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姥捨て山に捨てられたババアは最強

作者: 花流亜
掲載日:2026/07/24


 冬が来るたび、村は誰かを捨てた。


 山の神への供物などと綺麗な言葉で飾られてはいるが、実際は食い扶持を減らすためだ。


 雪深い寒村――白岩村。


 人口百二十人ほどの小さな集落では、七十を超えた老人は「姥捨て山」へ送られる。


 誰も逆らえない掟だった。


「母さん……すまねぇ」


 五十を過ぎた庄吉は泣きながら母を背負っていた。


 背中にいるのは七十五歳の老婆、おトラ。


 腰は曲がっているが、目だけは妙に鋭い。


「男がメソメソするんじゃないよ」


「だけどよぉ……」


「お前にも孫がいる。泣くくらいなら、生きて帰れ。」


「帰るのは母さんだ!」


「馬鹿言うんじゃない。」


 おトラは笑った。


 若い頃、この村一番の猟師だった。


 女だからという理由で表には出なかったが、実際には夫よりも熊を仕留めていた。


 だが夫は早くに死に、時代も変わり、鉄砲も手放し、いつしか腰も曲がった。


 今ではただの年寄りだ。


 ……少なくとも、村人はそう思っていた。


 姥捨て山の頂。


 庄吉は震える手で握り飯を二つ置く。


「母さん……」


「さっさと帰れ。」


「……」


「振り返るな。」


 庄吉は泣きながら山を下りた。


 姿が見えなくなると、おトラは大きく息を吐いた。


「さて。」


 立ち上がる。


 腰は曲がっていた。


 だが、曲がっていただけだ。


 骨はまだ丈夫だった。


「若いもんには内緒だったが……年寄りは痛いふりが一番楽だからね。」


 腰をぐるりと回す。


 ゴキゴキと音が鳴る。


「よし。」


 その瞬間だった。


 ガサッ。


 藪が揺れた。


 巨大な熊が現れる。


 冬眠前の腹を空かせた月の輪熊。


 体長二メートル近い。


「ほう。」


 熊は唸る。


 普通の老婆なら腰を抜かして終わりだ。


 しかし、おトラは笑った。


「久しぶりじゃないか。」


 熊が突進する。


 おトラは横へ転がる。


 木の枝を一本拾う。


 熊が振り向く。


「昔は槍だったがね。」


 枝を地面へ突き刺す。


 熊が飛びかかる。


 その勢いを利用し、熊の喉へ枝を押し込んだ。


 枝は折れる。


「まだ足りないか。」


 近くの石を掴む。


 思い切り鼻面へ叩き込む。


 熊が怯む。


「鼻は弱い!」


 若い頃、父に叩き込まれた知識だった。


 熊が怒り狂う。


 前脚を振る。


 服が裂ける。


 腕から血が流れる。


「いいねぇ!」


 おトラは笑った。


 生きている実感があった。


 近くには崖。


 熊は一直線に突っ込む。


 おトラは寸前で避けた。


 熊の足が滑る。


 巨体が傾く。


「さらばだ!」


 最後に背中を蹴る。


 熊は谷へ落ちた。


 ドォン!


 しばらく静寂。


 おトラは崖を覗く。


「終わったか。」


 谷底へ降りる。


 熊は息絶えていた。


 巨大だった。


「これは食える。」


 腹を裂き、血抜きをする。


 昔の手順は身体が覚えていた。


「さて、問題は運ぶ方法だ。」


 熊は重い。


 非常に重い。


 そこで周囲の木を切り、即席の橇を作る。


「まだ腕は鈍っとらん。」


 三日かけて村へ向かった。


 雪を引きずり、血まみれになりながら。


 村へ着いた時には夜だった。


「熊だーーー!!」


 見張りの若者が叫ぶ。


 村人が飛び出す。


「え?」


「お、おトラ婆!?」


「生きてる!?」


「熊を引いてるぞ!」


 庄吉は腰を抜かした。


「母さん!」


「腹減った。」


 第一声がそれだった。


 村長は震えていた。


「山から……帰った?」


「帰ったよ。」


「熊まで……」


「落ちてた。」


「そんなわけあるか!」


「半分本当だ。」


 村人は熊を見た。


 巨大。


 しかも脂が乗っている。


 これ一頭で冬を越せる。


 肉。


 皮。


 骨。


 胆。


 全部が金になる。


 飢えることはない。


 その夜、村は数年ぶりに満腹になった。


 子供たちは熊鍋を食べて笑った。


「美味しい!」


「肉だ!」


「久しぶり!」


 泣く母親もいた。


 翌朝。


 村長は頭を下げた。


「……すまなかった。」


「何がだい。」


「お前を捨てた。」


「決めたのはお前一人じゃない。」


「それでも。」


 おトラは煙草をふかした。


「謝る暇があるなら山へ行け。」


「え?」


「熊は一頭じゃない。」


 村人たちは顔を見合わせた。


「山は宝だ。」


 おトラは言う。


「怖いから近づかない。だから飢える。」


「……」


「山菜、薬草、獣道、川魚。全部ある。」


「でも熊が。」


「熊を知らないから怖い。」


 若者たちは黙る。


 確かに誰も狩りを知らない。


 鉄砲も使えない。


 罠も作れない。


 昔の技術は途絶えていた。


「教えてやる。」


 その一言で空気が変わった。


 翌日から、おトラ塾が始まった。


「足跡を見ろ。」


「風上に立つな。」


「熊鈴だけじゃ信用するな。」


「獣は腹が減ると理屈を捨てる。」


 若者は何度も怒鳴られた。


「違う!」


「罠はこう!」


「馬鹿!」


 それでも少しずつ覚えた。


 三か月後。


 初めて若者だけで鹿を仕留めた。


「できた!」


 村中が歓声を上げる。


 半年後。


 薬草を売るようになった。


 一年後。


 熊皮は街で高く売れた。


 二年後。


 白岩村は飢えなくなった。


 村長は言った。


「姥捨て山はもうやめよう。」


 全員が頷いた。


「年寄りほど知恵がある。」


「働けなくても教えられる。」


「生きているだけで価値がある。」


 掟は消えた。


 そして十年後。


 白岩村は「猟師の村」として有名になっていた。


 王都からも弟子入りが来る。


 山の歩き方。


 罠。


 熊避け。


 薬草。


 すべて、おトラが残した知識だった。


 七十五で捨てられた老婆は、八十五になっても現役だった。


 ある日、王国騎士団が村を訪れる。


「熊害が止まりません。どうか知恵を貸してください。」


 おトラは笑う。


「騎士が婆さんに頭を下げる時代か。」


「お願いします。」


「よし。」


 こうしておトラは王都へ向かった。


 熊害だけではない。


 狼。


 猪。


 盗賊。


 野営。


 山岳行軍。


 彼女の知識は軍隊でも役立った。


「この婆さん化け物だ……」


 若い騎士は呆れた。


「山では力より知恵だ。」


 おトラは容赦なく鍛えた。


 半年後。


 王国の熊害は激減した。


 王は褒美を与えようとした。


「黄金千枚を。」


「いらん。」


「では爵位を。」


「もっといらん。」


「何が欲しい?」


「年寄りを捨てる風習をやめさせろ。」


 王は黙った。


 その言葉は重かった。


 調べてみれば、各地で似たような風習が残っていた。


 貧しい村ほど老人を切り捨てる。


 しかし、その老人たちは知恵を持っていた。


 技術を持っていた。


 失われれば二度と戻らない財産だった。


 翌年。


 王国中で「老人保護令」が施行される。


 年寄りは教え手となり、若者は学び手となる制度が整えられた。


 結果として農業技術は向上し、鍛冶も織物も発展し、各地の村は豊かになっていく。


 人々は口々に言った。


「すべては一人の婆さんから始まった。」


 その頃、おトラはというと。


「今日も山へ行くか。」


 九十歳を迎えてなお、杖代わりの槍を片手に山を歩いていた。


 孫たちは慌てる。


「ばあちゃん! 危ないよ!」


「危ないから面白い。」


「普通は逆!」


 笑い声が山に響く。


 そしてその日も、おトラは熊を一頭仕留めて帰ってきた。


 村人たちはもう驚かなかった。


「お帰り、おトラ婆!」


「今日は熊鍋だ!」


「酒を持ってこい!」


 焚き火を囲み、老若男女が笑う。


 誰も年寄りを邪魔者とは思わない。


 誰も姥捨て山へ向かうことはない。


 山は命を奪う場所ではなく、命を育てる場所となった。


 その夜、おトラは焚き火を見つめながら静かにつぶやく。


「人間も熊も、山も村も、うまく付き合えばいい。それが一番難しくて、一番大事なんだよ。」


 その言葉は、孫から曾孫へ、さらにその先の世代へと語り継がれていく。


 後の世で「山姥の英雄」と呼ばれる伝説の始まりは、皮肉にも、一人の老婆が姥捨て山に置き去りにされた、あの雪の日だった。

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