第一章:泡の都市と、名を持たぬ刻印者(前編)
——世界は、止まっていた。
泡に包まれた都市。
ガラスのように透き通った球体がいくつも浮かび、空間を静かに分断している。
空は、歯車。
無数の金属の歯が、噛み合わないまま凍りつき、天蓋のように都市を覆っている。
だが、その歯車には——針がなかった。
「……ここは、どこだ?」
誰に届くこともない声が、泡の檻の中で反響する。
その声の主は、ひとりの少年だった。
彼の名は、アーク。
名を呼ばれた記憶も、時間の流れも、すべてが失われた世界で——
ただ“目覚めてしまった存在”。
冷たい泡の床に寝転がっていたアークは、ゆっくりと体を起こした。
頭の中は霞がかかったように重く、しかし確かな“異物感”だけが身体の奥に残っていた。
「……何かが、刻まれてる……?」
胸に手を当てた瞬間、そこから“光の歯車”が浮かび上がる。
——カチリ。
世界には存在しないはずの“時を刻む音”が、わずかに鳴った。
「……これは……」
その歯車は、アークの心臓の位置でゆっくりと回っていた。
光とともに現れたそれは、刻印。
この世界において“記録されない存在”だけが持つという、異端の印だった。
しかし、アークにはまだその意味を知らない。
彼はただ——
誰にも呼ばれず、誰にも覚えられていないその世界で、自分だけが“目覚めている”という感覚に、胸がざわつくのを感じていた。
「……誰か、いないのか?」
泡の中に呼びかけても、返ってくるのは沈黙だけ。
時間が止まった都市。誰も動かず、誰も語らず、ただ過去の幻影だけが泡の表面に滲んでいる。
都市の中にいるはずの人影たちは、みな“動かない”。
まるで、記録の中に閉じ込められた影法師。
「……なんなんだよ、ここは……」
アークは泡の通路をさまよう。
都市は、いくつもの“泡”で分断されており、泡の境界には見えない壁のような抵抗があった。
ただ一度だけ、彼が刻印に手をかざしたとき——
歯車が淡く回転し、その透明の膜が一瞬だけ開いた。
「もしかして……俺の“刻印”で、この泡を……?」
彼の記憶はない。
だが、“この世界で自分が何かを変えられる”という直感だけは、確かにあった。
そうして、いくつかの泡を越えた先。
ひときわ静かな泡の檻の中に、少女がいた。
長い銀色の髪が、泡の光を反射してゆらゆらと揺れている。
彼女は、ひとりで座っていた。動かず、まるで時間そのものから切り離されたように。
だが、アークが近づいた瞬間——
「……起きてたんだね」
その声は、優しかった。
この世界で初めて聞いた、“誰かの言葉”。
アークは思わず息を呑む。
「おまえ、……動けるのか?」
「うん。あなたも、そうなんでしょ? だって、声が聞こえたもの」
彼女は微笑む。
その表情には、なぜか“懐かしさ”すら宿っていた。
「……誰なんだ、おまえは」
「わたしは、セラ。……それが、わたしの“名前”」
「名前……」
アークは、口の中でその言葉を反芻する。
名前。
それはこの世界では、誰もが持たず、誰からも呼ばれない“記録されなかった情報”。
「あなたの名前は?」
「…………わからない。思い出せない。けど……」
アークは口を開こうとして、止めた。
しかし、セラが小さく頷いて言った。
「じゃあ……これから、思い出せばいいよ。
“これから”があるなら、記録はきっと“書き加えられる”から」
「書き加えられる……?」
そのとき、再びアークの胸の刻印が光った。
セラの瞳が、その光に反応するように細められる。
「……あなた、それ、“持ってるんだ”」
「これを、知ってるのか?」
「うん……それは、“刻印”。
この世界で、“時間を動かすことができる者”に与えられる、特別な記録」
アークは思わず見つめ返す。
「じゃあ、おまえは……」
「わたしは“器”……神々によって作られた、“記録を封じるための鍵”」
セラの口から語られた言葉は、あまりに現実離れしていた。
だが、なぜか彼女が言うと、それが自然に聞こえた。
「この世界は、記録だけで構成された“壊れかけの箱庭”。
刻印者が目覚めることで、少しずつ“物語が始まる”」
「……物語?」
セラは、そっと手を差し出した。
「名前を思い出したら、教えて。わたし、呼びたいから。
“名前を呼ぶこと”って、きっとすごく大事なことだから」
その手を、アークは迷いながらも取った。
カチリ——
ふたたび、世界に“時を刻む音”が響いた。
泡の空が、かすかに揺れる。
泡の底に閉じ込められた都市が——今、ゆっくりと目覚めようとしていた。
第一章:泡の都市と、名を持たぬ刻印者(前編)完
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