第一章 雲の上の休日、胸の外の鼓動
第一章 雲の上の休日、胸の外の鼓動
雲は、窓の外でちぎれていた。
機内の空気は乾き、レモンの香りが薄く漂う。綾はその匂いを、わざわざ吸い込んだ。消毒薬ではない匂いを吸うと、“仕事じゃない”と体が錯覚するからだ。
「休暇ですから」
送別の言葉が、まだ耳の奥で鳴っている。
休む――その動詞を、綾は何度も辞書で引いた気がした。意味はわかる。使い方がわからない。
クスコの空港に降り立った瞬間、空が近すぎて笑ってしまった。
紫外線の刺さり方が、皮膚ではなく骨に来る。空気が薄い。吸っているのに、吸えていない感覚。救急外来で何度も見た“足りなさ”が、今は自分の肺に貼り付いている。
市場の香辛料が鼻を刺し、焼いたトウモロコシの甘さが舌に残る。
旅は五感だ。そう教えられた。なら、今は生きているはずだった。
列車は谷を縫い、雲に突き刺さるように上っていく。
やがて――緑の斜面に、石の都市が浮かび上がった。
マチュピチュ。
雲の上の遺跡。
石段は肋骨のように斜面を支え、苔むした壁が静かに呼吸しているように見えた。
綾は、久しぶりに“理由のない笑い”を漏らした。
そのまま一段目に足を置く。
――とくん。
音がした。
自分の胸ではない。
耳でもない。骨の内側で鳴る、心音。
綾は瞬きすらできなかった。
心電図モニターの電子音が、遠い記憶として蘇る。ピッ、ピッ、ピッ。
最後に平坦になった線と、止まった音。
(ここに、いる)
誰が?
何が?
答えはないのに、涙が喉に溜まった。
「酸素、いる?」
隣から声がした。柔らかな英語に、スペイン語の丸みが混じる。
振り向くと、男が携帯ボンベを掲げている。日焼けした肌、黒髪、目尻の細い皺。笑うと、その皺がほどける。
「……大丈夫」
綾はそう言ったつもりだったが、声が途中で切れた。
男は急かさない。綾の“切れ目”を見て、むしろ呼吸の間を作るように一歩下がった。
そして、石に指先を当てる。指が、ほんの僅かに震えた。
「今日は……歌う日だ」
冗談みたいに言って、薄い透明板の名刺を差し出した。
Luca Quispe
遺跡保全技師/考古学者
「歌う?」
綾が聞き返すと、ルカは肩をすくめて笑った。
「石が。たまにね。……聴こえる人には、もっと」
綾は名刺を受け取る。指先が、じわりと汗ばんでいる。
風が草を擦り、その音の隙間に、確かに混じっていた。
――とくん。
――とくん。
心音が、石段から返ってくる。
まるで“あなたのことを知っている”みたいに。




