第三章:歯車と記録の追跡者(前編)
泡の都市に戻ってから、世界はわずかに変わっていた。
誰にも気づかれない程度の、ほんの小さな“音”。
けれど、それは確かに、アークの耳には届いていた。
——カチ、カチ、カチリ。
あの日、狭間の中で選んだ未来が、
この世界に“時間”という変化を刻みはじめていた。
「……歯車の音がする、よな?」
「うん。少しだけ、前より“世界が進んでる”感じがする」
アークとセラは、泡の広場に立っていた。
目の前を通る人々は、いまだ記憶も表情もない“無記録者”たち。
だが、その足取りがほんの少しだけリズミカルになっている気がした。
「なんていうか……微妙に表情があるっていうか、視線が合うっていうか」
「感情までは戻ってないけど、きっと“反応”の層が上がってる。
……時間が動いた影響だと思う」
セラが静かに呟く。
その表情はどこか穏やかで、少しだけ柔らかかった。
そこに、フィオナが無言で現れる。
「報告。泡層第四階層において、“再記録化”の兆候を複数確認」
「再記録化……?」
「記録に含まれなかった個体が、時間と共に“存在”として認識され始めている。
つまり——世界が、“君たちの行動を記録し始めた”ということだ」
「……それって、いいことなんじゃ?」
「逆。神の監視機構にとっては“異常事態”」
その瞬間、泡の空を割って——警告音が鳴り響いた。
重い金属音。泡の天井に浮かぶ歯車が、不自然に逆回転を始める。
「侵入者。コード“13-Ω”。追跡者《コードネーム:アーリア》、接近中」
「追跡者……?」
「刻印者の痕跡を抹消するために設計された、神の端末。
——記録の修復のために、“記録外の者”を狩る存在」
そのとき、空の裂け目から現れたのは、仮面をつけた少女だった。
白銀の髪、鮮やかな赤い瞳、黒いドレス。
そして、腰には刻印剣。
「ゼロ……記録外の刻印者。あなたの“記録”は不要です。削除します」
「うわ……なんか来た!?」
「来たね……盛大に来たね……!」
セラとアークが同時に顔を見合わせた。
泡の空に響く、無数の歯車音。
それに重なるように、少女の足音が響く。
「ゼロ。記録の外にいる存在。
神の定義に従い、削除対象として認識します」
その言葉に、アークの背筋がぞくりと冷たくなった。
「言ってくれるじゃねえか……」
セラがすっと一歩前に出る。
「やめて。私たちは“この世界に刻まれた”存在よ。
もう……誰にも消させない」
「あなたは“封印”としての価値しかない。
器が自らを定義するなど、矛盾。即時、処理対象に加えます」
「感情ねぇのか……!」
アークが駆け出す。
刻印が反応し、空間に光の歯車が浮かび上がる。
だが——
「遅い」
アーリアが一瞬で距離を詰め、空間を裂く。
——ギィイイン!
刻印剣が、アークの刻印を叩きつけた。
衝撃が全身を貫く。吹き飛ばされるアーク。
「ぐっ……!」
「アーク!」
セラが叫ぶ。フィオナが即座にサポートに入る。
「ゼロ、後退を推奨。追跡者のスペックは、現時点で上位刻印級。
現段階のあなたの刻印反応では——勝率、8.7%」
「なっ、低ッ!」
「それでも、下がれないんだよ……!」
アークは再び立ち上がった。
自分がここで引いたら、セラも、この世界も、
また“記録されなかった未来”に戻ってしまう。
その瞬間——
「じゃあ、今ここで、記録を上書きする!」
刻印が共鳴し、周囲に黄金の歯車が展開される。
それは、今までにない輝きを放っていた。
セラが瞳を見開く。
「アーク……! それは……“二段刻印”……!」
「お前を超えるには、俺自身が“記録の先”に行くしかない!」
アーリアの目がわずかに揺れる。
「成長……記録の変質。……これが、ゼロ……!」
世界が、軋む。
泡の空を走る歯車が悲鳴のような音を上げ、空間に歪みが走った。
「刻印反応、異常値に達しました。
二段階干渉——この世界に“記録のない力”を発現中」
アーリアの瞳が揺れる。
その無感情な表情の奥に、わずかな“迷い”が浮かんでいた。
「ゼロ……あなたは、記録の枠を超えている」
「当然だろ。……俺は“ゼロ”だからな」
アークの刻印が光り、空間に記録の波紋が広がっていく。
その力が“泡”の中にいる無記録者たちにも波及し、
一人、また一人と、人々が“空を見上げる”ようになった。
セラが、泣きそうな笑顔で呟く。
「アーク……やっぱり、すごいよ」
「……俺一人じゃ、こうはならなかった。お前がいてくれるからだ」
光が、空を貫いた。
アーリアが再び剣を振るうが——アークの刻印がそれを止めた。
「その剣。記録を“消す”ためにあるんだろ?」
「……はい」
「でも俺は、“残す”ために戦う。
お前が記録の番人なら、俺は未来の語り部になる!」
刻印の光が、ついにアーリアの剣を弾き飛ばす。
その瞬間——彼女の仮面が、外れた。
現れたのは、年齢すらあいまいな“少女”の素顔。
静かな瞳。その奥には、わずかな“戸惑い”が宿っていた。
「……記録に、ない。……これが、“選ばれる”ということ……?」
アーリアがそっと後退する。
「記録の観測、終了。……ゼロ。あなたは、“未定義の存在”。
よって、再評価を保留し、記録遷移フェーズへ移行します」
「難しい言葉使って逃げたな……!」
「でも、勝った……んだよね?」
「まあ、勝ったってことでいいんじゃねぇの……?」
泡の都市の空が、ゆっくりと晴れていく。
世界に新しい“リズム”が生まれたような気がした。
「セラ」
「うん?」
「これからも、“一緒に選んでくれ”」
「……うん、ずっと一緒に、刻んでいこう」
カチ、カチリ。
その音は、もう誰の耳にも——届いていた。
第三章:歯車と記録の追跡者(前編)完