第二章 石段が返した名前のない心音
第二章 石段が返した名前のない心音
夜。宿の窓の外は黒く、星だけが近い。
綾はベッドに腰を下ろし、靴を脱いだ。足裏がまだ石段を覚えている。冷たさ、硬さ、湿り気。何かが皮膚の奥に残って消えない。
シャワーで温めると、むしろ心音は鮮明になった。
耳で聴くのではない。胸骨の裏側で、誰かの鼓動が合図を送る。
とくん。
とくん。
端末に国際医療チームの通知が入る。
「アンデス地域で原因不明の集団発症。緊急支援要請の可能性」
綾は画面を伏せた。
休暇だ。来るな。来るな。
でも、もう一つの自分が言う。来い。行け。聴け。
窓を開けると、霧の中の遺跡が淡く浮かぶ。
風が吹き、草が擦れ、その隙間で――歌がする。低いハミングのような振動。
綾は気づけば外にいた。
夜の空気は冷たく薄く、舌に金属の味がする。
遺跡の入口には警備がいるはずなのに、誰もいない。照明も眠ったように暗い。
石段に足をかける。
歌が、近づく。
――とくん。
――とくん。
「触っちゃだめ」
背後から、子どもの声。
振り向くと、少女が立っていた。薄い布のワンピース、裸足。なのに濡れていない。霧の中で輪郭だけが揺れる。
「あなた、聴こえる人?」
少女は首を傾げた。
綾の喉が鳴った。
質問は山ほどある。だが口から出たのは、別の言葉だった。
「……名前は」
少女は笑った。古い言葉の笑い方。
「ミラ」
発音が、石に染みたみたいに古い。
ミラは石段を指差した。
「ここね、心音を覚えるの」
“心音”を、歌のように言う。
綾の背筋を、救急外来の冷気が走った。
心停止の患者の胸骨圧迫をしたときの、あの冷え方。
「覚える……?」
ミラは綾の胸を見る。
「あなたのも。もう、半分入ってる」
綾は一歩引いた。石が、ほんのわずかに鳴った。笑ったみたいに。
その瞬間、遺跡の外でサイレンが鳴った。夜を裂く高い音。
綾の体が先に動く。休暇の体ではない。救急医の体だ。
ミラが小さく手を振る。
「行って。明日、もっと歌うから」
綾は走り出した。
息が薄い。心臓が速い。
それでも胸の外の心音は、妙に落ち着いていた。
(何が起きてる)
答えのないまま、夜の坂を駆け下りる。




