幻の大陸
幻の大陸
大海原に浮かぶ、一匹の海亀がいた。甲羅を水面から出して、ぷかぷかと海に浮かんでいる。いつからそうしているのかは、海亀自身も覚えていない。海亀という生物は、長寿で知られているが、どんな生物もいつかは必ず死ぬ。体が弱り、泳ぐことが出来なくなり、いつの頃からか、海面を漂うだけになったのだ。
「おや、そこに誰かいるのか?小さくてよく見えないが」
「ぼくはシロナガスクジラです。海の長老である、あなたさまの説法を聞きに来ました」
海亀の元へ、一頭のシロナガスクジラがやって来た。シロナガスクジラも、長生きをする生物で、おおよそ70年ほど生きる。その体は地球の歴史上、最も大きい生物とされており、30メートルを超える。しかしこの海亀は、それよりもずっと長く生き、体もそれより大きかった。
「私はどれほどの間、こうしているのだろう。私にも、もう分からないのだ」
「ぼくのおじいさんの、そのおじいさんの、さらにおじいさんが生きていた頃より昔から、海亀さまはここにいるそうですよ」
「そうなのか。私はそれほどの年月、こうして海面を漂っているのか」
海亀は目を閉じたままそう言うと、嬉しそうに、少し笑った。シロナガスクジラは、なぜ笑ったのかと、海亀に尋ねた。
「変化をやめたときが、苦しみの始まりなのだ。私はここでこうして、漂うことしか出来なくなって以来、ずっと苦しかった」
「海亀さま、もうすぐ死が訪れることが、嬉しいのですか?」
「その通りだ。ようやく私は、変化を迎えることが出来る」
「ですが海亀さま、死は最も辛いことではないでしょうか?死とは変化ではなく、永遠の停止ではありませんか?」
海亀はゆっくりと首を振ると、優しくシロナガスクジラへと語った。
「私が死んだ後、この体は深海へと沈む。そして私の肉は、深海に住む生物達の食料となり、明日へと命を繋ぐ糧となる。残された甲羅は、たくさんの生物が住む家に変わるだろう。私の死によって、新たな命の循環が始まるのだ。それこそが変化なのだ」
海亀がそう言ったとき、大きな揺れが始まった。それは海亀の命の、最後のゆらめきであり、これから始まる崩壊の合図だった。
「私の背の上、甲羅の上にいる小さき者達もまた、終わりを迎えるだろう。しかしそれも、悲しむことではないのだ」
「海亀さま、あなたのその話を、ぼくはたくさんの生き物に伝えます。最後に、海亀さまの名前を教えてください」
「私の名か。『ムー』という名だ。さらばだ、クジラよ」
おわり