という言葉に支配された己の心を、止められないでいるのかもしれない。


『ああああああああああ!!』


 咆吼が打ちつける。体を切り裂く風の刃を無視し、御行は強引に無数の水刃を放つ。だがそれらはすべて、齋爾の体を貫くよりも先になにかに弾かれ、ただの水滴となって消滅した。

 齋爾の周囲で無数の風の刃が逆巻き、彼を守る防壁を作り上げている。触れたものを容赦なく切り刻み微塵へと変える、攻守一体の結界だった。

 御行の攻撃は決して齋爾に届かず、そして齋爾が右腕を振るたびに、御行の体を風の刃が抉る。

 それは、戦いと呼ぶにはあまりに一方的な光景だった。


「強い……」

「いや、まったく」


 呆然とこぼれた輝夜の言葉に、銀山が低く笑う。


「あれは正直、半分くらいは人間やめてるね。風をあそこまで巧みに操るやつなんて、天狗の中にだってなかなかいやしない」


 風神の二つ名は伊達ではない。相性の問題もあるとはいえ、銀山があれほど手を焼いた相手を一方的に追い詰める齋爾は、間違いなく、都の頂点に君臨する大陰陽師であった。

 だが、二人の戦いを見つめる中で、輝夜は気づいた。御行の攻勢が止まらない。どれだけ体を風の刃で裂かれても、瞳を憎悪の炎だけで燃やして怯む気配がない。回避も防御すらも捨てて、齋爾を喰らおうと、切り刻もうと、吼え続けている。

 その姿はまるで、


「……効いて、ない?」

「そうだね」


 傍らから飛んできた銀山の肯定に、驚きは、しなかったと思う。銀山に頭を吹き飛ばされ、齋爾に体を両断され、それでも動き続ける御行の姿に、さすがの輝夜といえど気づきかけていた。

 御行は、


「……不死」

「かどうかは断言できないけど、限りなくそれに近い状態なのは間違いない」


 齋爾の風刃で抉られた傷が、再生していっている。


「自分が水そのものだと、あいつは言った。水に刃を突き立てても波紋が広がるだけで、すぐに元に戻ってしまうのと同じことだね」


 切られる。再生する。裂かれる。再生する。抉られる。再生する。


「水は再生の象徴だ。……少なくともこの場に水がある限り、あいつは普通の方法じゃ倒せないだろうさ」

「……じゃあ、どうすれば」


 この場に水がなければいいのか。……だが、屋敷の半分を沈めるこの大量の水をどうにかするなんて、そう簡単にできることではない。輝夜はもちろん、齋爾は御行と戦っているし、銀山だって怪我がひどくて――


「――って、そうよ! 今のうちに、止血しないと……!」


 銀山の言葉がすっかり普段通りの調子に戻っていたから、忘れてしまっていた。ほんの少し前まで、銀山は傷を負いすぎて目を開けることすらできない状態だったのだ。齋爾が御行と戦ってくれている今なら、医者は無理でも、どこかで止血だけでもしなければならない。

 けれど銀山は、首を振って。


「なに、私だってただ御老体が戦ってるのを見てただけじゃないよ」


 輝夜から離れて、確かめるように右腕を持ち上げて拳を握る動きに、幾分か力が戻っていたので。


「……怪我、平気なの?」

「平気ではないけど……怪我の治りをほんの少しだけ早めたり、切れた血管の一部をつなぎ直して出血を止めたり、痛みを誤魔化したり、その程度であれば陰陽術でもできる。気休めだけどね」

「き、気休めって……!」


 そんなの、全然いいわけがない。銀山の怪我は、気休め程度で気を抜いていいようなものではなかったはずだ。一旦ここを離れて、しっかりと手当をしなければならないはずなのだ。

 だが、それを否定するように、銀山がゆっくりと霊力を開放していく。


「……そろそろ、いいか」


 その流れを感じて、齋爾が無感情な瞳を銀山へと向けた。銀山は頷く。口元が緩く弧を描いている。大胆不敵に歪む、笑みという名の弧を。

 逆襲の意志を宿した、強い眼光とともに。


「ええ、――いつでも」


 その瞳を見て、ああそうか、と輝夜は悟った。銀山は戦いを諦めていなかった。これだけの傷を負ってなお、あとを齋爾に任せて退がるのではなく、ともに御行を討ち果たそうと時を窺っていた。

 きっと、傷は激しく痛むだろう。きっと、立つことすらまともにできる状態ではないだろう。

 それでも、彼は。


「正直、目を開けてるのも辛くてね」


 彼は、笑って。


「だからいい加減に――終わりにしようじゃないか」


 水蛇へと掲げた右の指先に、赤い炎を灯す。

 それもきっと、誰かを守るためなのだろうと。

 そう、輝夜は思った。






 ○



 爆発するように一瞬で膨れ上がった緋色の炎は、一時、輝夜からすべての視界を奪う。打ち寄せた熱風に目を瞑った、そのわずかな時間で、周囲の状況は一変した。

 体を包んでいた冷たい浮遊感が突如として消えてなくなる。危うく膝から崩れ落ちそうになって、咄嗟に両脚に力を込めて踏み留まれば、あれだけ周囲に満ちていたはずの水が一滴残さずなくなっていることに気づいた。

 代わりに身を包むのは、目も眩むほどに力強い熱気。銀山を中心として周囲に立ち上がった炎の壁が、水をすべて押し退け、内側に大地を呼び戻していた。


「――都がこの地に築かれた理由は」


 静かに、しかし出し抜けに、銀山はかく語る。


「無論、様々なものがあるわけだが、その中の一つに『龍脈』の存在がある」

「……龍脈?」


 思わずオウム返しすると、銀山から半目を向けられた。


「お前、まさか知らないなんてことは……」

「え、あ、いやいや」


 輝夜は慌てて首を横に振った。それから内心でうんうんと唸って懸命に記憶をほじくり返す。確か、この土地にやってきて間もなく、輝夜が『かぐや姫』として名を馳せ始めた頃に、最低限の教養として概要だけは教わった気がする。なんだっけ。


「……こういう使い方をするのは、人の体には毒なんだけどね」


 と、銀山の低く潜むような声に応じて、輝夜はこの場所に一つの変化が起きたのに気づいた。地面が、目を凝らさねばわからないほどかすかにだが、薄っすらと青く光っている。それに暖かい。体を炎の熱気が包む中で、それでもなおはっきりとわかるほどに。

 だから、輝夜は思い出すことができた。龍脈とは、風水に置いて重要な意味も持つ、大地の力が流れる道筋のこと。この都は周囲を龍脈が巡っていて、風水的に縁起の良い場所なのだと、翁から説き聞かされたことがあった。

 この光こそが、この熱こそが、龍脈なのだ。銀山が炎で周囲の水を押し退けたのは、龍脈を利用するため。地を強く踏み締めた彼の足裏に、大地の力が落ちるように流れ込んでいく。


『チッ……!』


 舌打ちとともに御行が動いた。銀山の周囲に大地が戻ったとはいえ、屋敷にはなおも大量の水が満ち満ちている。そこから瞬く間に水刃を作り上げ、銀山に向けて放つ、


「――まあ、そう焦るな。今少し、儂と遊んでみてはどうだ?」


 その動きよりも速く、齋爾が二人の間に身を割り込ませた。風の結界で水刃を一つ残らず細切りにすると、続け様に右腕を振って、水蛇の首に風の刃を打ち込む。


『ぐっ――齋、爾ィ……ッ!』

「貴様の不死の絡繰りは単純だ」


 子どもの問答に答えるように、齋爾の声音には退屈の色があった。


「体が水でできているが故に、周囲から水を取り込めばいくらでも再生できる――と、そういうことだろう。だからこそ、こうして屋敷を水の中に沈めたのだろうが……」


 戯れるように再び右腕を振って、水蛇の首に刻まれた傷口へと、更なる風の刃を打ち込む。


『カッ――!』

「下らんな。水がある限り何度でも再生するというならば、逆を言えば、水がなければただの蛇というわけだ」


 御行が傷を再生させるよりも速く、まさしく風さながらに。

 刻み、刻み、刻み、刻み――斬り落とす。

 そして札を抜き、紡ぐ言葉は滔々(とうとう)と。



「――束の間の空中旅行を、楽しみ給え」



 轟。

 烈風が、斬り落とされた水蛇の首を空へと高く打ち上げた。頭から切り離された水蛇の体が、ただの水へと還って崩れ落ちていく。


『ぐっ……だが、それがどうした!』


 しかし、水蛇の首だけとなろうとも、その額に埋め込まれた御行の顔に焦りはない。空中で体勢を立て直し、滞空し、蛇の瞳で眼下を睥睨する。


『水から切り離したところで、私の水を操る力に変わりは――』


 牽制するように放たれるその強い声が、ふと、しぼんだ。御行は目を見開き、呼吸を忘れ、茫然と空で身動きを止めていた。……きっと、魅入っていたのだろう。輝夜と同じで。

 風がたゆたい、星屑のような火の粉が流れ、煌めく。限界まで赤く染め抜かれた深い唐紅の炎は、しかし龍脈の力を取り込んだ影響なのか、時に青へと移ろい、そしてまた赤へと戻っていく。

 極光、だった。見る者の心を奪い、焦がす、気高い極光の炎だった。

 ――嗚呼、炎とは、こんなにも美しく燃えるものなのか。こんなにも、人の心を奪うものなのか。


「――安心しろ」


 響く銀山の言葉は静かに。



「雫も残さず、一瞬だ」



 されど刹那に燃え上がる極光の炎は、熱風だけで周囲を焼くほど凄絶に。

 轟、と響く二度目の音は、炎が雄叫びを上げた音。赤く、青く、無限に変わりゆく豪火をまとう銀山の姿が、あまりに幻想的すぎたから。

 銀山、熱くないのかなあ――なんて、そんな場違いなことを、輝夜は考えてしまって。


「そういうわけだ輝夜、火傷するから離れてろよ」

「え……あ」


 銀山に名を呼ばれてようやく我へと返ったが、輝夜はその場から動けなかった。いや、動こうと思えば動けたのだろうが――少なくとも輝夜はそうしなかった。ちょっとくらい、火傷をしたって構わないから。

 だからこの炎の征く先を、この場で、この目で、見届けたい。


「援護、頼みますよ」

「ふん……しくじるなよ」

「まさか」


 齋爾とそれだけ短く言葉を交わして、銀山は瞬く間に放つ。

 地上で煌めく極光を、天へと。



「――『龍火』!!」



 齋爾の生み出す旋風が、炎を乗せて、天へと昇る(きざはし)をつくる。炎は風を取り込み、更に爆発的な勢いを以て咆吼を上げる。

 螺旋を描き、顎門を開き、天へ。

 極光が、昇り龍へと姿を変えてゆく。


『う――おおおおおおおおおお!!』


 御行が叫び、眼下から水を呼び寄せる。

 だが、龍の牙の方が早かった。


「――滑稽な話だな」


 ふと、齋爾が言った。


「貴様はひとたび、龍が起こした嵐に敗れてこの世を去った。……そして此度は、龍直々に喰われて消えてゆくというわけだ」

『きッ――さまああああああああああ!!』

「やかましい」


 一蹴し、


「貴様の炎のような憎悪……精々、地獄の業火の火種として役立て給え」

「カッコつけますねえ、御老体」

「やかましいわ」


 昇り龍が、水蛇を喰らった。

 断末魔は響かない。それすらも、焼き尽くして。


 天色の空が、赤と青の極光で染まる。









 ○



 操る者を失ったことで、天へと巻き上げられていた水柱が砕け散り、無数の雨粒となって地に降り注ぐ。それに頬を叩かれながら、ようやく輝夜は、緊張の糸をふっと解くことができた。


「……終わったの?」


 水で体を再生させる間もなく、完全に焼き尽くされた。充満していた御行の妖気が消え、屋敷を取り囲んでいた結界が薄らいでいくのを感じる。


「ああ。お疲れ」


 銀山が周囲の炎の結界を解いた。すると押しやられていた水が一気に内側へ雪崩れ込んできて、あっという間に輝夜の足元を掬った。


「きゃあ!?」


 溺れかけた。慌てて水を掻くと指先に触れるものがあったので、藁を見つけた思いで縋りついてみれば、それは銀山が差し出していた右腕で。


「や、悪いね」

「お、溺れるかと思ったわよばかぁ!!」

「はは、悪い悪い……」


 銀山は悪びれる様子もなく笑ったが、声に力はなかった。痙攣するように喉を震わせ、まぶたを半分、下ろすと、


「……もう、……結界を維持する余裕もなくて、ね」

「あ――」


 御行があるべき場所に還ったことで、満ちていた水が吸い込まれるように地下へと戻っていく。水による浮力を失えば、銀山はもう立つことすらできなかった。


「ちょ、ちょっと……!」


 ぐったりと、輝夜の方へと倒れ込んでくるその体を、


「おい童」

「ぐえ」


 この上ない不機嫌面で、齋爾がいきなり後ろから襟首を掴んで引っ張った。蛙みたいな声を上げた銀山は、引っ張られたままの勢いで水が完全に引いた地面へと大の字で倒れ込み、やはり蛙が潰れたみたいな、変な呻き声を上げていた。


「……御老体、もう少し、優しくしてくれません、かねえ。怪我人、なんですけど……」

「黙れ」

「ちょ、齋爾様、そこまでしなくても……」

「なりませんぞ姫様、こやつは気絶を装って姫様を押し倒そうと――ぅおおお!?」


 輝夜を見た齋爾が、いきなり目を限界まで刮目して石になった。まったく予想外の奇跡を目の当たりにしたような、この一瞬をすべて網膜に焼きつけようとするような鬼気迫った表情に、輝夜はふと、自分の体に目線を下ろして。


「……ああ」


 そういえば、そうだった。

 銀山を助けようと思って、水の中に飛び込んだ時に――輝夜は着物を、脱ぎ捨てたのだった。

 なるほど。

 道理で齋爾の目線が、輝夜の胸と下半身を超高速で行ったり来たりしているわけだ。

 しかも輝夜はちょっと前まで水の中にいて、つまり今は全身びしょ濡れの状態なのだから、今の自分の姿が客観的にどう見えるのかは、とてもよくわかった。


「……齋爾様」

「――――ハッ」


 輝夜は笑顔で齋爾の名を呼んだ。齋爾ははっと我に返って、さり気なく赤くなっていた顔を一瞬で真っ白にした。

 齋爾に限った話ではなく、きっと銀山だって輝夜の下着姿は見ていただろう。あれだけのことがあったのだから、ただ言い出すきっかけを掴めなかっただけで、内心では気にしていたはずだ。

 しかし輝夜は、この姿を銀山に見られることになると覚悟した上で、あの時着物を脱ぎ捨てたのだ。危ないところを助けてもらった手前もあるし、銀山については、許す。

 だが齋爾、てめえは駄目だ。

 輝夜は己の笑みを凄絶なまでに深めて、凄絶なまでに優しい声で、問うた。


「齋爾様、――なにか、言い遺すことはありますか?」

「……いや、その、ですな」


 齋爾はしとろもどろになりながら、しかし途中でいきなり大真面目な顔になって、輝夜の頭から足先までを至って大真面目な瞳で観察した。

 そして最後に、うむ、と重々しく頷いて。


「――大変眼福でありまし」

「くたばれえええええええええええええええ!!」


 言い終わらないうちに、輝夜必殺の正拳突きが齋爾の鳩尾を貫く。


 ――水が引き、結界が解けた屋敷の中に、使用人たちが雪崩れ込んできた気配がする。一生懸命に輝夜たちの名を呼びながら段々とここまで近づいてくる、慌ただしい足音に混じって。

 齋爾が、濡れた地面に倒れる音と。

 銀山がかすかに笑った息遣いが、聞こえた。











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