第三章:歯車と記録の追跡者(後編)
歯車の音が、空気の奥にまで沁み込んでいた。
都市に戻ってから数日。
世界は確かに、ゆっくりと、でも確実に変化していた。
人々の目が、わずかに“焦点”を持ち始める。
時計のない都市で、時間を意識する“感覚”が芽吹いている。
「……なんか、ほんのちょっとだけど……この世界が、生きてる感じがするな」
アークはそう呟き、泡の通路を歩きながら周囲を見渡した。
「アークの刻印が“記録”に介入してから、
泡の層に“生存反応”が戻ってきてるの。
このままいけば、泡の中の人たちも……きっと」
セラが、希望を込めるように言ったそのとき。
「——それが一番の問題だ」
聞き慣れない声が、空間に割り込んできた。
次の瞬間、視界が反転する。
空間が歪み、泡の中にいなかったはずの“部屋”に場面が切り替わった。
「これは……!」
巨大な歯車が回る天蓋。
その下に並ぶのは、全身を金属と布で覆った“神の評議者”たち。
そこは——神々の“代行議会”。
「刻印者ゼロ。世界の記録に予測不能な干渉を与えた存在」
「過去、失敗した刻印者と異なる点——“選択を重ねた者”であること」
「そして最も危険なのは、“記録されていない者たち”への共鳴」
「つまり……世界が“ゼロを物語ろうとしている”」
「我々は、これを許してはならない」
——歯車が止まる音がした。
その会議の中で、一人の評議者が名を挙げられる。
「新たな“修復者”を投入せよ。コードネーム《イーラ》」
歪んだ仮面をつけた少女の影が、ゆっくりと現れた——
場面は泡の都市の外れ。
泡の縁にある小さな裂け目——そこは、狭間ほど深くも暗くもないが、
“記録と未記録の境界”に位置する空間だった。
「……こんなところがあるなんてな」
「狭間でもなく、泡の内側でもなく。
おそらく“観測待機領域”ね。……記録が“保留”されてる存在が集まる場所」
フィオナの言葉に、セラが頷く。
「わたしたちが選んだ変化で、この場所が“浮かび上がった”のかも」
そこにいたのは——一人の子どもだった。
10歳にも満たないような小さな女の子。
古びた機械のような衣装に身を包み、無表情で何かをじっと見ていた。
「……君、名前は?」
アークがゆっくりと声をかける。
少女は顔を上げた。瞳には、歯車の模様が刻まれている。
「……ノナ。名前、ある。記録にも、ある。けど、忘れられた」
「記録にあるけど、忘れられた……?」
「たぶん、ね。ノナちゃんは“記録の断片”。
完全に失われる前に、境界に残った“物語のはじまり”……そんな感じがする」
ノナは小さく首を傾げた。
「……ゼロ。あなた、“音”を持ってる。……不思議な音。あったかい」
「音?」
「わたしは、音のないとこにいた。さみしかった。でも、
……あなたの歯車、カチリって、優しい」
アークは少し戸惑いながらも、そっと手を差し出す。
「ノナ。……俺と一緒に来ないか? きっと、君の“記録”も取り戻せる」
ノナは数秒考えてから、ぽつりと答えた。
「……約束して。“忘れない”って。……また、ひとりになるの、やだ」
「忘れない。絶対に。刻印に、君のことも刻むよ」
その言葉に、ノナがようやく少しだけ微笑んだ。
——その時。
泡の空に、ひびが入った。
ノクターンの声が、泡の上から響く。
『やあ、ゼロくん。なんだか“記録”がまた騒がしくなってきたよ。
そろそろ、君にも伝えなきゃならないことがある』
「……伝える?」
『そう。“この世界が、誰に作られたか”って話さ』
ノクターンの声が泡の空から降ってくる。
『“ゼロ”。君には、知る権利がある。
この世界——泡の都市も、狭間も、神々も。
すべては“ある存在”が作り上げた“観測装置”だ』
アークが思わず息を呑む。
「……観測装置?」
『そう。
もっと正確に言えば、未来の人類が作り出した“人類進化シミュレーション”。
“神々”と呼ばれる存在たちは、その監視AI。
そして、“泡”は——記録を安定化させるための“保存領域”さ』
セラが青ざめた表情で立ち尽くす。
「そんな……じゃあ、私たちがいるこの世界は……」
『“現実”ではない。だけど、“虚構”とも言い切れない。
なぜなら君たちは、“確かにそこに在る”からだ』
ノクターンが笑う。優しく、しかしどこか寂しげに。
『ゼロくん。君の役目は、ただの刻印者じゃない。
君は、“この世界を再定義する者”だ』
「再定義……」
『選択を繰り返すことで、泡の記録構造に“新しい物語”を刻む。
それが、君の刻印の真の意味——“世界の書き換え”だよ』
ノナがアークの腕をぎゅっと握る。
「……アーク。わたし、ここにいていいのかな?」
アークはノナを見て、そしてセラに視線を送る。
二人の瞳に、自分の“存在”が映っているのを感じた。
「もちろん。君もセラも、俺にとっては大切な存在だ。
たとえこの世界が創られたものだとしても、俺が選んだ“今”は本物だ」
ノクターンが目を細める。
『いいね……それでこそ、“ゼロ”だ。
じゃあ、僕はまたしばらく観察に戻るよ。次に会う時までに、歯車をもうひとつ進めておいてくれ』
ノクターンの姿が歯車の残光とともに消える。
フィオナが、冷静に告げる。
「世界の構造が明らかになったことで、神々の監視はさらに強まる。
“選択”を繰り返す君は、今後、全方向から狙われる可能性がある」
「それでも、進むよ」
アークが、しっかりとセラとノナの手を取る。
「これはもう俺だけの物語じゃない。
——“俺たちの物語”なんだ」
泡の空に、新たな歯車が一つ、音を立てて回り始めた。
──第三章 完