第二章:記録なき少女と、名を呼ぶ声 (前編)
泡の都市の朝は、いつもと同じだった。
いや、厳密には「朝」という概念すら曖昧なこの世界で、時間の流れなど誰も意識していない。
だが、泡の天井に広がる白い光――それが“朝”だと人々が思い込んでいる時間帯には、街の影が少しだけ伸びる。
アークはそんな影のひとつに身を寄せていた。
左手の甲に浮かぶ“刻印”は、変わらず淡く、無音に脈打っている。
「あのさ、アーク」
と、声をかけてきたのはセラだった。
白い髪を揺らし、泡の淡い光にその輪郭をぼんやり溶かしながら、彼女は隣に腰を下ろす。
「昨日、私……あなたに名前を聞いたよね」
アークは静かにうなずいた。
「ああ。教えた」
「じゃあ、改めて──」
セラは、そっとこちらを見つめる。
その瞳の奥に、何かを“確かめるような”光が宿っていた。
「アーク。……うん、やっぱり、いい名前」
アークの視線がわずかに揺れる。
呼ばれることに慣れていないわけではない。
けれど、記録されないはずの少女が、自分の名を“呼べている”という事実が、胸の奥を軽く刺す。
「お前……どうして、それを覚えていられるんだ」
問いかけた声には、わずかな戸惑いが混ざっていた。
セラは小さく首を傾げたあと、少し困ったように笑った。
「わかんない。でも……消えないんだよ。あなたの名前だけ」
その瞬間、アークの刻印が微かに光を強めた。
刻印の脈動は、心臓の鼓動とわずかにずれていた。
けれど今、その“ずれ”が、ほんの一瞬だけ一致した気がした。
セラは無垢なままに微笑んでいる。
アークはそれ以上、問い詰めることはしなかった。
「お前の名前も、まだ記録されていないんだろう?」
「うん。私は……誰からも覚えられない。名前も、記憶も」
セラの言葉に、少しの寂しさが混じる。
だがその奥にある感情は、もっと深いものだった。
“知ってもらうこと”への恐れと願い。その両方。
「けど、アークが覚えてくれたなら、それだけで──」
「……俺は、記録できる側だからな」
アークは淡々と返す。
けれどその目は、静かにセラを見つめていた。
「誰かが名前を覚えてくれるって、ちょっとだけ……あったかいんだね」
セラはそう言って、泡の天井を見上げた。
泡の天井に埋め込まれた無数の歯車たちは、今日も動かないままだった。
だが、ひとつだけ──アークには、それが“震えた”ように見えた。
「……おーい! アークー!」
遠くから、聞き慣れた声が泡に響いた。
カリスだった。無駄に元気な声が、静寂を押しのけるように跳ねてくる。
「ったく……騒がしいやつだ」
アークが小さくつぶやくと、セラがくすりと笑った。
「カリスって、面白いよね。ああいう人、きっと“記録”に残りやすいんじゃないかな」
「……さあな」
しばらくして、カリスが全力疾走で駆け寄ってきた。
「やっほー! 二人とも仲良くしてたー?」
「うるさい。走ると泡が揺れる」
「へ? あー、うん……たしかに。なんかさ、最近この泡、ちょっと“軋んでる”気がしない?」
アークはその一言に目を細めた。
「……気づいたか」
「え? え、なに、やっぱ異常だったの!? 俺、てっきり気のせいかと──」
「泡の膜が……ほんのわずかだけ、振動している。刻印の共鳴と似た波長だ」
セラが、驚いたように言葉を挟んだ。
「私、少しだけ、泡の音を聞いた気がしたの。……昨日、あなたの名前を呼んだあと」
泡の音。
この世界ではありえないはずの“音”が、彼女の耳に残っていた。
「……刻印と、お前の存在が反応し始めてるのかもな」
そのときだった。
ふわりと、空間が揺れた。
ほんのわずかに。だが、確かに。
泡の天井が、微かに“鳴った”ような気がした。
アークは無言のまま、左手を見つめる。
そこにある刻印が、何かを告げようとしている気がした。
──記録と記憶が、静かに共鳴を始めていた。
第二章:記録なき少女と、名を呼ぶ声 (前編) 完