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石段は、あなたの心音を覚えている――マチュピチュ2237  作者: 百花繚乱


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第二章 石段が返した名前のない心音

第二章 石段が返した名前のない心音


夜。宿の窓の外は黒く、星だけが近い。

綾はベッドに腰を下ろし、靴を脱いだ。足裏がまだ石段を覚えている。冷たさ、硬さ、湿り気。何かが皮膚の奥に残って消えない。


シャワーで温めると、むしろ心音は鮮明になった。

耳で聴くのではない。胸骨の裏側で、誰かの鼓動が合図を送る。


とくん。

とくん。


端末に国際医療チームの通知が入る。

「アンデス地域で原因不明の集団発症。緊急支援要請の可能性」


綾は画面を伏せた。

休暇だ。来るな。来るな。

でも、もう一つの自分が言う。来い。行け。聴け。


窓を開けると、霧の中の遺跡が淡く浮かぶ。

風が吹き、草が擦れ、その隙間で――歌がする。低いハミングのような振動。


綾は気づけば外にいた。

夜の空気は冷たく薄く、舌に金属の味がする。

遺跡の入口には警備がいるはずなのに、誰もいない。照明も眠ったように暗い。


石段に足をかける。

歌が、近づく。


――とくん。

――とくん。


「触っちゃだめ」

背後から、子どもの声。


振り向くと、少女が立っていた。薄い布のワンピース、裸足。なのに濡れていない。霧の中で輪郭だけが揺れる。


「あなた、聴こえる人?」

少女は首を傾げた。


綾の喉が鳴った。

質問は山ほどある。だが口から出たのは、別の言葉だった。


「……名前は」

少女は笑った。古い言葉の笑い方。


「ミラ」

発音が、石に染みたみたいに古い。


ミラは石段を指差した。

「ここね、心音こころのおとを覚えるの」

“心音”を、歌のように言う。


綾の背筋を、救急外来の冷気が走った。

心停止の患者の胸骨圧迫をしたときの、あの冷え方。


「覚える……?」

ミラは綾の胸を見る。


「あなたのも。もう、半分入ってる」


綾は一歩引いた。石が、ほんのわずかに鳴った。笑ったみたいに。

その瞬間、遺跡の外でサイレンが鳴った。夜を裂く高い音。


綾の体が先に動く。休暇の体ではない。救急医の体だ。


ミラが小さく手を振る。

「行って。明日、もっと歌うから」


綾は走り出した。

息が薄い。心臓が速い。

それでも胸の外の心音は、妙に落ち着いていた。


(何が起きてる)

答えのないまま、夜の坂を駆け下りる。

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― 新着の感想 ―
ミラの登場が秀逸。「半分入ってる」という台詞が、物語の全体像を暗示しながら恐怖を与える。子どもの姿をしていながら、言葉は古く、存在は揺らいでいる。この不安定さが物語のテーマと直結しているのが上手い。サ…
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