ベルと魔法使い ~眠れる森の美女になって25年、妹夫婦に娘が生まれたので、そろそろ起きる時間です~
魔法使いの呪いにかかり、百年間眠りつづけたお姫さまと、姫を目覚めさせた運命の王子さまの物語。
それは、お伽噺にも似た伝説ですが、ブランデンブルク王国は、その伝説の国だといわれています。
国王たちが暮らす城とは別に、少し離れた山間に建っている古い御邸が伝説の舞台となった場所であり、小国にとっては立派な観光資源でもありました。
しかし「あの伝説のお城」などと謳ったところで、実際のところはただの古い邸です。建立から数百年は経過していますが、だからこそあちこちにガタがきているのです。邸までの道は整備されているものの、それっぽく見せるために這わせたいばらのおかげで、夜になればホラーハウスです。子どもたちの度胸試しの場所と化します。
財政難に苦しむ大臣たちは、一計を案じました。
それが、「眠り姫の呪いを逆手に取って人を呼び込もう計画」です。
◇
「で、ベルが犠牲になったわけだ」
「だって仕方ないじゃない。クラーラはまだ五歳なのよ。あの子を眠らせるなんてかわいそうよ」
姉である十五歳のアラベルは、お茶をすすって肩を落としました。
波打つ金糸の髪と、新緑の瞳。外遊びが多いせいで日焼けをした肌はちょっぴり難があるかもしれませんが、この国の第一王女です。姫として、眠りの呪いを受けなければならないのだとしたら、姉である自分の役割だと考えます。
王家に伝わる呪いは、絶対に発動するわけではありません。姫が誕生したところで、本当に眠りについた者は記録上わずかです。眠る期間についてもさまざまな、どちらかというとゆる~い呪いでした。
いまの王家でも呪いは発動していませんが、意図的にその状態を作り出して、人目を引こうという作戦なのです。
そして、その魔法を施す役割を担うのが、アラベルの前で薬草クッキーをかじっている魔法使いのエミル。
眠り姫の呪いをかけたのは、女の魔法使いといわれていますが、エミルはアラベルと同じ年齢の少年です。
長めの黒髪で隠しているのでよく顔は見えませんが、奥に隠されている瞳は深い藍色であることを、幼馴染のアラベルは知っていました。
うんと幼いころは女の子のように可愛かった彼も、長じるにつれぶっきらぼうになりました。
愛想をどこに落としてきたのでしょう。きっとこれが思春期というやつねと、アラベルは思っています。
国家認定魔法使い(見習い)として国王に呼ばれたエミルは、アラベルに眠りの魔法をかけるよう依頼されました。
どんな取り決めがされたのか、アラベルはその場にいなかったのでわかりませんが、なにかしらの報酬と引き換えに、依頼を受けたそうです。
エミルが施す眠り魔法は、伝説の「眠り姫」とは異なっていました。
まず、期間は十年。
時短です。
なぜ短縮させたかといえば、たんに眠っているだけなので、身体は普通に成長するからです。
百年も眠っていると、そのあいだに寿命となり、目覚めることはないでしょう。魔法使いとしては、そんな殺人行為に加担できません。
また、眠り姫への「お触り」は厳禁。
これについては、ひと悶着ありました。
そもそも眠り姫は、王子さまの口づけで目覚めるもの。
眠り姫を興行として考えるならば、「さあ、あなたも眠り姫の目覚めに挑戦してみませんか?」となるのが普通ではないでしょうか。
周辺国の王子さま、あるいは有力貴族に対して、「運命の相手として姫の伴侶となり、一国の主になれる可能性」という、人参をぶらさげているようなもの。
そのご褒美を取り上げてしまうなんて、意味がないのでは?
アラベルが問うと、エミルはムッとした顔となり、最近すこし低くなってかすれた声で言いました。
「おまえ、寝てるあいだ、誰彼かまわず、何十何百という男どもに口づけされたいのか」
「……う、そう考えると」
「寝てるんだぞ。動けないし声だってあげられないんだぞ。不特定多数の男のまえで無防備に寝て、触られる危険を考えないのか。まして、あれやらこれやら卑猥なことをされ――」
「いい、わかった。ごめんなさい」
「もっと考えろ、莫迦ベル」
憮然とした顔のまま、人前では憚られる内容を淡々と言われたアラベルは、赤面してエミルを制しました。
経験は(当たり前ですが)ありませんが、知識は持っています。初めてぐらい、好きな方と望んでそうなりたいものです。
そうしてアラベルは、整備された御邸の一室で眠りにつきました。
王女さまの花婿探しという名の、「国をあげた興行」のはじまりです。
ずっと眠って、十年後に目覚めるのだと思っていましたが、アラベルには意識がありました。幽体離脱というやつです。
長く身体から離れることはできませんが、御邸の内部をふわふわ動くことはできました。
身体に戻って夢の中で、食事を取ることだってできます。すべて、エミルの魔法です。
「だって栄養取らないと、身体組織が死ぬだろ。運動しないと筋肉も弱くなるし、さぼってると起きたときに大変」
「エミルの魔法って、魔法なのに、なんか、こう」
「魔法は万能じゃない」
だから、目的のためには、人間自身があがく必要があるのだというのは、エミルがいつも言っていること。
こうしてアラベルの眠りに付き添っているのも、エミルの目的とやらのためなのでしょう。
まだ見習いという肩書がつくから、それを正式なものにしたいのかもしれません。
世界魔法連盟の基準は、非魔法使いのアラベルにはわかりませんが、「眠りの魔法を再現して、国の復興に寄与しました」というのは、かなり大きな仕事だと思います。
ならばアラベルにできることは、この仕事を完遂させること。
前任の魔法使いが拾って育てたという孤児のエミルが、偉大なる「国家認定魔法使い」の座を得るために、協力は惜しまないつもりです。
物見遊山も含めて、各国からたくさんのひとがやってきました。
お触り厳禁のため、基本的には遠巻きに鑑賞されますが、男性にかぎってはエミルの監視のもとで「運命の相手チャレンジ」ができます。
口づけはご法度ですので、手をにぎり、声をかけるのがせいいっぱいです。
アラベルは寝ているあいだに、山ほどの口説き文句を聞きました。
寝台脇に腕組みをして立っているエミルの隣に浮く霊体アラベル。
「ベル、あの台詞はどうだ」
「うーん、上っ面っぽい?」
「失格。帰れ」
こんな調子です。
ごくまれに、霊感の強いひとはアラベルが「見える」らしく話しかけてきますが、そういった輩はエミルが断固排除です。
そもそもこれは「王家の呪いによる眠り」ではなく、意図的に作り出した「呪いを模したもの」です。運命の相手による目覚めなど、起こるわけがありません。とんだ茶番でした。
やがて十年の歳月が過ぎ、アラベルが二十五歳になる手前。事件が起こります。
十五歳になった妹のクラーラに「呪い」が発動したのです。
大騒ぎになりました。なにしろ、すでにアラベルが眠っています。エセ眠り姫ではありますが、対外的には「呪われている」状態です。
妹姫まで眠ってしまうと、これまでの十年間がやらせだったことがバレてしまいます。国の信用問題にかかわる一大事です。
アラベルは言いました。
「なら、私がその呪いを肩代わりすればいいじゃない。クラーラが受ける眠りを、私が引き受けるわ」
「でもおまえは、すでに十年眠りについているんだぞ」
霊体アラベルと向き合って、父である国王は泣きそうな顔をしています。心労で老け込んで、白髪が増えているようです。その隣でさめざめと泣いているのは、母親でした。
「あなたにばかり苦労を背負わせて……」
「お母さま、クラーラの縁談が整ったのでしょう? お相手の方のためにも、クラーラが眠るわけにはいかない。大丈夫、あと少しぐらいどうってことないわ。私にそんなお相手はいないわけだし、なんの問題もないわよ」
この呪いが解ける条件は、次世代が誕生すること。
すなわち、次の眠り姫となる者が現れることで、呪いは移るのだと考えられています。
アラベルの眠り姫効果で、他国からひとがやってきました。アラベルの相手がなかなか決まらないかわりに、妹への求婚者は増大しました。誰だって、生気のある美少女のほうに心惹かれるでしょう。当然です。クラーラはとっても可愛いのです。アラベル自慢の妹です。
こうしてアラベルは、妹の呪いを肩代わりして、今度こそ本当に「眠り姫」となりました。
とはいえ、状況はたいして変わりません。あいかわらず霊体として過ごしています。このまま時間が過ぎ、やがてクラーラが相手と正式に結ばれ子どもが生まれたら、眠り姫の呪いは消えることでしょう。
安易にそう考えていましたが、そこから「姫」が誕生するまでに、十五年もの歳月が必要になるだなんて、誰も想像していなかったのでした。
◇
覚醒。
引き戻される感覚と、肌をかすめる空気の対流。
久しぶりの生身は、もっと感慨深いものかと思っていましたが、それ以前に感じたのは、
「身体が、重い」
「そりゃあ、ずっと精神体だったからな」
すぐ傍で返ってきたエミルの声に、アラベルはドキリとします。
――あら? エミルの声って、こんなふうだったかしら?
夢の中で、あるいは現実世界で霊体として、エミルの声は聞いていたけれど、実際に耳で捉える彼の声は、アラベルの耳と心を震わせました。
なんだろう、心臓が痛い。
鼓動を、ひさしぶりに身体で感じるせいなのでしょう。心臓から押し出された血液が身体を巡る感覚すらわかるようで、肌が粟立ちました。
寒かったわけではないのですが、エミルが肩から上着をかけてくれました。
腕を通すと袖がずいぶん余ってしまうぐらい、大きな服です。あたたかいし、ふわりと漂う香りは、ちょっぴり薬草臭い。懐かしい、エミルの匂いです。
「立てるか? 無理はするな」
「やってみないと、わからないわ」
寝台に投げ出していた足を床につけます。足裏の感触に、ぞわぞわしました。
エミルが手を伸べ、アラベルはそれに導かれて立ち上がり、そのまま前へ。傾いだ身体は、エミルの胸で受け止められます。
「どうしましょう、エミル。ちっとも足が上がらないわ。足って重かったのね」
なにやら感激したように言うアラベルに、エミルは息を吐き、つづいてアラベルの身体を抱え上げました。
横抱きにされたことでエミルの顔が近くなり、アラベルは思わずじいと彼の顔を見つめます。
「なんだよ」
「えっと、久しぶりだわって思って」
「ずっと傍にいただろ」
「現実の身体と霊体では感覚が違うのよ。これはきっと、その立場になってみないとわからないものだと思うわ」
アラベルは手を伸ばし、エミルの顔をこちらに向けます。そして、邪魔な前髪を掻き分けました。藍色の瞳は部屋の光を反射して、夜空の星のように輝いています。
――そうだわ、こんなふうに綺麗な瞳をしていたのよ。
十代のアラベルは、この瞳がとても好きだったことを思い出しました。
前髪に隠れている瞳を覗きこみ、その夜空に自分の顔を映すことは、アラベルの特権だったものです。
そのことを懐かしく思い出していると、エミルは顔を背けて、アラベルの指をほどきました。
残念。もっと見ていたかったのに。
そっと息を吐くアラベルを抱いたまま、エミルは歩きはじめます。
視点の高さは霊体のときと同じですが、ふらふらと揺れる足の重さや、気合を入れないと倒れてしまいそうになる上半身は、どうにも慣れません。
「重くない? エミル平気?」
「おまえ、俺を莫迦にしてるのか。ガキのころと一緒に考えるなよ」
ともに遊んだ昔、体力不足をよく指摘されていたエミルは、すっかり大人になっていました。これも実体に戻って初めてわかったことです。
己を抱える腕の太さと、胸板の厚さ。肩もがっしりとしていて、首だって太いです。アラベルが覚えているエミルの、倍ぐらいの質量です。
「大きくなったのねえ、エミル」
「四十の男をつかまえて、なに言ってんだ」
「そうよね、そうだわ。私ってば四十歳になったのよね」
エミルの言葉に、アラベルは改めて実感します。
クラーラの呪いを肩代わりして、十五年。
本当の「眠り姫」になってからも、いちおう「運命の王子さまチャレンジ」は開催されていましたが、三十歳を超えたあたりから志願者は激減しました。そのころ、クラーラも隣国のエグモント王子と婚姻が成立したこともあり、世継ぎの心配もなくなります。
つまり、なんというか、国としても、あまり積極的ではなくなってしまったのです。
さらにいえば、隣国はブランデンブルク王国と違って、お金が潤沢でした。資金援助が得られたのです。
財政難に悩んでいた大臣たちは、コロリと態度を変えました。おいでませエグモントさま。
そうなるともうアラベルは、呪いを消化するために眠っているだけの存在。
霊体アラベルは、思ったものです。
暇だわ。
眠り姫って意外と大変なのね。することがないって疲れるわ。
すこしだけ後悔しましたが、「私の代わりにごめんなさい」と泣く妹を慰めているうちに、これもまた人生だと思うようになりました。霊体であること、御邸から出られないことを除けば、たいした支障はないと考えたのです。
一見すると死人のように見えるアラベルの寝所は、観光スポット的に美しく飾られていることもあり、荘厳な雰囲気があります。寝台は、窓から射す光を効果的に演出できるよう配置されているため、すわ女神かといった空気です。
誰もいないからと罪を告白してみたり、機密情報を吐き出してみたりするひとが続出です。
そのすべてをアラベルは記憶し、様子伺いにくる国王や宰相に事細かく教えてあげました。
霊体になったおかげか、不思議なモノも見えるようになりました。妖精は実在するのだと知れたことも、「呪い」のおかげでしょう。
エミルが見ている世界に近づけたことも、うれしいことでした。
エミルに運ばれるまま御邸の広間に到着すると、そこには家族が勢揃いしていました。
霊体では対面していましたが、やはり本当の瞳で見る家族は、年月を感じさせます。自分が四十歳になったように、彼らも年齢を重ねたのです。
「アラベル、長い間、ご苦労だった」
王を引退した父が言いました。
母はやっぱり泣いています。あいかわらず、泣き虫なようです。
「お姉さま、お疲れさまでした」
そう言ったのは、いまや王妃となった妹です。
彼女の膝上で目を丸くしている甥のジャンは、今年でたしか五歳。動いている伯母に驚いているのかもしれません。
「義姉上、貴女の尽力によりクラーラは元気に暮らしています。感謝してもしたりません」
義弟であり、この国を治める王となったエグモントは、さすが元大国の王子といった貫禄です。
これでよかったのだと思いました。
呪いが発動せず、アラベルが婿を取ったとしても、同じようになったとは思えないのです。クラーラだからこそ、結び、育んだ愛なのです。仲睦まじいふたりを見ていると、微笑ましい気持ちになります。
なごんでいると、クラーラの膝上にいるジャン王子が、首を傾げて問いかけました。
「ベルおばさまはおとななのに、どうしてまほうつかいさまのおひざにのっているの?」
大人たちは言葉を呑みこみました。そっと目を逸らせます。
ばつが悪くなったアラベルは、エミルに申し立てました。
「ほら、ジャンに笑われているわ。おろしてちょうだい」
「立つこともままならないくせに、ひとりで座れると思ってるのか? いいから、俺に支えられてろよ」
「そこを指摘されると反論が難しいわね」
ぐぬぬと口籠ったアラベルからジャンへ視線を移し、エミルは言いました。
「殿下、クラーラさまが殿下を膝に載せているのは、殿下を大切に思い、気遣っているからです」
「はい」
「つまり、私が殿下の伯母上をこうしているのも、同じことです」
「わかりました」
「理解が早くてなによりです」
魔法使いと王子は、納得したように頷きあいました。
アラベルは思わず口をはさみます。
「まあ、エミルったらジャンとそんなに仲良くなっていたのね。ずるいわ、私だって霊体じゃなかったら、もっと触れ合いたかったのに」
「……お姉さま、いま言及するところは、そこではないのではないかと」
「そうねクラーラ。ジャンはいずれこの国を背負う立場なのだし、魔法使いに弟子入りするわけにはいかないわよね」
「いえ、あの、そうではなくて……」
「それで、今後のことですが」
義弟がおもむろに話を切り出しました。アラベルの今後についてです。
ずっと眠っていた身体が馴染むには、それなりに時間を要するでしょう。しばらくは王宮で静養し、ゆっくりしてほしいと告げられました。
こんなに長く眠りについていた例はありませんので、世界魔法連盟的にもアラベルは注目されているのだとか。いずれ、調査員がやってくるようです。
それらに関しては、エミルが対応を請け負ってくれるというので、安心です。魔法のことは、専門家にお任せです。
王宮に戻ったアラベルを、古参の使用人らは涙を流して歓迎しました。すでに仕事を辞めてしまった者たちも、噂を聞きつけて顔を見にやってきます。かつて、アラベルの侍女を務めていたメグに至っては号泣です。
「生きているあいだにアラベルさまにお会いできるとは、思っておりませんでした」
「……そうね、私もね、あとで気づいたのよ。クラーラが女の子を生まなければ、私ってばそのまま寿命を迎えていたのかもって」
「アラベルさま、身の回りのことはどうされているのですか?」
「それが、若いメイドたちは私のことを遠巻きにしているのよね。珍しいのかもしれないけれど、ちょっと窮屈だわ」
――あの眠り姫さま。
――母がアラベルさまと同世代よ。
――眠っているところ、子どものころに見に行ったことがあるわ。
――人形じゃなかったのね。
年若い彼女たちが生まれる前に、アラベルは眠りについているのです。
ほぼ幻の存在ですから、珍しくて仕方がないことでしょう。なにしろ、お伽噺の生き証人です。
苦笑いを浮かべるアラベルを見て、メグは拳を握りました。
「アラベルさま、私、現役復帰してもよろしいですかしら。幸い、子どもたちはもう手を離れておりますし、フルで働けます」
「まあ、メグ。もしかして、例の彼と結婚したの?」
「残念ながら違いますわ、私の初恋は実らなかったのですよ」
十代半ば、こっそり恋バナを繰り広げたのは、懐かしい思い出。
目覚めて以来、「呪いが解けた眠り姫」として見られるばかりだったアラベルは、ひさしぶりに「自分」に戻れたような気がして、胸のうちがあたたかくなりました。
眠っていたアラベルはともかく、きちんと生活していたはずのエミルまでもが王宮で騒がれている理由は、彼の容姿によるものかもしれません。
だらしなく伸ばしていた髪を整えたエミルは、大変整った顔立ちの美丈夫に変身を遂げたのです。素顔を知っているアラベルですら、思わず息を呑んだほどの美貌です。
それはきっと、服装のせいだと思いました。
御邸にいたときのエミルは、薄汚れたローブをまとい、得体の知れない魔法使いっぽく振る舞っていたのです。
しかしいまは、王家に仕える側近の制服。その着こなしは、完璧でした。
――もっと小汚いおじさんだと思ってたわ。
――むしろ人間だったことに驚きよ。
――魔物のような耳や角が生えているって噂もあったわよね。
――まだお独りでしょ? じゅうぶん「有り」だわ。
廊下をゆっくり歩いていたとき、若いメイドたちが黄色い声をあげているのを耳にして、アラベルは心が騒ぐのを感じました。
まるで女の子のように可愛かった幼少期のエミル。
顔を隠すようになり、ぶっきらぼうになった思春期の少年エミル。
アラベルに付き添って、御邸で魔法をかけつづけていた青年期のエミル。
どのエミルもアラベルにとっては同じですが、素顔を知らなかった者たちが驚くのも無理はないのです。
髪を切って、身体に合った服を着こんだ壮年期のエミルは、かつてのあやしげな胡散臭い魔物から、年齢に応じた落ち着きを兼ね備えた紳士へ。
本当に立派になって……。
アラベルは、幼馴染の成長を喜びました。
それでいてすこしだけ寂しくもなったのは、なぜなのでしょうか。
それはきっと、置いていかれた気持ちになったから。
同じように御邸で呑気に過ごしていたのに、呪い期間が明けた途端、元の世界に溶け込み、先へ先へと進んでいくから。
追いつけなくて、寂しいのです、きっと。
◇
二十五年眠っていたアラベルは、時のひとでした。
国内外から、多数の要人が謁見に訪れます。そのなかには、かつて「運命の王子チャレンジ」に挑んだ男もいました。
僕がまだ独身なのは、貴女を娶るためだったんだという男がいれば、第二妃にと望むどこかの王族もいます。
国内有力貴族の多くは、似た年頃の未婚者を選出してきましたが、それらの多くは義弟であるエグモント陛下によって排除されました。
どうやら、素行に問題があって辺境においやり、持て余していた息子たちを、再利用しようと目論んでいたようです。
――義姉上のおかげで、不届き者が次々に湧いてきて、掃除がしやすいですね。
おかげで粛清が進みましたと、爽やかに笑う。
妹が選んだ相手は、なかなかに有能でした。エグモント王、まじエグい。
夫の手腕を褒めたのち、クラーラは改めて言いました。
「お姉さまがあのような殿方に嫁がなくて本当によかったですわ。近々お父様からお話があると思います。きちんとしたお相手を考えているはずですから」
「そのことだけれど、ねえクラーラ。私、べつにいいのよ。だってもう四十歳ですもの。しかもずっと眠っていた世間知らず。お相手が気の毒だわ」
「私、お姉さまには幸せになっていただきたいの」
「いまのままでもじゅうぶんに幸せよ。自分の身体だし、生きていることを実感しているわ。すごいことよ、生きるって」
「……お姉さま、ごめんなさい」
泣かせるつもりはなかったのに、妹を泣かせてしまいました。
アラベルとて王族ですから、婚姻の大切さは知っています。国力を高めたり、安定させる手段です。
王家に籍は残っていますから、いずれそういう話はあるとわかっていました。思っていたよりも早かったですが、覚悟を決めなければならないようです。
若い男性の未来を奪うのは忍びないので、その際には見合った相手を選ぼうと、思っていました。
独り身となれば、自分よりも上の世代に限られます。おそらくは、妻に先立たれた相手の後添いになるのだろうと、ぼんやり考えていたのです。
「の、後添い、ですか、お姉さま」
「私だって自分というのものをきちんと知っているわよ。美人でもないし、社交の知識もないのよ。霊体生活が長かったから、妖精の姿は見えるようになったのだけれど、それが通用するのは幼い子どもだけだわ」
「アラベルさま……」
妹に続いて、侍女に復帰したメグまでもが、なにか残念なものを見る眼差しを向けてきます。
さもありなん。その年齢でなに甘いことを言っているのかと、呆れているのでしょう。
「そうよね、そもそも誰かに嫁ぐこと自体が無理という話もあるわけで。どうしましょう、私、起きたけれどなんの役にも立っていないわねえ。もうこれは寝ていたほうが、新しい興行になってよかったのではないかしら?」
いっそ今からもう一度。
猛スピードで迫りくる縁談から逃げようと立ち上がり、けれどふらりと貧血を起こしたアラベルを支えたのは、部屋の隅に控えていたエミルでした。
振り仰いだエミルは、とても不機嫌そうです。前髪を撫でつけ、そのご尊顔をあらわにしたエミルは、顔が整っているだけに怒ると凄みがあります。
「……クラーラさま、メグ殿。しばらく席を外していただけないでしょうか」
「ええ、そうね。お姉さまにはきちんとわかっていただかないと」
「エミルさま、よろしくお願いたします」
「承知しております」
「ねえ、エミル。なにを怒っているの? え、待って、クラーラ。メグも、置いていかないでちょうだい」
そそくさと出て行く妹と侍女に助けを求めると、メグが振り返って言いました。
「アラベルさま、私は無理でしたけれど、アラベルさまはきっと叶います。私が保証いたしますわ」
朗らかに笑ったメグは、次にぐっと握りこぶしを作りました。
それは、メグの癖です。アラベルを励ますときに、いつもそうやっていたことが思い出されます。
年齢の近い女の子同士の、身分を越えた内緒のおはなし。
メグは、庭師の息子に。
アラベルは、幼馴染の魔法使いに。
十代の淡い恋の思い出は、もう遠くなってしまいました。
メグは別の男性と結ばれ、とても幸せそうです。庭師の息子にはすっぱり振られてしまったのだとか。
実らないといわれる初恋をきちんと終わらせて、メグは前に進んで今があるのです。
ならばアラベルだって、そうでしょう。
先へ進んでいくエミルの行動力に嫉妬するぐらいなら、自分も踏ん切りをつけて玉砕してから、前へ進む。
そうするべきなのです。
「ねえ、エミル。私ね――」
「おまえ、どっかの隠居老人と結婚したいのか」
かけようとした声は、エミルに遮られます。
「したい、というか、他に選択肢はないでしょう? 私のこと、いくつだと思っているのエミル」
「俺と同い年だが」
「ええ、そうよ」
「その同い年の俺が独り身なんだが」
「知っているわ。エミルってば人間嫌いですものね。それでも随分と社交的になっているから、私は感動しているところよ」
孤児だったということが関係しているのかどうかわかりませんが、エミルは他人を信用しないふしがありました。王族ということでアラベルとは縁がありましたが、普通に出会っていたらきっと話すことはなかったでしょうし、会ってくれることもなかったことでしょう。
「……それで、俺が独り身なのに、なんでおまえは見知らぬおっさんに嫁ぐんだよ」
「そ、そ、そうね、お父様にお願いして、エミルにも縁談を考えてもらいましょう。エミルってば、いまとても人気があるのよ。とても素敵だって噂だわ。きっと選り取り見取り、選びたい放題よ」
大変です。エミルは、アラベルが先に脱おひとり様をすることに対して、焦りを覚えているようでした。
――これ、もう、私なんて眼中にないってことじゃない?
アラベルは泣きそうでした。
「縁談など、先王には、とっくに願い出てる」
「い、いつのまに!?」
「二十五年前。この茶番劇を頼まれたその時だ」
「そ、そんな前から想い人がいたのなら、どうして呪いを引き受けたりしたのよ! 私、エミルのお相手に謝らなくてはいけないわ」
さらなる事実に、胸は張り裂けそうです。
自分のせいで、エミルの人生がめちゃくちゃです。
ボロボロ泣きはじめたアラベルを慰めるように抱き寄せて、エミルは言いました。
「仕事を受けた理由はひとつしかないだろ。好きな女が国のために十年間、眠りの魔法にかかるっていうんだぞ。そんな魔法、他の誰にもやらせない。ベルの精神に干渉するのは、俺だけでいい」
「……うん?」
「引き受けたはいいが、あれはなかなかハードだった。目の前でベルは無防備に寝てやがるし、そのくせ精神体は精神体で実体以上に無邪気でやがる。どっちにも手出しができないとか、地獄でしかない」
「……えと、あの、エミル?」
「しかも、いろんな男がベルを口説くさまを見せられるんだ。なんだあれ、一国の王子だろうがなんだろうが、絞め殺していいんじゃないかと何度も思った。俺は魔法使いだし、国には縛られないしな。世話になった先王には、外交問題は勘弁してくれと懇願されたから耐えたが、ベルの身体を撫でた野郎のは潰しておいた」
「潰す……?」
「あんな奴の子孫は残さなくていいだろう。命は取らなかったんだから、感謝してほしいぐらいだ、クソが」
低くて艶やかなエミルの声が、物騒なことを囁きつづけます。
エミルの腕の中で、アラベルは混乱中でした。
えーと、つまり?
「ベル」
「はい」
「眠り姫を目覚めさせる運命の相手、その条件は」
「……口づけ」
眠り姫は、瞳を閉じました。
そして、魔法使いの口づけを受けたのちに、瞼を開きます。
目前に広がる夜空の瞳に映っているのは、二十五も歳を取った自分の顔。
しかし、それがなんだというのでしょう。あのころと変わらず、いまもずっと、エミルはアラベルの傍にいるのです。
「ねえ、エミル。私ね、出会ったころからずっとずっと、エミルのことが好きなのよ」
「知ってる」
「エミルは?」
「俺がベルを手に入れるために、どれほどの時間と労力をかけたと思ってるんだ。俺の気持ちを知らないのなんて、おまえぐらいだ、莫迦ベル」
ぶっきらぼうな物言いのまま、けれど昔よりも穏やかな笑みを湛えた魔法使いの顔が、ゆっくりと近づいてきます。
二十五年ぶんの口づけは絶えることなくつづき、眠り姫は思いのままに、みずから瞳を閉じたのでした。
おしまい。
めでたしめでたし。
【どうでもいい補足】
ジャン王子は、王家の呪いについても説明されており、
「妹が生まれたら、アラベル伯母さんのように眠らなければならなくなる、かもしれない」
ということで、魔法使いエミルのところに通い、来たる日に備えようとしているしっかり者です。
日参していたので、エミルともわりと親しいです。
ついに妹が生まれたので、これからもっと勉強することでしょう。
頑張れ、お兄ちゃん。