6話 襲撃
「ら、ららら、頼斗ぉぉぉぉっ!? い、一体、な、なな、何を企んでる!? ボクをいじめて楽しいのか? そんなに楽しいのか?」
「凄く、楽しいです」
昼間の公園でブランコに乗るおっさんのようなどこか諦観の境地へと至った笑顔で、頼斗は答えた。もう死ぬ覚悟ができている、とも言いたげに頼斗は口元を緩ませた。
死ぬ覚悟ができているのなら容赦なくやってやろう。よくもまあボクをここまで辱めてくれたものだ。
「頼斗、もう何が目的だったのかはどうでもいい。即刻、死ね! いや、殺す!」
「きゃー恐い。少年誌では出せない凶悪な笑顔だね」
ここに来て、まだボクをからかうか。そんなに死にたいのならお望み通りにしてやろう。
ボクは正面からではなく机を迂回し頼斗の横に立った。頼斗は瞼を閉じる事で、自分の運命をボクの采配へと委ねる、というのを示した。
「どうしてボクを怒らせるような真似を――」
頼斗の胸倉を掴んでやろうと思ったその刹那、記憶にあるおぞましい威圧を感じた。部屋内ではない。廊下、それも、ドアのすぐ側。
「どうしたアキラ?」
「ドアの向こうに誰か居る」
ボクは頼斗から目線を外し、ドアの方へと集中した。抜き足、差し足、千鳥足……って酔っ払ってどうする。とにかく細心の注意を払い、ボクはドアへと接近していった。
「誰かって、誰だよ?」
ぼけぼけな頼斗が声を掛けてきたと同時に、勢いよくドアは開かれた。ドアは目一杯に開き、それでも掛けられた力は消費し切らず、壁へとぶつかり、反作用により逆走を始めた。勢いが殺され切れないというのを想定に入れていなかったのか、謎の訪問者は前へと進み、ドアの特攻をもろに喰らっていた。
「きゃっ!」
「…………あ」
ボクはなすすべもなく、訪問者がドアの直撃を受けるのを見ていた。見事なクリーンヒットであった。
「うぅぅ……はにゃが、はにゃがぁ」
ドアの向こう側から定番のセリフが聞こえてきた。やっぱり鼻にヒットしたらしい。
「あの、大丈夫ですか?」
ボクは声から訪問者は女性であると判断し、すぐにドアを開け放ち、助けに行った。紳士を目指す者は常に女性には優しくである。
「だ、大丈夫です」
廊下には、美女がいわゆる女の子座りという体勢で鼻をさすっていた。癖が一切無い流れるようなストレートヘアーは座った状態で床につくほどの長さがあった。
「あれ? 三須先輩ではないですか。どうしたんですか?」
ボクの肩口から顔を覗かせた頼斗が、廊下の赤鼻の美女に向かってそう言った。
ちょっと待て。頼斗はなんと言った? 確か三須、先輩と言ったような。三須……? どこかで聞いた事があるような気がする。
ボクが答えに辿り着くよりも早く、赤鼻の美女は動いた。物音を一つ立たせず、無造作に立ち上がり、背中へと手を回した。
不味い、と思った。背中に回された手が握るのは、本来は台所や調理室にあるもの。ギラリと鈍い光を宿す身近な凶器。それが今まさに、ボクらへと牙を剥こうとしている。
「頼斗、さがれっ!」
無駄とはわかっていてもボクは叫んだ。やはり頼斗の位置からでは包丁が確認できないのか、まだ暢気な様子を見せている。
「なんで?」
案の定首を傾げる頼斗をボクは容赦無く突き飛ばした。頼斗は突然の衝撃に受身を取る事ができず、床へと転がった。低い呻き声が聞こえた気がするが、優先すべきは目の前の赤鼻の美女、いや、何度も頼斗へと挑んではそのたびに玉砕していた不憫な先輩、そして……ヤンデレへと変貌した三須真衣先輩だ。
「あなたが……」
「え?」
ユラリと前屈みになった三須先輩が何かを呟いた気がした。しかし、ハッキリと聞き取る事ができなかった。何を言おうとしていたのか、それを考えようとするも、その時間を三須先輩は与えてくれなかった。
逡巡の隙を突くように銀色の一閃が、ボクの胸元をかすめた。ほぼ無意識の内に後ろへと引いていたので助かった。回避行動が遅れていたらと思うと、慄然とし全身が震えた。
「あなたが、頼斗くんを……。あなたがぁぁぁぁっ!」
「くっ!」
乱暴な追撃は、冷静になったボクにはなんとか見切れた。ブンブンと包丁を振り回す三須先輩をかわしつつ、ボクは部屋内へと誘い込んだ。丸腰で刃物を所有する者に挑むのは無謀過ぎる。それなりの修羅場を潜り抜けてきていたボクは、とにかくマシーンのように冷徹な思考を展開させた。
「あなたさえ……どうして、あなたさえ!」
もう三須先輩にはボクしか見えていない。ヤンデレとの対峙か……。ボクのスクールデイズも中々にスリル満点だ。
目の前の三須先輩を警戒し、床に転がる頼斗に注意を払いつつ、ボクは後退を続ける。目指す先は掃除に使ったほうきが置かれた、埃まみれの机だ。
一秒がとても長く感じられる。生死が交錯するこの限定空間は、何度味わっても慣れないものだ。緊張で溢れる汗が鬱陶しくて仕方がない。呼吸を整えようと幾ら思っても逆に過呼吸にでもなってしまいそうなほど安定感を失い、吐き出す息は熱を増していく。それと共に体内は炎を封じ込めたみたいに際限なく熱くなっていく。
「大人しくわたしに殺されなさいっ!」
大きなモーション。両手で握った包丁を勢いよく突き出した。ボクはそれを難なくかわし、一気に後ろへと下がった。やっとの事で目的地に辿り着く事ができた。
ボクは机に置かれていたほうきを手に取り、体の正面で構える。リーチはこちらのがあるが、殺傷能力など殺人への実用性は遥かに向こうの得物が凌駕している。だが、棒切れ一本でも戦況とは変わるものなのだ。なんといっても刃物との肉体での直接接触を避けることができるのだから。
三須先輩の表情は長い前髪のせいで窺えない。口元がもごもごと動くのだけは確認できた。きっと呪いの言葉を呟いているのだろう。
じりじりと間合いを詰めながら、ボクは三須先輩の説得を試みる事にした。
「三須先輩、止めてください! ボクを殺したところでなんの意味もありません!」
口での返答は無く、容赦のない包丁の攻撃で答えてくれた。首を狙った突きをボクはほうきでいなし、進路を変えた。勢いをつけ過ぎたのか、三須先輩は前のめりにバランスを崩した。包丁はボクの右肩すれすれを通過し、三須先輩の体はボクの体に飛び込んできた。
「うわぁっ!?」
タックルを警戒したが、それは無くただ倒れ込んできた。ボクは押し倒されないように足を踏ん張らせた。その間にほうきを投げ捨てる。包丁は容赦無くボクの背中を捉えている。既に一刻の猶予も無い。
ボクは決心し、三須先輩の腹に掌底を放った。
「うぅっ!」
呻き声を上げ、腹への衝撃で三須先輩は包丁を床へと落とした。木造の床へと突き刺さる際に包丁は歪な音を立てた。それが鼓膜をぞわぞわとくすぐり、背筋が粟立った。
「どうして……どうしてぇっ!」
三須先輩の最後の咆哮が上がる。それなりの強さで腹へと打撃を加えたので、もう素手で挑んできたとしても大した脅威ではない。
しかし、ボクの一瞬の油断はまさに命取りとなった。ジジジ、と三須先輩の左手が入れられたポケットの方から気味の悪い音がした。それはまるで、カッターナイフの刃を出す音に酷似していた。
「うわぁぁぁぁっ!」
耳を劈く絶叫が襲う。揉み合いをする距離、バックステップをしようにも空いた右手がボクを逃がすまいと肩をまるで万力のような強さで掴んでいる。
ポケットから出されるカッターナイフは包丁と同じく怪しい光を帯びていた。
ああ、ボクは死ぬのか……。恐怖は感じない。ただなんとなく、寂しい。
最後の抵抗として、無意味とわかっていてもボクは反射的に両手で顔を覆いガードした。眼前に迫るカッターナイフは一秒を細かく分けた時間の中を進み、ゆっくりとボクに死を運びにくる。
「三須先輩、流石にやり過ぎですよ」
死を悟ったボクだったが、ギリギリのところで頼斗の屈強な手が、それを阻んだ。ボクと三須先輩の間に割って入り、カッターナイフを持つ手を掴んだのだ。
「頼斗……」
三須先輩を見据える頼斗の横顔には、昔の姿が重なって見えた。
「どうして……どうしてなの!? どうしてわたしじゃダメなのっ!?」
三須先輩はカッターナイフを床に捨てると、頼斗の胸元をポカポカと叩いて、涙した。
「単純な話です。貴女が、タイプじゃないからですよ……」
三須先輩は頼斗の拒絶を受け、絶望したのか全身を弛緩し床に崩れた。
「あぁ……あぁぁ、あぁぁぁぁぁぁっ!」
床に倒れ付し、号泣する三須先輩を見ていると胸が掻き毟られるような痛みを感じた。たとえ何度見ても慣れるものではない。目の前で泣く少女の姿は、ある日の誰かと同じものなのだ。頼斗と関わるとこういう者の姿はよく見る。
「大丈夫か、アキラ」
「ボクは大丈夫」
頼斗の心配する声に言葉を返し、ボクは三須先輩に憐憫の眼差しを送った。そうすると横に立つ頼斗が肩をすくめて溜息を零した。
「三須先輩はお前を殺そうとしたんだぞ?」
「だからどうした」
頼斗が決して薄情な訳ではないと思う。きっとボクが変なんだ。
これから行うのは偽善なのだろう。でも、せずにはいられない。ボクは傍に座り込み、ポケットからハンカチを取り出して、三須先輩へと差し出した。
「使ってください」
長い前髪の間から覗く真っ赤に充血した瞳が驚きで見開かれた。
「どうして……わたしは……あなたを……」
「気にしないでください」
ボクは安心させるためにできる限りで最上のスマイルを浮かべる。
「うぅぅ、ありがとうございますっ」
三須先輩はハンカチを受け取ってくれた。ハンカチを目元に当てながら、
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
と壊れたレコーダーのように繰り返した。やっぱり三須先輩は悪い人ではないんだ。
「大丈夫です、悪いのは頼斗ですから」
ボクが慰めの言葉を掛けていると、頼斗は少し離れた位置の壁にもたれてズボンのポケットから携帯を取り出した。そして手早く操作し耳に当てる。
「あ、警察の方ですか――」
「ちょ、待てっ!」
ボクは芸人も顔負けな突っ込みのモーションと共にすぐさま制止を掛けた。
「え? なに?」
頼斗は目を丸くしキョトンとしている。
「なに、じゃなくて! それはないだろう」
語気を荒げそう言い放つと、頼斗はさも当然だと言いたげに鼻で笑った。
「傷害未遂、銃刀法違反、別に警察を呼んでも――」
「そういう問題じゃないっ! なにもそこまでしなくていいだろう?」
「ふっ、俺はアキラのためなら神にでも悪魔にでもなれるっ!」
「ならんでいいからっ! ったく」
しょうがないなと暢気に呟いて、頼斗は携帯をポケットに仕舞った。それを確認してから、ボクはすぐに三須先輩の方を向き直った。
「うわっ!」
急に三須先輩が抱き付いてきた。しかも、なんか目がキラキラと輝いている。
「ど、どどどどうしたんですか三須先輩!?」
「真衣と呼んでください! お兄様!」
「はい?」
姫野さんに続いて三須先輩まで壊れてしまった。なんなんだ一体。それにしてもお兄様ってどういう意味なんだろう。
「お兄様、わたしをあんな必死になって助けてくださってありがとうございますっ!」
「なんでお兄様? どうしてお兄様?」
更に密着してくる三須先輩。胸が押し付けられて苦しい。いや、嬉しい。ってそうじゃないそうじゃない。
「お兄様はお兄様だからお兄様なんです!」
いや、意味がわかりません。まさか長期間にも及ぶ頼斗の毒電波を浴び続けた結果、言語障害を引き起こしてしまったのだろうか。もしそうだとしたら憐れでならない。
「良かったなアキラ! 立派なお兄様になるんだぞ」
頼斗はどこか複雑な面持ちでボクたちを見ていた。頼斗には珍しいどこか判然としない表情にボクは微かな戸惑いを覚えた。
それから、二十分ほどの時間を要してボクはしがみ付いてくる三須先輩を引き剥がす事に成功した。今日はどうやら厄日らしい。あれもこれもすべて頼斗のせいだ。