姥捨て山に捨てられたババアは最強
冬が来るたび、村は誰かを捨てた。
山の神への供物などと綺麗な言葉で飾られてはいるが、実際は食い扶持を減らすためだ。
雪深い寒村――白岩村。
人口百二十人ほどの小さな集落では、七十を超えた老人は「姥捨て山」へ送られる。
誰も逆らえない掟だった。
「母さん……すまねぇ」
五十を過ぎた庄吉は泣きながら母を背負っていた。
背中にいるのは七十五歳の老婆、おトラ。
腰は曲がっているが、目だけは妙に鋭い。
「男がメソメソするんじゃないよ」
「だけどよぉ……」
「お前にも孫がいる。泣くくらいなら、生きて帰れ。」
「帰るのは母さんだ!」
「馬鹿言うんじゃない。」
おトラは笑った。
若い頃、この村一番の猟師だった。
女だからという理由で表には出なかったが、実際には夫よりも熊を仕留めていた。
だが夫は早くに死に、時代も変わり、鉄砲も手放し、いつしか腰も曲がった。
今ではただの年寄りだ。
……少なくとも、村人はそう思っていた。
姥捨て山の頂。
庄吉は震える手で握り飯を二つ置く。
「母さん……」
「さっさと帰れ。」
「……」
「振り返るな。」
庄吉は泣きながら山を下りた。
姿が見えなくなると、おトラは大きく息を吐いた。
「さて。」
立ち上がる。
腰は曲がっていた。
だが、曲がっていただけだ。
骨はまだ丈夫だった。
「若いもんには内緒だったが……年寄りは痛いふりが一番楽だからね。」
腰をぐるりと回す。
ゴキゴキと音が鳴る。
「よし。」
その瞬間だった。
ガサッ。
藪が揺れた。
巨大な熊が現れる。
冬眠前の腹を空かせた月の輪熊。
体長二メートル近い。
「ほう。」
熊は唸る。
普通の老婆なら腰を抜かして終わりだ。
しかし、おトラは笑った。
「久しぶりじゃないか。」
熊が突進する。
おトラは横へ転がる。
木の枝を一本拾う。
熊が振り向く。
「昔は槍だったがね。」
枝を地面へ突き刺す。
熊が飛びかかる。
その勢いを利用し、熊の喉へ枝を押し込んだ。
枝は折れる。
「まだ足りないか。」
近くの石を掴む。
思い切り鼻面へ叩き込む。
熊が怯む。
「鼻は弱い!」
若い頃、父に叩き込まれた知識だった。
熊が怒り狂う。
前脚を振る。
服が裂ける。
腕から血が流れる。
「いいねぇ!」
おトラは笑った。
生きている実感があった。
近くには崖。
熊は一直線に突っ込む。
おトラは寸前で避けた。
熊の足が滑る。
巨体が傾く。
「さらばだ!」
最後に背中を蹴る。
熊は谷へ落ちた。
ドォン!
しばらく静寂。
おトラは崖を覗く。
「終わったか。」
谷底へ降りる。
熊は息絶えていた。
巨大だった。
「これは食える。」
腹を裂き、血抜きをする。
昔の手順は身体が覚えていた。
「さて、問題は運ぶ方法だ。」
熊は重い。
非常に重い。
そこで周囲の木を切り、即席の橇を作る。
「まだ腕は鈍っとらん。」
三日かけて村へ向かった。
雪を引きずり、血まみれになりながら。
村へ着いた時には夜だった。
「熊だーーー!!」
見張りの若者が叫ぶ。
村人が飛び出す。
「え?」
「お、おトラ婆!?」
「生きてる!?」
「熊を引いてるぞ!」
庄吉は腰を抜かした。
「母さん!」
「腹減った。」
第一声がそれだった。
村長は震えていた。
「山から……帰った?」
「帰ったよ。」
「熊まで……」
「落ちてた。」
「そんなわけあるか!」
「半分本当だ。」
村人は熊を見た。
巨大。
しかも脂が乗っている。
これ一頭で冬を越せる。
肉。
皮。
骨。
胆。
全部が金になる。
飢えることはない。
その夜、村は数年ぶりに満腹になった。
子供たちは熊鍋を食べて笑った。
「美味しい!」
「肉だ!」
「久しぶり!」
泣く母親もいた。
翌朝。
村長は頭を下げた。
「……すまなかった。」
「何がだい。」
「お前を捨てた。」
「決めたのはお前一人じゃない。」
「それでも。」
おトラは煙草をふかした。
「謝る暇があるなら山へ行け。」
「え?」
「熊は一頭じゃない。」
村人たちは顔を見合わせた。
「山は宝だ。」
おトラは言う。
「怖いから近づかない。だから飢える。」
「……」
「山菜、薬草、獣道、川魚。全部ある。」
「でも熊が。」
「熊を知らないから怖い。」
若者たちは黙る。
確かに誰も狩りを知らない。
鉄砲も使えない。
罠も作れない。
昔の技術は途絶えていた。
「教えてやる。」
その一言で空気が変わった。
翌日から、おトラ塾が始まった。
「足跡を見ろ。」
「風上に立つな。」
「熊鈴だけじゃ信用するな。」
「獣は腹が減ると理屈を捨てる。」
若者は何度も怒鳴られた。
「違う!」
「罠はこう!」
「馬鹿!」
それでも少しずつ覚えた。
三か月後。
初めて若者だけで鹿を仕留めた。
「できた!」
村中が歓声を上げる。
半年後。
薬草を売るようになった。
一年後。
熊皮は街で高く売れた。
二年後。
白岩村は飢えなくなった。
村長は言った。
「姥捨て山はもうやめよう。」
全員が頷いた。
「年寄りほど知恵がある。」
「働けなくても教えられる。」
「生きているだけで価値がある。」
掟は消えた。
そして十年後。
白岩村は「猟師の村」として有名になっていた。
王都からも弟子入りが来る。
山の歩き方。
罠。
熊避け。
薬草。
すべて、おトラが残した知識だった。
七十五で捨てられた老婆は、八十五になっても現役だった。
ある日、王国騎士団が村を訪れる。
「熊害が止まりません。どうか知恵を貸してください。」
おトラは笑う。
「騎士が婆さんに頭を下げる時代か。」
「お願いします。」
「よし。」
こうしておトラは王都へ向かった。
熊害だけではない。
狼。
猪。
盗賊。
野営。
山岳行軍。
彼女の知識は軍隊でも役立った。
「この婆さん化け物だ……」
若い騎士は呆れた。
「山では力より知恵だ。」
おトラは容赦なく鍛えた。
半年後。
王国の熊害は激減した。
王は褒美を与えようとした。
「黄金千枚を。」
「いらん。」
「では爵位を。」
「もっといらん。」
「何が欲しい?」
「年寄りを捨てる風習をやめさせろ。」
王は黙った。
その言葉は重かった。
調べてみれば、各地で似たような風習が残っていた。
貧しい村ほど老人を切り捨てる。
しかし、その老人たちは知恵を持っていた。
技術を持っていた。
失われれば二度と戻らない財産だった。
翌年。
王国中で「老人保護令」が施行される。
年寄りは教え手となり、若者は学び手となる制度が整えられた。
結果として農業技術は向上し、鍛冶も織物も発展し、各地の村は豊かになっていく。
人々は口々に言った。
「すべては一人の婆さんから始まった。」
その頃、おトラはというと。
「今日も山へ行くか。」
九十歳を迎えてなお、杖代わりの槍を片手に山を歩いていた。
孫たちは慌てる。
「ばあちゃん! 危ないよ!」
「危ないから面白い。」
「普通は逆!」
笑い声が山に響く。
そしてその日も、おトラは熊を一頭仕留めて帰ってきた。
村人たちはもう驚かなかった。
「お帰り、おトラ婆!」
「今日は熊鍋だ!」
「酒を持ってこい!」
焚き火を囲み、老若男女が笑う。
誰も年寄りを邪魔者とは思わない。
誰も姥捨て山へ向かうことはない。
山は命を奪う場所ではなく、命を育てる場所となった。
その夜、おトラは焚き火を見つめながら静かにつぶやく。
「人間も熊も、山も村も、うまく付き合えばいい。それが一番難しくて、一番大事なんだよ。」
その言葉は、孫から曾孫へ、さらにその先の世代へと語り継がれていく。
後の世で「山姥の英雄」と呼ばれる伝説の始まりは、皮肉にも、一人の老婆が姥捨て山に置き去りにされた、あの雪の日だった。




