(6)真白の月
「うちのヌシはさ、いい加減なんだよ」
「ふうん」
ばさり。ばさり。どこか湿気を帯びる冷えた風が、遠く海の方角から吹きつける。
羽ばたきの音が間断なく響くなか、無事に元の服に着替えた天音は、なんとも言えない顔で相づちをした。
月は薄い雲に隠れてしまったが、空には満天の星。地上の明かりは消えて乏しい。――いわゆる、不夜城とされるような繁華街以外は。
いまは零時。
室伏山から一路、天音の家へと飛んでいる。そこもまた、地方都市から離れた片田舎にあった。
ことあるごとに未成年を主張する少女を夜に連れ出すのは、なにも今回が初めてではない。(※ちゃんと、数時間で戻している)
経験上、空の散歩が意外に冷えるとわかっている天音は、あらかじめTシャツの上からパーカーを羽織っていた。ただし色白の脚は堂々と出している。ホットパンツというらしい。
大層けしからんし、由々しいと思う反面、世の流行と言われればやめさせるのも難しい。見るのも触れるのも自分だけで良いというのに。微妙な男心だった。
いっぽう、当の天音は安心しきっており、素直に烏に身を預け、横抱きにされている。
黒曜石のような瞳はうっとりと空を映し、無防備な愛らしさだった。
「あのひと……、璋子さん? 泣いてたわ。幸せになれるのかしら」
「さあな」
「ひどい。無責任ね、しっかり片棒担いだくせに」
「ひどくない。俺は俺のつとめを果たした。あとは夫の役目だ。あいつ――二の滝の次男は、素直で真面目すぎるぐれぇなんだが、ちょっと早合点するところがある。そこさえ、直りゃな」
「うーん」
気難しく眉を寄せる天音に、烏は出来心で、さっとこめかみに唇を落とした。
すかさず「!! うっひゃぁあっ!?」と、返される超反応にほくそ笑む。
まだまだ匂うような色香には遠い。だが、それでいい。
睨まれてもいい。小言をこぼされたっていい。
――互いに『触れられる』のは、よいことだ。胸があたたかくなる。
こういうのは、ゆっくりでいい。
今度こそ。
ぎゅっと少女を抱き直した腕が、わずかに震えていたのを知るのは、少女本人と風、天を埋め尽くす星々だけ。
ふてくされるのをやめた天音は、再び、おずおずと烏の首筋に額を寄せた。装束の布地を遠慮がちに指でつかんでいる。
その仕草の何もかもが、いとおしくて。
* * *
『わしが嫁御寮から聞いた話と、二の滝のちび助が言うのでは中身が違ったのでな』
――と。
あれから、三名がやしろに戻るのに同行した梟――もといヌシは、烏をつかまえ、花嫁の入れ替わりが行われる間、裏手の外回廊で羽を休めていた。
「御酒は」「あとでの」と、短いやり取り。それで、烏も左隣で胡座をかいて次の言葉を待つ。
きゅるり、と首を回転させた梟は、光る金のまなざしで烏を見上げた。
「あの嫁御、ちび助を好いておる。じゃが、人の世とこうも突然縁を切られてしまうのかと、そこが引っ掛かっておったようじゃ」
「完全なる、あいつの不手際だな」
「まさにの」
ホゥー、ホゥー、と、完璧なまでに梟に擬態するヌシは、嘴以外はまっ平らな顔を元の位置に戻した。そこから、ちらり、と視線を流す。花嫁の控え室の近く。裏口辺りに。
「おかしなものよの。人の子とは。短い時しか生きておらんはずなのに、どう見てもちび助が掌の上じゃ。おそらく、うまくゆくであろ」
「そうか」
……なら、良かった。
ヌシは、こう見えて“ひとの心”の機微に聡い。こいつがそういうのなら、大丈夫なのだろう。
ほっと吐息する烏の右腕を、梟がさわさわと翼で撫でている。どうやら労ってくれているらしい。くすぐったさに頬が緩む。
――――縁を、大事にの。
その一言に妙に“カミ”らしき含蓄を感じて、烏はとうとう、ぶはっと破顔した。そこへ。
「からす、お待たせ。送って……なにその梟。可愛い!」
「待て天音、はやまるな。そいつは」
「え? あっ」
控え室の裏戸を開けて天音が現れ、嬉々と走り寄ってきた。
が、もちろん山のヌシとて、天音にいいように撫でくり回されるわけにいかない。“神気”を分け与えるわけにいかないからだ。
避けるのも億劫だったのか、手っとり早く、す、と空気にかき消える。
残念そうにしょげる天音の頭に手を乗せ、よしよしと慰める。
こんな特権は昔もいまも、これからも。
(俺だけでいい。時が来れば、必ず)
――――――――
「結構待ったし、もう少しなら待てる。気にすんな」
「……うん?」
飛翔しながら、なに食わぬ顔で告げた。
いずれ、ぜんぶ食っちまうからな(※比喩)とは、おくびにも出さない。真性の欲が身の裡にあるのを。
はて、俺はいつまで隠し通せるのか?
そんなことは露知らず、天音が無邪気に笑う。
「ね。今度、花火大会があるの。いちど『下から見るか、横から見るか』やってみたかったのよね。こんな風に。できるかな?」
「できるよ」
――――あと少し。あと少し。
ざわつく胸の甘さよ。もう少しだけ、そのままで。
烏のまなざしと笑みが、なにも知らない天音の胸に息づき、たしかな恋として花ひらきつつあるのを。
「あ、月。出たね」
「…………あぁ。綺麗だな」
雲間を抜けた真白の満月が、ひそやかに、あかるく行先を照らし出していた。
〈了〉