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ひまな先生、中谷先生、そして、赤マヨの紹介

 放課後のグラウンドを生徒たちが走り始めた。 

 青春だなぁ。

 どこかに埋もれてしまった記憶がよみがえってくる気がする。そう思いながら、二階の窓から下を眺めているのは桧真来有介(ひまなゆうすけ)、美術の教師である。

 ここは自由ヶ岳高校の美術室、桧真来の個室のような場所なので、彼は生徒が帰った後、いつものように、ティーポットからカップに紅茶を注いでいた。


 杉下右京さんのあの紅茶の入れ方は正しいのだろうかと考えていた。こっそりと試したことはあったが、あれはなかなか難しい。お湯が飛び散る。水谷豊さんはどのくらい練習したのだろうか。

 

 もう一度やってみようかとポットを高く掲げたところで、誰かがノックした。


 のっそりと現れたのは社会科教師の中谷好季(なかたにこうき)で、手にタブレットをもっている。

「暇か」

 中谷は4歳年上の教師で、社会を教えている。生徒がいない時には「ユウスケ」、「中谷先輩」と呼び合っている。


「ユウスケ、夏休みはどうする」

「スイスに行こうかと思っている」

「優雅だな。また美術館巡りか」

「ベルンに行きたい美術館があって」

「ひとりはいいな」

「何を言っているんですか」

 中谷は学生結婚をしたから、32歳で子供が3人いる。

 

 中谷が主に顧問料のために、「謎を解こうよ、歩こうよ」という「冒険クラブ」を作ろうとしたのだが、生徒が誰も集まって来ないので、同学年を担当している桧真来にも顧問になってくれるように頼んだ。

「ぼくは冒険なんかしたことがないし、美術のことしか、わかりませんよ」

「それでいい」


 中谷はイケメンの桧真来先生に惹かれて、女子生徒が集まるかと思ったのだが、目算は外れた。入会してきたのはひとり、中谷のクラスの明石万葉(あかしまよ)だけだった。それともう明石の友人のもうひとりが加わり同好会にはなったが、まだクラブではない。


「これ、見てくれ」  

 中谷が中央にあるテーブルの前の椅子に座って、タブレットをひらくと、1枚の絵が出てきた。


 それはチマブーエ(1240ー1302頃)の画家の作だとそれる「嘲笑されるキリスト」という、25x20センチほどの小さな絵な板に描かれた絵である。

 フランス北部で90代の女性が、イコン画だと思い、キッチンコンロの上に飾っていたという。

 それがチマブーエの真作だと認定され、2019年にフランスで競売にかけられた。予想額は4-5億ユーロだったが、ある外国籍の人物が五倍で落札したのだった。

 

 それを受けて、フランス政府は30ヵ月間の輸出禁止措置を講じた。買い手が外国に住んでいるということが問題なのだ。措置は大切な美術品の国外流失を防ぐための法的手段で、イギリスなどにも前例がある。

 つまり30ヵ月の間に、24億ユーロが調達できれば、チマブーエはフランスに留まることができるのである。


 そこでルーヴル美術館が資金集めのために動き出した。それが期限ぎりぎりの2023年暮れ近くになって、ようやく資金調達できたので、この絵を確保したことを世界に向けて発表したのだった。


「ユウスケ、こんな小さな板に描いた絵が、39億円だというじゃないか。どうしてそんなに高いんだ」

 中谷は金はないのだが、異常に興味がある。


「あれはオークションにかけられたのが2019年で、その時の落札額は24ミリオンユーロ、つまり29億円だったけど、今の為替では39億円という額になるようだ」

「円安のせいか。それにしても、高い。そんな価値があるのか」


「それはチマブーエの作だからですよ。彼は『西洋画の父』と呼ばれるジョットの師匠だと言われている。藤井聡太、今、何冠でしたか、名人と呼ぶなんでしたか、とにかく彼があまりにすごいから、師匠の杉本昌隆さんがどんな棋士か知りたくなるじゃないですか」

「おお、わかりやすい」


「絵の美術的価値と、商品としての価値は別問題です。この板12世紀のもので、チマブーエの絵は世界に11作しかないし、このキリストの生涯シリーズは8枚あるはずなのだけど、これまでには2枚しか見つかっていない。たぶんもう見つかることはまずないから、そういう意味で、この絵はすごく希少価値がある」

「絵としての出来はどうなんだい」

「ルネッサンス前期の絵だから、今とは比較はできない」

「ユウスケの意見を聞かせてくれ」

「できとしては、すばらしいものではないだろう」

「やっぱな」

 中谷はタブレットの中のチマブーエの「嘲笑されるキリスト」を見ながら言った。


「ところで、ユウスケ、キリストの頭の上から出ている赤いものはなんだい。これは、血が吹き出しているのかい」

「いや。それは血ではない。右側の人が刀の鞘で、キリストの頭を叩いているところだ。画面を大きくして見れば。よく、わかる」

「ああ、そう言われれば、そう見える」

「右側の人がキリストの頭に手をのせようとしているだろ。あそこに茨の冠が描かれていたと思う」

「ああ」


 その時、ドアが勢いよくあいて、明石万葉あかしまよが入って来た。同好会のアクティブな会員は今のところ、この2年生の明石万葉ひとりなのである。

 同好会として認められるには2名以上のメンバーが必要なので、万葉が不登校の三吉三郎みよしさぶろうに頼んで、名前を借りている。

 

 この同好会が「クラブ」になるには会員が8人以上必要なのである。クラブと同好会の違いは、その予算額である。

  

「先生、部員を抜きにミーティングをしちゃだめじゃないですか」

「ミーティングじゃない。ただの雑談だ」

「何でも、わたし抜きではだめです。中谷先生、ひまな先生はわたしのものですからね」

「明石くん、冗談でもそういう言い方はやめてほしい。今は何でもバズる時代なのだから」

「ひまな先生、小心すぎます」

「ぼくはそうだよ、気が小さいんだ」


「わたし、そういうの、気にしませんから」

「明石くんがそうでも、ぼくが気にする」

「冷たい。じゃ、いいです。私、中谷先生に乗り換えますから。ねっ、先生」

「だめだよ。赤マヨ。おれは妻子もちだからな」

 赤マヨとは明石万葉のニックネームで、中谷はいつもそう呼んでいる。

 

 万葉は再び桧真来のほうを向いて、笑みを作った。

「ひまな先生、出戻ってきました。よろしく」

「戻ってきても、だめだ」


 がっかり―。

 万葉は指をパッチンと鳴らして、棚の上の小さなロダン「考える人」の石膏の足のところに、「謎を解こうか、歩こうか同好会」という手書きの小さなボードを置いた。

「同好会」のシールをめくると、「クラブ」という字が出てきた。

「早くクラブに昇格させましょうよ」


「赤マヨはこの赤いものが何だと思う。チマブーエの絵だ。知っているか」

「もちろん知っていますよ」

「おれがこれは血なのかって訊いていたところだ」

 と中谷がタブレットを見せた。


「それは刀の鞘ですよ。ほら、左側のここにも、似たような鞘をもって人がいるから、兵士の鞘です」

「わかるのか」

「わかりますよ。中谷先生とは違います」

「なんだ、それは」


 明石万葉は、将来は美術館のキュレーターになりたいから勉強していて、美術には少々詳しいのだ。


「フランス北部に住むおばあさんの台所にあったそうですよね。でも、おばあさんはオークションの2日後くらいに亡くなったそうです」

「それは大変だ」

 

 中谷がスマホを取り出して、計算し始めた。

「そのばあさんに夫はいるのか」

「いないと思います」

「遺族は何人いるんだい」

「知りませんよ、そんなこと」


「この件だと、遺産税ががっぽり取られる。控除は10万ユーロだから、この件では全くすずめの涙だ。半分近く取られるだろう。それに、仲介をした人なんかに払ったら、たとえばこれを遺族5人で分けたとして、またそれぞれに税金を払うことになるのだから、ひとり3億。それでも億だからすごいけれど」

「さすが中谷先生は社会科の先生」


「へー、そういうものなのかい。全額をもらえるわけではないんだ」

 と桧真来が驚いている。

「そうはうまくはいかないさ」

 

「ひまな先生、誰ですか、その落札した人は」

「調べてみたのだけど、わからない。南米の人だとか、イギリスの美術館だという説がある。でも、ぼくはゲッティ美術館だと思っているのだが」

「どうしてですか」


「あそこはお金があるし、英国のターナーのローマの絵なんかもそうやって手にいれた。英国も、2年の猶予をくれたのだけど、40億円だったかな、それを調達できなかったのだ。ゲッティのやり方は最初から予想額よりはるかに高く入札して、他に入札させない手を使う」

「どういうことですか」

「たとえば今回も6億と予想されていただろ。これを6億で落札したとしても、6億はすぐに募金できる額だ。だから、どうしてもその絵がほしい場合には、すぐにとんでもない額を入札するのだ」


「ああ、そういうことなのか。では、フランスはどうやってお金を調達したんだい」

「中谷先生ったら、お金のことには飛びつきますね」


「これがラファエロやカラヴァッジョの絵だとしたら、まずあんな額ではすまなかったし、またすぐにお金は集まったと思う。でも、チマブーエは世間にはよくは知られていないし、古典画はそれほど好まれていないからね。ルーヴルでは個人というより企業に大型寄付を頼んだと思う。こういう寄付はもちろん税金控除になるのだけれど、政府はそのパーセンテージを高くしたのではないかな。日本の企業も、かなり応援した気がする。これはぼくが想像で言っているので、真相はわからないけどね」

「そうか」


「修復をして、2025年の春にはルーヴルで展示予定だって書いてありましたよ」

「修復にも、お金がかかるのだろ」

「中谷先生、またお金のことですか」

「当たり前だ。専門は経済だからな」


「費用は随分とかかるだろう。ルーヴルにはチマブーエの『荘厳の生母』があるから、それと合わせて展覧会をして、費用を捻出する計画だろう。その後で、世界ツアーをするかもしれない。運搬や保険には莫大な費用がかかるけど、絵が小さい分、それほどはかからないだろう」


「ひまな先生、そのシリーズの他の2枚が見つかっていますよね。ロンドンのナショナル・ギャラリーと、ニューヨークのフリックコレクションに」

「そうだ」


「赤マヨ、よく知っているじゃないか」

 と中谷が振り向いた。

「わたし、キュレーターを目指しているんですから、知っていて当然です」


 中谷がグーグルでその絵を探している。

「ひまな先生、その2枚とも、今度見つかったチマブーエの絵とは違いますよね」

「明石くんもそう思ったかい」

「はい。顔が変だし、全体的に、雑な感じがします。未熟な部分もあるし」

「ぼくも、そう思っていたところだよ」

「わたし達、合いますね、やっぱり」

「赤マヨ、チャンスがあるたびに、突っ込んでくるんじゃないぞ」

「へへぃ」

 と万葉が頭を掻いてみせた。


「わたし、今日は真面目な質問があって来たんです」

「ほんとか」

「中谷先生は疑い深いところが嫌われる原因です。奥さんからも嫌われていませんか」

「赤マヨ、おまえに心配してもらわなくても大丈夫だ」


「明石くん、質問とは何だい」

「はい。ジョットのことです。チマブーエの弟子といわれているジョットのことです」

 そう言って万葉がウィキペデアを読みあげた。

 

「ジョットと同時代の画家ジョヴァンニ・ヴィッラーニはジョットのことを『この時代における最大の巨匠である。ジョットが描く人物やそのポーズはこの上なく自然に見える。その才能と卓越した技術によってジョットはフィレンツェのお抱え画家となった』」


「この上なく自然に見えるって書いてあるんですけど、ジョットの絵って、そんなに自然じゃないですよね」

「そうだ。確かに、今の絵と比べると自然には見えない。しかし、ジョットは13-14世紀だからな。ダビンチが15世紀で、この上なく人物が自然に描かれるようになったのはカラヴァッジョが出てくる16世紀まで待たなければならない。当時としては、画期的に自然だったと思う」

「どこがですか」

「待て」


 桧真来は書棚から大型版の画集を取り出した。

「The Glorious Impossible」 と書いてある。

「英語本ですね」

「『スクロヴェーニ礼拝堂」の画集だ』」

「すてき」

「赤マヨ、何がすてきなんだ。英語か、画集か」


「これはジョットが38歳の時に完成させたパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂のフレスコ壁画で、彼の最高傑作だと言われている。聖母マリアとイエス・キリストなどの生涯を描いたもので、初期ルネサンスの最高傑作のひとつだ」


 桧真来が表紙を見せた。

「たとえば、ここ」

 キリストが誕生し、三賢人が祝福に来たところが描かれている。

「左の男を見てみろ」


 そこには馬が2頭描かれているが、若い馬丁はキリストに注意をむけてはおらず、手綱を手にして馬を見上げている。

「こういうところが、これまでの宗教画とは違うだろ」

「ああ、本当。先生、本を貸して」


 万葉は画集を開いて、ぱらぱらとめくった。

「キリストや弟子たちに表情はないけれど、小さな子供を殺された母親たちの顔が泣いていますね。ほんとうに悲しそう。それから、人物の目がほぼ同じで、特に女性の目がみんなつり上がっています。どうしてですか」


「ジョットは女性の顔をあまり見たことがないのだろ」

「もうっ。中谷先生、黙っていてください。それから、動物たちがかわいく描かれています。衣服がリアルに描かれていて、それに、色が美しい」

「明石くんは、よいところに気がついている」

 明石がほらね、と得意そうに中谷を見た。


「ひまな先生、ジェットって羊飼いだということですが、どうして画家になれたのですか」

「16世紀後半の画家で伝記作家のジョルジョ・ヴァザーリがそう書いている。でも、ジョットが死んでから200年以上もたって書かれた本だから、羊飼いではなかったという説もある」


「さっき、チマブーエは杉本師匠だと言ったけど、あれはどうなるんだ」

「中谷先生、何を言っているんですか」


「チマブーエが、ある日、歩いていると、羊飼いの少年が岩に絵を描いていた。それが見事なほどうまいのに感心して、彼を弟子にしたという説が強い。だから、羊飼いをしているジョットをモデルにして描かれた絵はたくさんある。けれど、そうではないという説もある」

「そうではないって、どんな説があるのですか」

「父親が息子を誰かの工房に連れて行ったという人もいる。チマブーエとは関係がないという人もいる」

「何でもそうだが、いろいろな意見があるものだな」

 中谷がさかんに頷いている。


「わたし、ジェットが羊飼いだったと思います」

「どうして」

「ほら、羊がこんなにかわいく描かれているもの」

 万葉が画集の絵を指さした。


「これ、大人の聖書物語、絵本みたい。わたし、本物が見たいです。これはイタリアのパドヴァにあるんですよね。バドゥバは」

 万葉がスマホで調べている。

「ベネツィアから列車で30分。ベネツィアまでは……」

 とまたググった。「ああ、遠すぎ」


「イタリアまで行かなくとも、徳島県の大塚国際美術館に、礼拝堂が陶板で、そのまま再現されているということだ」

「焼き物なんですか」

「そうだ。とても精巧にできているようだ。行ったことはないんだが」

「行きたい。同好会で行きませんか」


「ちょっと待て」

 と中谷が計算した。

「往復で、10万円はかかる」

「だめですか」

「うちは子供がいるから、徳島県の美術館になんか、奥さんが行かせてくれるはずがない」


「では、ひま先生、ふたりで行きましょう」

「赤マヨ、それはだめだ。おれが許さなん」

「心配しなくても、わたしは大丈夫ですよ」

「おれは、おまえのことは心配していない」

「なんですか、それ」

 

「では、真面目な話です。先生、秋の学校祭で、同好会でお化け屋敷をやろうと思うのですが、どうですか」

「ぼくは怖いのは苦手だな」

「おれはいいと思うけど」

「初めて、中谷先生の良さを発見です」

「赤マヨはおれの何を知っているんだ。他にも、たくさんよいところがあるぞ」

「三吉三郎くんがデジタルお化け屋敷を作ってくれているんです」

「あの登校拒否のか」

「そう。彼は学校祭にお化け屋敷をやるのなら、登校して手伝ってくれるって言うんです」

「ほう」


「お化け屋敷で会員を増やせば、クラブに昇格できるんじゃないかと思うんです。三吉三郎くんにって、わたしの頼みは何だって聞いてくれるんです」

「どうして」

「中谷先生はどうしてそんな不思議な顔をするんですか。それはわたしに魔性の魅力があるから決まっているじゃないですか。感じませんか」

「全く。そんな魔性の魅力があるなら、もっと早く会員を連れてこいよ」

「中谷先生、世の中、そんなふうにうまくはいかないのが道理なんですよ。知りませんか」


「赤マヨ、おまえ、弁護士になれ。こういえば、ああいう。おまえは弁護士にぴったりだ」

「いやですよ。わたしは将来、メトロポリタンかルーヴルのキュレーターになるんですから」


「しかし、その三吉って子、おもしろい奴みたいだなぁ」

「三吉くんはうちのクラスの子なのだけど、何度訪問してもだめだった。学校に戻ってくるというのなら、お化け屋敷やろう」

 と桧真来先生が乗り気になった。


「三吉は引きこもって何をしているんだ」

「引きこもっていても、三郎くんって、すごいんですよ。中学の時に音楽アプリとかを開発して、カナダの会社と契約したから、お金がはいるんです。お父さんより、儲けているみたい」

「どんなアプリだ。いくら儲かるんだ」

「お金の話になると、中谷先生が食いついてくる。私、アプリのことなんかわからないから、彼に訊いたら、どうですか」

「ますますおもしろい奴だなぁ」


 というわけで、秋の学校祭では、同好会は「デジタルお化け屋敷」をすることになったのだが、はたして人は集まり、会員も増えて、クラブに昇格するのだろうか。

 

               

               



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