2話 昼食
登校を終始憂鬱な気分で終え、堅苦しい始業式やら退屈なLHRやらが終了し、昼休みを迎えた。午前中の怒涛の日程を乗り越えたクラスメイトたちはどこかぐったりとしている。特にボクみたいな帰宅部の者は夏休みボケが強いので余計だろう。
昼休みといえばとても騒がしいものだが、嬉しい事に頼斗がたくさんの女子生徒を連れて教室から出て行ったし、男子はほとんど購買の方へと行っているので逆に気味が悪いくらい静かだ。長くは続かない平穏をボクは噛み締める思いで享受した。
ボクの席は窓際の列の一番後ろという恵まれた位置にある。それに教室が三階なので、休み時間であろうと授業中であろうと空を眺めたり町を見渡したりできるのだ。空を見るのは好きなので、この席は気に入っているのだがそれでもわがままはある。悠橋学園の東側には雄大な海が広がっている。しかし、残念ながらボクの席から一望できるのは反対側の西、見渡す限り退屈な町並みが続いている。
空を眺めるのも町を見渡すのも飽きたボクは、力無く机に突っ伏した。空を見れるのはいいのだが、その分、日差しを直に浴びるというデメリットもある。だから非常に暑い。といっても今はカーテンを閉める気力が湧かない。
考えるのもだるくなってきたので、ボクはもう全身から力を抜いてぐったりとする。
ふと、突き刺さるような日差しが弱まるのを感じた。太陽が雲に隠れたのかな、と最初は考えたが、先ほどの空の観察から雲の流れを想像するに、それは有り得なかった。そうなると親切な誰かがカーテンを閉めてくれたのだ。
ボクは体を起こしてその人物を確認した。カーテンを引いてくれたのは、予想通り姫野さんだった。姫野さんは、ボクが起きるのを見て、少し申し訳無さそうに微笑んだ。
「起こしちゃいましたか、すみません」
潤んだ円らな瞳が妙に嗜虐心をくすぐる。姫野さんはある種の奇跡を体現した究極のロリっ娘だ。そのちんまりとした体つき、小学生にまぎれても気付かれないであろう幼顔、幼女成分を強めるふあふわと波打つ首下辺りまで伸びた髪、そしてそれらに相反した制服を盛り上げる巨乳――一言で表せば巨乳幼女というやつだ。
「気にしなくていいよ」
ボクは姫野さんに微笑みを浮かべながら言葉を返してあげた。そうすると、安心したのか姫野さんは豊かな胸に手を当ててほっと吐息を漏らした。
そのまま自分の机の方へと戻っていくと思ったのだが、姫野さんは足を止めてボクをじっと見てくる。緊張しているような様子なのは気のせいだろうか?
「あ、あの……」と安定せず震えた声を出す姫野さん。「えっと、そのぉ……もしよかったら、お弁当……一緒にいいですか?」
もじもじとする姫野さんが可愛くってボクはちょっと呆けてしまった。慌てて口元を拭うと涎が制服の袖に付着していた。
「も、もちろん」
ボクは紳士(真摯)に言った。オプションで歯がキラリと輝くという事は無かった。未熟な紳士的テクニックだったのだが、姫野さんには効果抜群らしく一瞬で顔を茹蛸のように真っ赤にさせた。
「あ、あああありがとうございまふっ!」
きっと最後の「ふ」は「す」と言いたかったのだろう。あはは、可愛いな~。っと不味い、また涎が。ダメだな、可愛い子を前にすると涎が出る癖はどうにかしないと。
「どういたしまして」
ボクは紳士的スマイルの模倣品を浮かべ、お弁当を取りに自分の席へと一旦戻る姫野さんを見送った。
スキップでも始めてしまいそうなほど上機嫌な様子で姫野さんはボクのもとへと戻ってくる。ちょうど前の席の人が別の場所で昼食を取っていたので、その椅子を借り、ボクの机の方に向けて、向き合う形で座った。
「えへへっ」
眩しいよ。可愛過ぎて直視できない。って落ち着くんだ、ボク。目の前で涎をたらしてはぁはぁやってれば流石に不味い。
ボクは深呼吸をしながら鞄からお弁当を取り出した。
包みを開けて、二段重ねになっているお弁当箱を机に並べる。姫野さんは同じようにお弁当箱を開けて待っていた。
「……ん?」
どうして食べ始めないのかは疑問に思ったが、更にお弁当へと箸を伸ばそうかと思っていた時、ボクは姫野さんの視線に気付いた。
「えと、その……あの」
もごもごと口の中で何度か繰り返されてから、その言葉はやっとの事でボクに聞こえる声となった。
「いただきますを……一緒に」
すぐさま鼻を右手で押さえた。ドピュッて音が聞こえた気がする。不覚にも興奮により鼻血が出てきた。
「え? あの、だ、大丈夫ですか?」
「ノープロブレム」
ボクはズボンのポケットからティッシュを取り出し、すぐに鼻に当てた。お弁当を守るために犠牲になった哀れな右手は、血に塗れ猛々しい雰囲気を醸し出していた。
「ほ、保健室にっ!」
「ノープロブレム」
自分の緊急時における貧困なボキャブラリーに絶望した。しかし、焦ってしまうのはしょうがないのだ。姫野さんとの昼食イベントをこんな事で終わらせるわけにはいかない一心がそうさせるのだから。
「で、でもぉ……」
姫野さんの優しさが胸に突き刺さる。ごめんなさい。貴女が可愛過ぎるから悪いんです。それにしてもこの血、いつまで垂れ流しになるんだろう?
無駄とわかっていても、ボクは床に膝立ちし頭の上で両手を組んで、鼻血が止まるように必死になって神へと懇願した。
神様、ボクに慈悲を! というか、頼斗に苦しめられた分ぐらいの幸せをよこせ!
「おうっ!? もう止まったから大丈夫だよ。それじゃあ、一緒にいただきますを言おう」
ボクの気持ち(恫喝)を汲み取って(恐れて)くれたのか、鼻血がピタッと止まった。後に残るスースーする感覚はちょっと気になるが、これで姫野さんとの昼食を楽しめる。
「あ、は、はい……」
再び茹蛸のようになる姫野さんに苦笑しつつ、ボクは席に戻って手を合わせた。ボクに倣い姫野さんも豊満な胸の前で手を合わせる。
「それじゃあ」
とボクは言い姫野さんと目を合わせる。そして二人で声を揃えて、
「いただきます」
やっと食事を開始する事ができた。本当に一苦労だった。
ボクは自分のお弁当を突きながら、姫野さんを観察する。ちまちま食べる姿が小動物的でなんとも可愛らしい。
ふしだらな自分を戒めつつも、自然と視線は顔か胸に定まってしまう。ああ、あの胸に顔を埋めたい。両手で堪能したい。それは叶いそうに無いので、ボクは自分の胸を掴んでみた。いや、掴めもしないけど……。なんとも切ない代償行動。寧ろ悲しさが増した。というかどうしてそんな事をやろうと思ったのか、三秒前の自分に問いたい。
姫野さんがボクの奇行に目を丸くする。
はぁ~、とボクは溜息をつく。男は誰しもきっと姫野さんの胸を見てしまうのだ。皆同じなのだ。やっぱり大きいのがいいのだ。
「笹風さん、えっとどうしたんですか?」
大不況へと嘆く失業者のような陰鬱な面持ちでいると、姫野さんが困ったように眉を寄せてボクの顔を覗き込んできた。
「ノープロ……だ、大丈夫だよ」
三度目の過ちは何とか防げたが、顔が近付いた事に緊張してしまいなんとも説得力の無い返答になってしまった。そのせいで姫野さんの表情はますます曇ってしまった。
「やっぱり、保健室に行った方が……。わ、私が、その付き添うので……」
「いや、大丈夫。ちょっと寝不足でね、少し頭痛がするだけだから。昼食を取ったら少し寝るよ。それだけで十分だと思う」
「わ、わかり……ました。で、でも無理はしないでくださいね。少しでも辛いと思ったら、すぐに言ってくださいねっ」
「わかった」
やっぱり姫野さんは心配性だ。それが今はとても辛かった。寝不足というのは嘘ではないのだが、なんとなく姫野さんを騙しているような気がして遣る瀬無い気分になった。
そのまま微妙に居心地が悪い昼食が続くと思っていた。だが、廊下から聞こえる黄色い声の接近により、その暗い未来は否定された。
感謝するよ、頼斗。今だけはね。
「あぁぁ! わかっていないな! 俺はな、ロリっ娘で巨乳というジャンルには飽きているんだ! 胸は確かにギャップを示したりするのに便利だ。だがな、巨乳なロリっ娘は既に大量に居るんだ! 希少価値ゼロで、新属性でもなんでもないんだよ!」
暗鬱になりつつあるボクだったが、キャイキャイと騒がしい女子の集団を引き連れた頼斗の帰還によって、幾らか気分がましになった。更にはボクの杞憂まで晴らしてくれた。
廊下で袖にまとわりつくロリ系少女を振り払いながら頼斗は、集まる女子たちにどんどん毒電波を送信していく。毎度毎度まめな奴だ。そんな一人ずつにきちんと説明しなくてもいいだろうに。どうしてそんなとこで律儀になるんだろう。
すべての処理を終えた頼斗は、渋面を浮かべたままボクと姫野さんの愛の巣……じゃなくて、昼食を取るところまでやってきた。ボクの顔を見てちょっとだけ表情を緩ませた。その緩んだ箇所を埋めるようにニマリと気味の悪い笑顔成分が足された。
「アキラ! 放課後は教室で待ってろよ!」
「えぇぇ、だるいからやだぁ」
ボクは言動で露骨に拒否を表す。少しだけムッとしたように眉を吊り上げた頼斗だったが、すぐに笑みで怒りを取り繕った。
「まあそう言うな、絶対に後悔させないから。だから、待ってろよ」
そう言われてもな……。ボクは頼斗の突然の襲来でどぎまぎする姫野さんを観察しつつ返答を考えた。頼斗が絶対、と言った時は本当に絶対なのだ。それは経験上理解している。しかし、その経験が小学校時代のものなので、今一信用できない。
という事はやっぱり、
「やっぱ、だるいからいい……ってあれ?」
「あの、黒澤さんなら、もう走って行っちゃいましたよ」
頼斗を見上げようとしたのに、その姿を発見できなかった。戸惑うボクに姫野さんは優しく教えてくれた。
「あ、あぁぁ……面倒だからいいか」
追い掛けて言おうと思ったが、やっぱり億劫なので諦めた。それに、姫野さんとのお昼のが優先度は上だ。
食事に戻るボクに姫野さんは何かいいたげだったが、目を合わせると、「はぅ」と可愛らしく呟き俯いてしまった。いやはやポケットティッシュは今度から多めに持ち歩こう。まあこれからも食事を共にできるかどうかはわからないけど……。
「ん……?」
姫野さんをとろけた瞳で見つめ続けていると、どこからか余り好意的とは言えない視線を感じた。それはまるで獲物に飢えている肉食動物が放つ飢餓感を伴った獰猛な殺意のようなものを宿していた。しかし、周囲を確認しようと思った頃には、その奇妙な視線は既に感じられなかった。