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一般向けのエッセイ

ゲームやスポーツで勝利し続ける事

 テレビゲームやスポーツというジャンルは現代において花形だと言っていい。こうしたものが特に人気がある。


 私は両方とも好きだし、どちらもよく見たりプレイしているが、過大評価はしないようにしようと思っている。


 ゲームやスポーツの何が面白いのかと言うと、ゲームにおいては主人公が何らかの障害を乗り越えて、勝利する事だろう。クリアする、と言い換えてもいい。スポーツの場合は応援しているチームや選手が、相手に打ち勝つ事。そうしたカタルシスが、ゲームやスポーツが人気の原因となっている。


 現代の社会においては、こうした枠組みの中におけるカタルシスを大衆に与えてくれる人々が、最大限に評価される。人気もあり、収入も得られる、花形のジャンルとなっている。何故そうかと言えば、我々は、普段からそうした気分の解放を望んでいるからで、そういうものをこれらのジャンルは代替的に与えてくれるからだ。


 一方で、この仮初の勝利は、我々に気分の解放をもたらしてくれるが、実際には自分自身は変化しない。我々は社会の中にあって、静的な状態のままに、静的な社会の中に小さな箱を作り上げ、箱の中で叫んだり、怒鳴ったり、殴る真似をしたりして、気分を発散する。


 しかしこの気分の解放行為が、社会そのものに及ぶ事までは我々は望んでいない。我々のスポーツや、ゲームに対する入れ込みようは一方では気分の解放をもたらすが、もう一方では、そうした気分や情念が社会全体に対する変化へと至らないように注意している。


 気分の解放が犯罪にまで至る事もあるだろう。そういう場合、犯罪は厳しく処分される。この場合、それを裁く社会そのものの在り方は「正しい」という無条件の想定がされている。


 現代においては、一方では、内輪の、平和な、「ほっこり」とした、群れ集い、お互いを甘やかす行為が称賛され、その一方では、内輪の価値観を乱すものに対して厳しい排斥行為が行われる。この平和と暴力の関係には矛盾はない。内輪に対する優しい顔が、外側に向かっては悪魔のような厳しい顔となる。これは普通の事だ。


 スポーツやゲームは、社会の価値観を変じる事なく、我々の気分や情念を発散させてくれる。一方で、我々はこの世界の在り方そのものを疑い、それを変えてみようとは考えない。それについてはもう「正しさ」は決まっているので、考えても仕方ないというわけだ。


 だから、社会の在り方そのものについて根源的に考えたり、それに向かって働きかけたりするよりも、社会の内部において、情念を発散させるゲームやスポーツといったものが好まれる。世界の全体性を考えるというのは、人々にとってはあまりの重荷であるからだ。


 ※

 スポーツやゲームをいくらやった所で、どれだけ障害を乗り越えた所で、現実の世界における我々は何も変わっていない。我々は不動の中に動を置いて、自分達を納得させようとする。


 社会の全体性を問う試みは、七十年代には終結した、学生運動あたりにあったのだろう。もっとも、学生運動のような左翼的なものだけを私が考えているわけではない。学生運動と、右翼的な三島由紀夫の自決事件は、本質的には同じものだと考えている。


 それはこの世界の在り方が他にはないのか、と問う絶望的な最後の試みで、それらが敗北し、いわば敗北そのものが敗北してしまったので、現代における我々はむしろ爽やかな服従の世界に生きている。戦う事は負ける事だというのがわかったので、精神の始まりから服従している。最初から服従してしまえば、後はパラダイスのような奇妙な世界が広がるばかりだ。多様性、自由、人それぞれ、こうした言葉は全て、一つの大きな服従から始まっている。


 世界の在り方を問う価値観というものはもはや問題視されず、「好き嫌い」がそのポジションに収まった。現代では好き嫌いだけが幅を利かせているが、これは、既定の社会の在り方を絶対肯定した上で、仮初めの自由に酔うという事でしかない。


 社会の全体性を問う試みが終結した事と、文学が死んだ事には関連性がある。文学が死に、エンターテイメントが隆盛になったのは、世界の全体性を問う文学という試みが無効になり、代わりに世界の安定性を自他に納得させようとする作品様式が支配的になったという事だ。エンターテイメントとは、人々が自分達の在り方を肯定する為に呼び出した神々だ。


 こうした社会においては、ゲームやスポーツは人々の情念を発散させ、社会の安定化に寄与している、大きな存在である。しかし、私はこれらのジャンルを過大視してはならないと考えている。


 何故なら、歴史という大きな枠組みにおいて問われるのは、この世界そのものが何であるかという根源的な思考や行動であって、ある社会的な枠組みにおける最も優秀であるような在り方ではないからだ。


 わかりやすく言えば、中世のキリスト教社会において、最も頭が良い、社会の枠組みに適合した神学者よりも、その世界の枠組みの崩壊そのものを予知し、その裂け目から自己の思想を作った学者の方がより価値があると判断されるだろうという事だ。


 一つの社会の在り方そのものも、それが変じて、別の社会へに変わってしまえば、以前の社会体制は過去の遺物となる。そうなると、その体制に最も良く適合していた人間に対する評価は著しく下がる。


 言葉を変えれば、歴史の上で輝くような偉大な真実というのは、社会が変化していく過程で、偶然的に露出するようなものではないか。私にはそんな風に思われる。


 幕藩体制という様式の中で、その在り方にうまく適合した御用学者よりも、獄中で殺されたり、暗殺されたりした維新志士の面々の方が私には魅力的だ。彼らは社会の変化の狭間にいて、一瞬だけが、世界の在り方を越えた真実に触れようとした、と言ってもいいかもしれない。


 そのように変革期の中にある個人は、犯罪者として当時の社会に遇される事も稀ではない。こういう場合、その人間がただの犯罪者か歴史の中の偉人であるかは、より大きな歴史的視点によって追求されるものだろう。


 私は今の人々が「所詮は彼は犯罪者だ」「彼は所詮は底辺の人間だ」というのを好まない。人間の営みである歴史における人間評価とは、それほどたやすく決定できるものではないと思う。


 私は、現代の花形であるゲーム、スポーツといったものもそれほど過大評価してはならないと思っている。それらは静的な世界の中に設置された箱であり、その箱が絶対的な意味に見えるのは、静的な世界が絶対視されている限りにおいてなのだ。この世界そのものの枠組みがより大きい視点によって変化を蒙る時、我々が崇めていた偶像がただの泥人形だったと証明される、そんな事もないとは限らないだろう。



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