(3)つがいの少女
先に歩いていた黒羽の青年――二の滝の守の長男は、小ぢんまりとした神社の手前で烏を待っていた。
神域とはいえ、人間の神主が定期的に手入れをしている。そのため、こうして催しごとの際にはこっそりと拠点にすることが多かった。
肝心の主様は、始終ここに詰めているわけではないのだが……。(むしろ、いないことのほうが多い)
古式ゆかしい烏天狗らしく、修験者装束のふたりは、下駄を脱ぎ揃えて正面の階段を昇った。
入り口という入り口はすべて施錠してあるものの、妖にはあまり効果がない。
修行を積み、現世の実体に関与しうる大天狗ともなれば、まなざし一つで外せる。
キィ、と軋みを上げてひらいた扉の内側は正方形の小部屋だった。奥には無灯火の祭壇があり、丸い鏡が祀られている。
左右は壁と几帳で仕切られ、それぞれ細い廊下が続いていた。
二の滝は迷わず左へ。
無言で付き従うと、「こっちは花嫁の控え室だ」と説明を受けた。
通常、よほど近い親族や世話役でもなければ入れぬはずだが、『事情』を知る烏は、ちらりと隣を窺う。
(やはり、か)
あれほど涼しげだった兄貴分の横顔は、いまや切羽詰まって優れない。
烏は足を止めて瞑目し、これ見よがしに溜め息をついた。
「二の滝。天音はどうした? 俺が連れてきた娘は」
「うっ」
うるわしい顔の青年は、とたんに沈痛な面持ちで顔を背けた。
二の滝は男にしておくのが勿体ないほどの美形だが、いざ有事ともなれば持ち前の嫋やかさは霧散し、きびきびとした武官じみたそれになるのを知っている。よって、手心は一切無用。
肩幅と上背で勝る烏は声を低め、しずかに凄んで見せた。
「誤魔化すなよ。あれは、そっちの次男坊が連れてきた娘が、こともあろうに土壇場で逃げたって言うから、仕方なしに『貸した』んだ。顔を隠せば、人間の気配で都合がいいからって」
「そ、それが…………ん?」
そこへ、タタタ……と軽い足音が近づいた。元気に衣をさばく音も。
ひょこっと曲がり角から頭を覗かせたのは、初々しくも活発そうな少女だった。
天音だ。
こぼれそうな黒目がちの大きな瞳。ちいさく整った鼻梁と唇。気の強そうな眉。表情だけ見ればいつも通りであり、とくに困った様子はない。烏は、ほっと息を吐いた。
「よかった。無事か」
「――は?」
天音は鋭く訊き返した。
美少女形無し。見るからに不機嫌顔となる。
「『無事か』じゃないわ。遅い! いくら夏休みでも、明日は部活なのに。無断で家を出たのがバレたら、あの兄に殺されちゃう。どうしてくれるの」
「おっと」
どすん! と、衝撃。
小柄な身体の体当たりを食らい、そのまま、腰から背中に手を回されてぎゅうぎゅうと抱きつかれた。
* * *
少女は今年十五歳。
現代基準でいえば、まだ子どもだ。当然白無垢姿になるには早い。
つまり、宴の間だけの身代わり。そのために烏が連れてきた。
とはいえ、彼女と縁を繋げたのはそんな理由からではない。今生の彼女との出会いは、ほぼ十年前に遡る。
烏は、彼女が物心つく前からちょくちょくと様子を見に行っていた。
ある日、あっさり正体を見破られ、幼い声で訝しげに誰何されてしまったのだが。
――――ずっと、ずっと。待ち焦がれていたのだ。彼女が生まれるのを。
数百年前に命を散らした“彼女”の生まれ変わりは、人ならぬ者を完全に感知できるほど霊力も高く、普通に触れることもできる。
これに気づいたときは喜ぶとともに、心底驚いた。
(人間は、俺たちとはそもそも生きてる層が違う。お互い、すすんで近寄らねぇし。すり抜けちまうはずなんだが)
あまねく妖を認知し、双方に負担なく触れられる。
こんな奇跡は本来ならば、脱走した本物の花嫁のように主様から“神気”を分け与えられなければ不可能なことだった。
烏は、まじまじと腕のなかの少女を眺める。そっぽを向いて伏せられた長い睫毛。紅潮した頬。
どんな意志が作用してか、前世と寸分たがわぬ容姿。名は昔、自分が付けてやった仮の名「天音」。
偶然か、それとも――?
いまは髪結いの途中だったらしく、癖のない髪がこぼれ落ちて胸下までを彩っている。打ち掛けや掛下、半襟などはすべて白。髪の黒との対比があざやかで、薄化粧も楚々と似合っているとくれば。
――……前 言 撤 回。
十五でも充分綺麗だ。
なぜ、今日の相手が自分ではないのかと、とっぷり黄昏れてしまう。
烏は改めて嘆息した。
「からす?」
「何でもない」
あどけなく問う声の主を、むしょうに滅茶苦茶にしたくなり、烏は衝動を抑えるために、むりやり穏やかに微笑んだ。
世話役の足音がバタバタと奥から聞こえたのは、そのあとだった。