表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

アールアイピーには早すぎる夜

作者: 奥田 繭

 その電話を受けた時、磯山は頭の中で、真夏の炎天下に真っ白なソフトクリームがダラダラと溶けていく様が見えた――これが違和感の正体だったのかと。


 平たい携帯電話の向こう側では、よく知る女の声がとぎれとぎれに絞り出され、彼女にとっても磯山にとってもこれまでの人生でトップクラスな最悪の出来事を伝えている。なんで急にこんなことに……、と熱を持ち出した携帯を通して女がすすり泣く。泣くのを我慢しようとしていたが、冷静に話そうとすればするほど、自分自身が「状況」をうっかり飲み込んでしまったかのように。


 磯山は伏せていた目を上げて、少し離れた場所に視線を移した。


 そこには、ダイニングテーブルに置かれた焼きそばをかっ込む親友の姿があった。学生時代からの親友であるその男――神崎は磯山と目が合うと、いつも通りのんきな顔をして親指を立てた。お前の焼きそばはやっぱりサイコーだな、という意味であろう。


 耳元で女の嗚咽が漏れ聞こえる。言葉が出ない代わりに、涙と鼻水でおぼれかけているような、呼吸の破裂音がする。しばらく黙って聞いていた磯山も、さすがにこれは本気で彼女はこのままおぼれ死ぬ気じゃないかと不安になった時、ざわざわとした深呼吸とともに女が言う。


「そういう事で、今は彼の両親が来ているので、また連絡しますね」

 磯山は「ああ、はい、では……」と適当な相槌で電話を切ると、大きなため息をひとつついてから、特盛の焼きそばをうまそうに食べ続ける神崎の前に戻って座った。


「電話……大丈夫? なんか大変そう? 仕事?」

「うん、まあね。ちょっとしたトラブル。でも今は待機中」

 そう答えると、磯山は飲みかけのビールグラスを口もとに運んだ。とにかくまずは手を動かしていないと落ち着かないのだ。さて、どう切り出せばよいのか……。磯山がもう一度深いため息をついて目を上げると、神崎と目が合った。


「あのさ」神崎が言う。「悪いんだけど、もう少し青ノリかけてもいい? 俺、青ノリ好きじゃないですかあ、焼きそばに青ノリ」

わざとイラつく言い方をしてニヤニヤ笑っている。


「知らねえよ、いや知ってるよ」磯山は反射的にそう答えると、席を立って冷蔵庫に行き、中の青ノリの袋を取って戻ると、神崎の皿の横に置いた。いつもなら自分で取りに行かせるところだが、なんとなく今はそういう気分でもなかったのだ。神崎は、お、ご馳走ご馳走などと軽い調子で言うと、ほぼ新品の青ノリの袋をさかさまにして焼きそばの上にぶっかけた。茶色から深緑の季節の移り変わり……、などという詩的な情景はない。ただそこには「青ノリをこれでもかとぶっかけられた食べかけのソース焼きそばの山」があるだけだ。しかもなんとなく癪にさわることに、神崎は袋の中の乾燥剤は落ちないように、うまく角度を調整している。磯山はこれらの工程を向かい側からただ黙って眺めていた。


「なあ、磯山」CMのごとくお茶の間を意識したかのようなうまそうな食べ方で焼きそばをほおばりながら、神崎が訊く。「俺らってさあ……今何歳だっけ?」「え? 歳? えっと、今は48だろ、今年49……、あ、そういえばお前もうじきだな、誕生日」

「あ、そだっけ。そういえばそうだな、来月だわ。よく覚えてたな」

「覚えてるだろ、毎年メシおごり合ってるんだから。まああんまし誕生日は関係ないっちゃないけどさ」

「まあそだな。そうか、49か。いやいや、50の一歩手前じゃねえか。俺たち、よく今日まで生きてこれたよな」


 磯山はグラスの中のビールを飲み干すと、次は何飲むかな、などと独り言ちながらキッチンに向かった。冷蔵庫を開ける。ビールをもう一缶という気分でもなかったが、神崎がまだ飲むかと思い、結局ビール缶を持って定位置に戻る。缶を開けると、まだ3分の1ほどビールの残っている磯山のグラスに注ぐ。絶妙な泡の量だ――磯山は自分が普段通りであることを意識しないようにしながら頭の片隅で確認した。


「最近、ユミと話したか?」ビールをゴクンと飲み込むと、突然神崎が言った――俺たち、実はこの1か月ほど会ってないんだわ。つまり、別居してんの。

「え、そうなの? 知らないよ、そんなこと。ユミとはずっと前にお前と一緒ン時に会っただけで、それからは会ってないから。お前もこないだ、そんなこと一言もいってなかったし……」

「ふーん、そうか。たしかに俺、今初めてお前に言ったなあ。てうか誰にも言ってなかったんだけどね、親にも」

「なんで、そういうことになったんだよ。その、別居」磯山は自分のグラスにビールを少し追加し、グラスを掴む。指先が冷えて感覚が鈍い。

「え、うん、まあ簡単に言えばもっと前からなんとなくかみ合わなくなってきてたというかさ、顔合わしても話す気がないというか、そもそも顔も見ないというか……。いや、あっちがね。俺は話そうとしてるんだけど、向こうが全然興味なさそうでさ、そういうのがずっと続いてて……で、ついに向こうからよくある『少し距離を置きたい』ってセリフを言われてさ。久しぶりの話がそれってちょっとどうかとは思ったんだけど、まあそれならそれで俺もいいかもって思ってさ……。こういうこといったらアレだけど、色々考えるのもしんどいし、楽なほうに流されたっていうか。で、結局俺が家からちょっと離れたところのマンション借りて、必要なモノだけ移してのお引越しですよ。ちょうど1か月ほど前から。まあどうせほとんど寝に帰るだけだし、何事も滞りなく時間だけが過ぎ去ってるよね、良くも悪くも」


 まだまだどっさりと盛られた焼きそばを箸でつつきながら、神崎はつまんなそうに、あえてどうでもいいような調子で話す。向かい合っている磯山の顔を見ない。磯山もまた、少し横を向いた姿勢で手持ち無沙汰にグラスを口もとに運ぶ。神崎は最後の「良くも悪くも」の「も」を吐き出しながら、具の豚肉だけを口に放り込む。


 その時、テーブルの上に裏返して置いていた磯山の携帯電話が鳴った。長い。電話の着信だ。

「人気者だな、どうぞどうぞ」

 神崎がおどけたように言う。この男は重い空気が苦手なのだ、相変わらず――と磯崎は心の中でため息をつく。そして一瞬迷ったが、携帯の着信相手を確認し、神崎を残して廊下の先にある玄関へと向かった。


「もしもし」

「あ、磯山? 今いい? いやさあ、神崎のことなんだけど」

「ああ、うん」

「知ってるよな、いや、俺さっき聞いて、まだなんか全然信じられないんだけど。え、なに? 脳卒中? 脳梗塞? くも膜下? 家でって……」

「うん、そうらしい。俺も詳しい事はまだなんにも……。て誰から聞いたの?」

「ああ、うちの奥さん、神崎の奥さんと仲いいんだよ。元部活仲間。だから簡単にだけど連絡が来てさ。いや、びっくりだよ。あの神崎がまさかさ」

「うん、そうだね、本当に……」

「なんか奥さん、あのほら、ユミさんと家で話ししてたら急にだったらしいぜ。それまで全然普通だったんだと」

「うん、まあそういう事はざっくりとは聞いた。でも詳しいことは俺も知らないんだよ」


 携帯電話を耳に押し当てながら、磯山はそっと廊下を戻ってリビングの神崎のほうを伺う――いる、あいつは確かに俺の家で俺が作った大量の焼きそばを食っている。今、目の前で。


「葬式とか、どうなんのかな? 身内だけでって話しもあるみたいだけどさ……。あれ、もしもし、聞こえてる? もしもし?」

「あ、ごめん。聞こえてる。またなんか分かったら連絡するわ。今ちょっとバタバタしててさ。はい、はいー」通話を切る。


磯山は綿パンを穿いた太もも部分に携帯画面をこすりつけ、それをポケットに入れてから手の平も綿パンにこすりつける。全身から変な汗のにおいがするような気がして気持ち悪い。


「今思い出したんだんだけどさ」神崎が、ゆっくりと戻ってくる磯山に無邪気な笑顔を向ける。「昔、お前号泣したよな、映画館で」

「は? いつ?」とまどった声で磯山は答え、使い古したずた袋のように椅子に座る。

「大学ン時、俺とお前とユミとユミの友達の何とかちゃんとさ、4人で映画観にいったことあっただろ。なんて映画だったっけ。ほら、へんな音楽好きのオッサンが残念な地区の小学校で音楽教師になりすまして、最後キッズがすごいカッコイイ演奏するやつ。ロックなんとか的なやつだよ。あれ、めっちゃ良かったけど、泣くか? 号泣するか? 他にいなかったよ、泣いている人。お前の涙腺どんだけダルダルなのよ。でもさ、あん時俺は思ったね――お前には勝てないわって」

「は? ていうかそう言えばそんなことあったような気もするけど……正直あんまり覚えてないなあ」

「そういうところだよ、ユミと何とかちゃんが『この人はいい人だ』みたいな目で見てたよ、お前のこと。そういうところが俺にはないんだよ。欠陥人間なんだよ、俺もお前も結局は」

「ごめん、何言ってるのか分かんない」

「ん、まあ、分かんなくてもいいよ、俺が分かっていれば」


 しばしの沈黙――磯山はぬるくなったビールをごくりと喉に流し込む。神崎が咀嚼の合間に口を開いた。


「ユミとたまには連絡取ってやってくれよな。俺たちが元に戻るのは、オアシスが再結成するくらいに地球がひっくり返ったってもう起こらないからさ」

「なんだよそれ」――そうかこいつは今朝のニュースを知らないんだな。オアシス再結成したよ。なんでもありなんだよ21世紀は……と磯山は思ったが、神崎には教えないことにした。教えたところで俺たちの現実は変わらないはずだから。


「お前、そろそろ帰れよ」磯山が言う。「帰る場所があるうちに」

「え、ああ、そうだな。そろそろだな」神崎が答える。

「ちゃんとけじめつけろよ。最後ぐらい」磯山が言う。「ああ……お互いにな」神崎が答える。


 神崎が青ノリを唇につけたまま消えた後、磯山の前には冷めた焼きそばの山がぽつねんと残っていた。

                       〈了〉

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ