(2)小競り合い
烏たちが居場所と定めた窪地は、上座というよりは下座。石段をから左に逸れた、灌木の茂みにほど近い場所だった。
上座は細かな石や、ごつごつとした岩が多い。山の中腹に比べれば、木は、やしろの周りは一層少ない。そのため見晴らしはよく、冴えざえとした月明かりが遮るものなく辺り一面を照らしている。
すでに客は数名ずつの固まりで酒盛りを始めており、浮わついた空気のさなかにあった。
面を被るひとを模したもの。本性そのままに異形をなすもの……。
こうして見ると半々だ。烏と焔猫は完全に前者だった。
舐めるように盃に口をつけていると、気さくな妖たちが次々に相席を求めてくる。それに愛想よく応えるのは専ら焔猫で、烏はどこ吹く風。
が、それも折り込み済みのように若い妖が総勢八名。それぞれ、思い思いに噂話に花を咲かせていた。
――やれ、先日は人間が“きゃんぷ”と称して境の水場で遊んでおった。目障りだったので転ばせてやっただの。
――意地の悪いことをするな。敬虔な者もおる。麓の人間の神主は、毎月欠かさずそこな社の榊を替えてゆくではないか、など。
平和だなぁ、と、ぼんやり心ここにあらず。
太鼓の音もだんだん間遠となる。そろそろ主催者側の一族――同じ烏天狗でも持ち場の異なる“二の滝の守”らが入場してもよいのに。おかしい。
(なにか、あったな)
不測の事態があったと、じつは事前に聞いていた。それで、烏なりに解決に尽力もしていた。それでも姿を現さぬ一族に、不安の黒雲がもくもくと胸中に湧く。
いちだんと不機嫌に眉間を寄せた。そのときだった。
「のう、一の杜」
しどけなく声をかけられる。
何だ、と応じると、焔猫を挟んで反対側に蛇体を顕にした湖沼の守がとぐろを巻いていた。
豪快なことに、持参したらしい大盃いっぱいに酒を満たしている。二又に分かれた舌がちろちろと愉しげに揺れているので、大の酒好きなのだろう。
来たときは人型だったはずだが……。
辛抱強く言葉を待つと、蛇はとろん、としたまなざしで鎌首を傾げた。
「たしか、此度の花嫁どのは生粋の人間とか。どうじゃ? そんなによきものか。ひとの乙女とやらは」
「! おい、よせって」
「……」
すぅ、と烏の紅の瞳孔が縦に細くなる。黒瞳鋭く蛇を睨みつける友人に、焔猫がすかさず仲裁の声をあげた。
『口は災いのもと』を体現しそうな当の大蛇は、シャシャシャ、と笑い声のような威嚇音を発して意に介さない。傍目にもはっきりとわかる、嘲りの色濃く烏を眺めている。
「おぉ怖い。さすがは当代きっての変わり者と名高い、一の杜の長男坊じゃ。たかだか人間のおなご一人――いや、違うな。すでに生きてすらおらぬ、異界の亡者だったか。生きていたときに甚大な穢れを……」
「うっっせぇ。口を慎め、沼のへなちょこ」
「へ、へなッ!?」
「あぁあぁ。もう、落ち着けって、ふたりと……うわっ!? つべてっ!!」
今度こそ諍いを止めるべく友の肩に触れた焔猫は、火精ゆえの敏捷さで思わず飛びのいた。
明らかに烏の周囲だけ霜が降りている。きらきらと月光を弾き、空気中の水分が瞬く間に凍っていった。
真夏に舞う、氷華。
窪地にうっすらと冷気が溜まり始め、ことの異様さに気づいた誰もが注視して口を閉ざす。
へなちょこ呼ばわりされた蛇は、やや後退しつつも首を低い位置に構え、いつでも飛びかかれる体勢をとった。
一触即発。まさにそこへ。
「失礼。ここに我らが同胞、一の杜の総領息子どのはおらぬか」
――一声。
涼やかな気配が羽音とともに降り立ち、声を響かせる。
烏は剣呑な空気をまとったまま、それを見上げた。
「……二の滝か」
「あぁ。そんなところに。すまんが、ちょっと来てくれないか。話がある」
ちっ、と舌打ちする湖沼の守に気づかぬ体で、颯爽と長髪をなびかせた烏天狗は、素早く同胞の腕をとった。
有無をいわさず立ち上がらされた烏は仏頂面だったが、ふと思い出したように振り返り、肩越しに蛇を見る。
「おい、沼の」
「なんだ、やるか。一の杜」
「ちがう。覚えとけ。佳い女は、亡者でも生まれ変わっても、いいもんだ。変わり種、大いに結構。認めるさ。だがな」
に、と嘲笑い、好戦的な光を瞳に宿す。
「どうしても喧嘩したいってんなら、付き合ってやる。ただし『あとで』だ。かような祝いの席で、非礼極まりない暴言の数々。ちったぁ考えろ。この馬鹿が」
「!! なっ……何だと!」
「あとな、いまどき、人間だからと軽々しく浚って食えると思ったら大間違いだ。我らと関わりを持てる人の子など、そう居らん。此度の花嫁どのとて、主さまに神気を分け与えられての良縁と心得よ。わかったらとっとと沼に帰れ、酔っぱらい。いいな? 他の客に迷惑かけんなよ」
「~~、もがっ、もがが! ……ぷはっ、離せ焔猫! お前は熱い!! 鱗が焦げる!」
「へぇへぇ。そりゃあすみませんね。おい、一の杜。さっさと行け。あんまり気を立てるな。冬になっちまう」
「ん? あぁ、すまん」
焔猫は烏の背後を顎で示し、片目を瞑りつつ、蛇の首根っこや口を押さえつけていた。
おかげで弛緩する空気を感じ、烏は無意識に走らせた“力”を制御する。
よく気のつく、できた友人に感謝を込めてほろ苦く笑んだ。
――わり、ちょっと外すな、と、気軽に断りを入れた。