(1)あやかし夏月夜
山陰。室伏山と呼ばれる、深く息づく杜がある。
ひとの手によるものは、里から最寄りの山頂に建てられたやしろと石造りの参道だけ。
そこから続く尾根。かさなる稜線。山腹と裾野は木々が豊かに生い茂り、清水せせらぐ渓流が谷あいにいくつも通っている。
けがれのない手付かずの杜――ここら一帯が信仰の対象なのだと。
ゆえに、近隣の人間たちはわかりやすく明確な線を引いた。
参道脇の滝壺に配された大岩に注連縄を張り、里山と神域の境目を。
すなわち、そこに住まうべき者の領域を。
――ひとか、否か。
* * *
(べつに、人間がいてもいなくっても、うちの主様は頓着しないだろうがな……)
頬を撫でる風に目を細め、烏は、すっかり藍色に染まった夜空を見上げた。
晧々とする満月は枝葉の天蓋の向こう側。星々もまた。
葉の輪郭越しに降り注ぐ蒼い光には、浴する、という言葉がしっくりとくる。千年以上も昔、「夏は夜」と謳った輩がいたのにも頷ける。ひとだけではない。妖の身にも、夏月夜は心地よい。
が、今宵ばかりは普段の静けさから縁遠かった。
どん、どぉん……と、時おり太鼓の音が木霊して、ざわめきが耳に届く。
まるで人間たちが行う祭りの縁日だ。
山頂まで続く苔むした石段をゆくのは烏だけだったが、何体もの“カゲ”が滑るように昇っていった。
夜のさなかでも“闇”としか形容できぬそれらは、ふわふわと宙を漂っていたが、やがて凝って変化し、青白い人魂をいくつも従えた鬼女になった。
合わせて四体。
揃いの着物は肩の白から裾の黄へと移る地に、真っ赤な曼珠沙華と葉陰にドクロ模様。全員、この上なく似合っている。趣の異なる姉妹のようだった。
鬼女は造作はうつくしいが、生身の男を頭からかじるのが大好きな古妖だ。
彼女らは烏にあだっぽい流し目をくれると、くすくすと笑い、裸足で軽やかに去っていった。
それを半目で見送ると、今度は別のカゲに肩を叩かれる。げんなりしながら振り返ると、そいつは、あかあかと燃えるすらりとした体躯の男に変化した。いっそ篝火のように明るい。
「よ、烏天狗の。元気だったか」
「あぁ。あんたか、焔猫。相変わらず熱ぃなあ。派手だし」
「どうも?」
燃え立つような火は徐々に収まり、やがて男はにこりと笑った。
互いに真の名など知らぬし、呼ばぬ。妖とはそういうものだ。
変化を終えた焔猫は、人間ならば二十歳そこそこ。金の瞳に緋色の猫耳、炎そのものの長い髪が特徴的な狩衣姿で、火性と獣性を備えている。
およそ見た目通りの人懐こい性格で、何かの拍子にばったり会えば、こうして何くれとなく構いに来る。
(まぁ、悪いやつではない)
烏は自分が立ち止まっていたことに気づき、再び前に視線を戻した。足を動かすたび、カン、カン、と一本歯の下駄が鳴る。
焔猫は足音をたてず、苦もなく烏の横に並んだ。
「つれない奴め。随分と久方ぶりというのに。いつぞや、お前がうっかり主様に封じられて以来じゃないか」
「……いつぞや? いや、たしかに引きこもっちゃあいたが。べつに、封じられてたわけじゃない。あやうく調伏されそうになっただけだ」
「なにそれ。もっとやばいじゃん」
けらけらと天を仰いで笑われ、そのまま肘で突っつかれる。
「主様、なんだかんだ言ってお前らに甘いよなぁ。あん時ゃ、ひっどい地揺れだったし。うちのチビどもなんか、怖がって泣いてたぞ?」
「逞しくなっていいじゃないか」
「おーい、主様ぁーー。こいつ、全然反省してませんよ~」
「やめろ呼ぶな。鬱陶しい」
――――――――
そうこうするうち、頭上の天蓋が途切れた。視界が一気にひらける。
近く、岩男の膝を台に見立てて置かれた和太鼓が大きく打ち鳴らされた。
どん、どぉん!
「一の杜の若様、ならびに焔猫の旦那、おなり~!」
「ささ、これを」
「すげぇな。もう振る舞い酒か」
「……」
到着早々、腰までの背丈しかない一つ目小僧と女童姿の蛍火の精から瓢箪を受けとる。
接待役らしいふたりは、にこにこと笑い、交互に喋った。
「えぇ。今宵は、二の滝の次男坊様の祝言ですから」
「どうぞどうぞ。お好きな場所でごゆっくりお寛ぎを」
「この瓢箪は、二の滝の総領がみずから呪を施しておいでです」
「酒は、今宵のみ無尽蔵に流れますゆえ、取り扱いにご注意を」
「あいわかった」
「かたじけない」
これに注げ、ということだろう。丁寧に朱塗りの盃まで手渡される。
大がかりな仕掛けと懇ろさに焔猫は畏まり、烏は淡々と目礼で応えた。
「おい。うしろ、つっかえてるぞ」
「あ、すまん」
後続の客に押し出されるようにその場を離れたふたりは、きょろきょろと辺りを物色したあと、小さな神社の手前、まだ誰も陣取ってはいない窪地を見つけて腰を降ろした。