第三章 白い雨と、紫の唇
第三章 白い雨と、紫の唇
臨時救護所のテントは、光が足りなかった。
床に座り込む観光客、嘔吐する人、唇が紫に変わる人。酸欠の色が、夜の中で不気味に浮く。
綾は膝をつき、少年の脈を取った。冷たい。速い。
酸素飽和度は低い。だが、高山病の速度ではない。感染でもない。毒でもない。広がり方が“整いすぎている”。
「酸素を」
綾が言うと、現地の看護師が首を振った。
「供給が止まったの。遺跡の酸素網が、町にも回ってるから」
未来のアンデスでは酸素は“インフラ”だ。
遺跡保全の名目で敷設された供給網が、観光エリアと町を支える。
その供給が止まった――だけじゃない。止まり方が意志を持っている。
綾は簡易血液分析を走らせた。
数値を見て、喉が冷える。
ヘモグロビンの結合能が変化している。
血が酸素を掴みに行かない。まるで“拒む”ように。
「遺伝子……?」
綾が呟く。
「……遺跡の下に、古い施設がある」
ルカがテントに飛び込んできた。髪が乱れ、額に汗。穏やかさが剥がれている。
「昔、酸素適応の研究が行われた。倫理的に問題があって封印された」
綾はルカの横顔を見る。
嘘の匂いがする。全部ではない。
外で誰かが倒れる音。
綾は立ち上がり、残り少ないボンベを確認する。足りない。絶望的に。
そこへ、白衣の男が入ってきた。
襟が汚れていない。目が冷静で、冷静すぎる。
「久慈医師だな」
男は綾の名前を知っていた。
「統括のエスコバルだ。方針は決まっている」
端末に優先順位が並ぶ。救命確率の高い者から。
救える数を最大化するための“正義”。
少年の指が、綾の袖を掴んだ。
その弱い力が、綾の胸の奥を引き裂く。
あの夜と同じ目。命を預ける目。
「この子は――」
綾が言いかけると、エスコバルは遮った。
「統計が言っている。感情ではなく、数で救え」
綾は息を吸う。薄い空気が肺を痛める。
それでも少年の目から逃げられなかった。
(私は、聴いた)
(聴いた以上、捨てられない)
「ルカ」
綾は言った。
「遺跡へ案内して。制御盤に行く。酸素網を戻す」
ルカの手が一瞬止まる。その躊躇が、綾の心に刺さる。
だが彼は頷いた。
「……来て」
声が震えていた。
石段が遠くで歌う。
まるで“急げ”と鳴るように。




