(5)それは、駆け落ちとは言わない
夏の夜は短い。月の軌道は低く、それでも昇りきってはいない。
とりあえず客たちはいい。(怒っていたが、天音も)
あえて身を切る話題を提供し、『過去』を酒肴にした。天音が扮する花嫁の初々しさも手伝い、それなりに場は保つだろう。
小一時間程度ならば。
ばさり、と翼を打ち、静寂に包まれた神域のはるか高みを滑空する。同じように動き回る霊力や気配に、皮肉にも目はあちこち泳いだ。
人里に繰り出す輩までいる。知らず、苛立ちが募る。
(くそっ。こうも同族が散らばってちゃ、かえって探しづらい。年寄りは頭が固ぇし。次男坊は、てめぇの嫁を探しに行ったに決まってんだろうが…………って、待てよ? となると)
空中で急停止。そのままの姿勢で留まるため、忙しなく翼に風をはらませた。
唐突に、不自然なほど見当たらぬ花嫁の璋子こそが怪しいと思えた。
いくら“神気”を分け与えられたとはいえ、不可思議な能力があるわけでもない。術者でもない、ただの人間がどうやって逃げおおせた?
聞けば齢二十六。通常であれば、とっくに道理のわかる成人だ。
麓の町で雇われ美容師をしていたという。見初めた次男坊が惚れ込み、人間に化けてたびたび勤め先に出入りし、かなり強引に説き伏せたとか。
他人事ながら、聞くだけでくらりとした。――他人事だからこそ。
烏天狗は、おおむね好いた異性への執着が強い。仕方がない。本能に起因する。なにしろ番なのだ。
「生涯にただ一度だけ、のな」
長い長い妖としての生を連れ添ってくれる、大事な伴侶。次男坊の立場で、自分ならばどう動く?
もし、花嫁が本当に逃げたのだとすれば。
宙に浮かび、顎に指を添えて思案した烏は、はっと瞠目した。
「……ッ、まさか!?」
いや、ありうる。あいつならば。
翼の一打ちで方向転換。
闇に沈む、広く波うつ山なみに視線を凝らし、ぽっかりと穴が空いたように同族が立ち入らない場所を探した。
そのなかに、峰の奥に夜露がかかり、月光を反射して霧のようにけぶる谷がある。
そこへ、落ちるように飛んだ。
予感が正しければ。
『そこ』に役者は揃っているはずだった。
* * *
「――璋子、寒くないか? すまない。おれが父上たちに、うまく伝えられなかったばかりに」
「ううん。暁さんは悪くないわ。わたしがどっち付かずだったの。…………だめよね。覚悟が足りなかった。まさか神様とか妖怪とか、もののけなんて。お婆ちゃんの昔話でしか聞いたことなかった。御山に、本当にいたのね」
「うん」
染みる沈黙。ぴちょん、と水がしたたる。真っ暗な洞窟のなか。
夏なのにひどく冷えるのは、ここが昼間でもひんやりとした岩室だからだろうか。
恋人が『霊力』を使えば身内にばれてしまうだろうと、璋子は持参したスマホをライト代わりに点けた。
電池がもたらす機械的な明かりは、ここでは異質なほど明るい。
地面に置かれ、天井に向けられた白い光は、祝言から逃げたふたりの顔も均等に照らしている。
璋子は綿帽子のない白無垢姿。
暁、と呼ばれた烏天狗は黒い袴姿。
両者ともに、全身しとど濡れている。それで、光を挟んでぺたりと座りこんでいる。
すると、ホゥ、ホゥ、と傍らで暢気な声がした。
一風変わった梟だった。
梟は、特有のとんでもない角度まで首を傾げる。しかも、喋った。
「なんじゃなんじゃ、情けないのう。もう『駆け落ち』は終いか。ん?」
「主様っ! あんまりです。彼女は……璋子は、本当は、おれになんて嫁ぎたくなかったのに」
「え!? あああの、ちょ、暁君?」
慌てて相手の言を止めようとする璋子に気づかず、やや童顔の烏天狗は両手を梟のそばに打ち付けた。
現代的な感性を持つ璋子から見れば、ほぼ、手のひらによる床ドン。
梟はスマホから三歩ほど離れている。にも拘わらず、淡く輝いていた。
瞳は金。星々を閉じこめたような羽毛は銀。瞳孔も銀。それで作り物めいている。
が、紛うことなき山のヌシ。その仮の姿だった。
人間からは畏怖を込めて土地神と崇められる存在に、暁はこんこんと説明口調で食ってかかった。
「良いですか。お聞きくださいませ、主様。“神気”を受ければ、清らかな乙女は祝り人となり、我らと同じ“層”に生きる者となる。つまり、もう人の世には戻れないのです。なぜこんな大事なことを……おれが父上たちに捕まっている間に。確認もとらず!」
「あ、あのね。暁君、それは」
そろそろと指を伸ばす璋子に、手を伸ばしそうになり、暁は、ぐっと堪えた。また眉を険しくする。
「璋子は黙ってて。この際いちど、誰かが主様に言わなきゃいけない。将来的に、また犠牲者が出てしまう前に」
「犠牲」
「そうだよ。だって」
――――本当は、人の世に未練があるだろう? 貴女が選んだのは、『妖の恋人』じゃない、と。
泣きそうな顔を歪めた刹那、ぱりん、と、かすかに破砕音が響いた。洞窟の入り口を隠す瀑布の音が途切れ、そうしてまた落ちる。
ほほぅ、と感嘆したように梟が鳴いた。
砂混じりで段のある岩場を悠々と歩む気配。下駄の音。
暁はとっさに璋子を背に庇ったが。
「あ」
ぽかん、と口を開けて凍りついた。ある意味予想どおり。同時に、どこまでも想定外だった。
「見つけたぞ。この、考えなしのド阿呆……!」
水の煙幕を通り過ぎたにしては、男は一滴も濡れていない。
代わりに宝石じみた雫を肩に、頭に無数に被っている。それらをぶるりと振るって払い落とすと、氷と思わしき粒が一斉に散って、ぱららっと雹のように転がった。
「早かったの。坊。つまらん」
「こんの、くそ爺……! 山の連中の手前、貴様なんぞを主様とか崇めなきゃなんねぇの、そろそろ嫌んなるぜ」
「一の杜の、若……?」
呆然と問う若年の同胞を、見た目と言動よりも老成した中身を抱える青年は、やれやれと見下ろした。