第二章:記録なき少女と、名を呼ぶ声(後編)
泡の都市に、再び微かな“音”が響いた。
その音は、風でも水音でもない。
ガラスの膜が軋むような、ひどく冷たく、かすかな音だった。
アークは刻印を見つめながら、セラの横顔をそっと盗み見る。
彼女の瞳には、何かを“受け取っている”ような光があった。
「……セラ。お前、自分の名前はどうして覚えてる?」
ふと、疑問が口を突いて出た。
記録されない存在であるはずの彼女が、なぜ“セラ”という名を名乗れるのか。
そして、なぜアークの名前を“記録”できたのか。
セラは少し考えてから、ぽつりと答えた。
「……気がついたときには、もうあったの。名前だけ」
「誰かにつけられた記憶は?」
「ない。でも、“誰かがそう呼んでくれた気がする”の」
アークは眉をわずかにひそめた。
「じゃあ、名前だけが……記録に逆らって、残ってるってことか」
「うん……でも、なんでなのかはわからない」
セラの言葉には、無垢な響きと、どこか切実な悲しみが混ざっていた。
「私は、ただ……誰かに覚えていてほしかっただけ。そう思ってた」
アークはその言葉を聞いて、何も返さなかった。
だが、左手の刻印が、また小さく脈打った。
泡の都市の静寂に、また一つの“異物”が混ざった。
泡の膜が──まるで“呼吸”するように、ゆっくりと膨らみ、収縮している。
「……おい、今の、見えたか?」
アークが低くつぶやくと、カリスが不安げに辺りを見回した。
「う、うん。なんか……さっきから、この泡、動いてる。ていうか、生きてる?」
「そんなバカな……でも確かに、“意志”のようなものを感じる」
セラはそっと手を伸ばし、泡の内側に触れようとした。
「……あっ」
指先が近づいた瞬間、膜が“避ける”ように微かに歪んだ。
「反応、した……?」
その場の全員が、言葉を失った。
泡は本来、外部からの刺激に一切反応しない。
ましてや、記録されないはずのセラに“意志を向ける”など、あり得ない。
「やっぱり、セラ……お前、普通じゃないんだな」
アークの声は冷たくはなかった。
ただ、真実を見据えようとするまなざしだった。
セラは、その視線から目を逸らさずに、まっすぐに応える。
「……うん。私も、自分が普通じゃないってこと、わかってる」
「怖くないのか」
「……怖い。でも、アークがいてくれるから──ちょっとだけ、平気」
刻印が、また“共鳴”するように光を放った。
今度は、明確にセラの前髪がふわりと揺れるほどに。
泡の天井が、きぃ……と、微かに軋んだ。
誰かが爪を立てたような音。世界が擦れ、軋む音。
セラが小さく身をすくめた。
「今の音……わたし、どこかで……聞いた気がする」
「“記録”にないのに、記憶してるってことか?」
アークの問いに、セラは目を伏せた。
「ううん……ちがう。これ、“感情”に近いの。音じゃなくて、思い出の、残り香みたいな」
「それってつまり……泡のどこかに、記録じゃない“何か”が残ってるってことか?」
カリスが呟く。
「……感情が、記録されているのかもな。普通じゃあり得ないことだが」
アークは刻印を見た。
セラが“存在する”ことで、泡に新たな“記録の兆し”が生まれている。
それは世界の法則を、少しずつ壊し始めている証。
「アーク……」
セラが名を呼んだ瞬間、刻印が光を放ち、泡の奥に何かが“影”のように走った。
アークが即座に振り返ったが、そこには誰もいなかった。
だが確かに、泡の向こう──“都市の外側”に何者かの視線を感じた。
「……誰かが、見ていた?」
セラも、カリスも、同じように振り返る。
誰もいないはずの方向に、じっと目を向ける。
アークは、泡の奥に向かって低くつぶやいた。
「……いるなら、姿を見せろ。俺たちは、お前の敵じゃない」
返事はない。だが、泡の空気がほんの少しだけ揺れた。
何かが、確実に変わり始めていた。
第二章:記録なき少女と、名を呼ぶ声 (後編) 完