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石段は、あなたの心音を覚えている――マチュピチュ2237  作者: 百花繚乱


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第一章 雲の上の休日、胸の外の鼓動

第一章 雲の上の休日、胸の外の鼓動


雲は、窓の外でちぎれていた。

機内の空気は乾き、レモンの香りが薄く漂う。綾はその匂いを、わざわざ吸い込んだ。消毒薬ではない匂いを吸うと、“仕事じゃない”と体が錯覚するからだ。


「休暇ですから」

送別の言葉が、まだ耳の奥で鳴っている。

休む――その動詞を、綾は何度も辞書で引いた気がした。意味はわかる。使い方がわからない。


クスコの空港に降り立った瞬間、空が近すぎて笑ってしまった。

紫外線の刺さり方が、皮膚ではなく骨に来る。空気が薄い。吸っているのに、吸えていない感覚。救急外来で何度も見た“足りなさ”が、今は自分の肺に貼り付いている。


市場の香辛料が鼻を刺し、焼いたトウモロコシの甘さが舌に残る。

旅は五感だ。そう教えられた。なら、今は生きているはずだった。


列車は谷を縫い、雲に突き刺さるように上っていく。

やがて――緑の斜面に、石の都市が浮かび上がった。


マチュピチュ。

雲の上の遺跡。

石段は肋骨のように斜面を支え、苔むした壁が静かに呼吸しているように見えた。


綾は、久しぶりに“理由のない笑い”を漏らした。

そのまま一段目に足を置く。


――とくん。


音がした。

自分の胸ではない。

耳でもない。骨の内側で鳴る、心音。


綾は瞬きすらできなかった。

心電図モニターの電子音が、遠い記憶として蘇る。ピッ、ピッ、ピッ。

最後に平坦になった線と、止まった音。


(ここに、いる)

誰が?

何が?

答えはないのに、涙が喉に溜まった。


「酸素、いる?」

隣から声がした。柔らかな英語に、スペイン語の丸みが混じる。


振り向くと、男が携帯ボンベを掲げている。日焼けした肌、黒髪、目尻の細い皺。笑うと、その皺がほどける。


「……大丈夫」

綾はそう言ったつもりだったが、声が途中で切れた。


男は急かさない。綾の“切れ目”を見て、むしろ呼吸の間を作るように一歩下がった。

そして、石に指先を当てる。指が、ほんの僅かに震えた。


「今日は……歌う日だ」

冗談みたいに言って、薄い透明板の名刺を差し出した。


Luca Quispe

遺跡保全技師/考古学者


「歌う?」

綾が聞き返すと、ルカは肩をすくめて笑った。


「石が。たまにね。……聴こえる人には、もっと」


綾は名刺を受け取る。指先が、じわりと汗ばんでいる。

風が草を擦り、その音の隙間に、確かに混じっていた。


――とくん。

――とくん。


心音が、石段から返ってくる。

まるで“あなたのことを知っている”みたいに。

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― 新着の感想 ―
旅の高揚感から始まる導入がとても美しい。クスコの空気の薄さ、香辛料の匂い、石段の冷たさ――五感描写が丁寧だからこそ、「胸の外の心音」という異常が際立つ。幸福から転落までを一章で描き切る構成も巧みで、読…
2026/03/02 13:11 退会済み
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