序幕 さようなら、最果ての洋館
昔々、物語というものはそうやって始まる。
僕は昔、弟だった。兄だった。父だった。
母であり、姉であり妹だった。
時には戦争の道具だったり、息子だったり、娘だったり……
今はこの月と星に照らされた朽ち果てていく洋館と昔々住んでいた人々の墓守だ。
「月の位置、星の位置から割り出すに今は夜中の二十一時頃だろうか? 時間調整機能が狂ってどれだけたったろう?」
自らを墓守と名乗る人物?
正確には人ではない者。
無機質な声で独り言を話す。それは子供のような声、少年のソプラノのような特徴のない声だった。
「飽きたら旅に出なさい……か、別に飽きはしていない。でも味覚機能がせっかくあるのだからそれも悪くない……のかな? それに体内の時計機能が狂ってるから逆に人らしくあれるかな?」
廃墟といってもいいその元洋館を眺めて、独り言を続ける彼、あるいは彼女。
昔、ここに大切な友人と住んでいた。正確な日時と時間までが思い出せない。だから、記憶されている大切な事を思い返す。
ある時、一緒に住んでいた友人が言っていた。傍若無人で楽観的で自己愛が強く、気分屋だったが魅力的な人間。
「さて、飽きるという事を未だ知りはしないけれど、時々思うのだよ。花の水やりをするわけでもなく、雑草をむしるわけでもなく、ただこの洋館の守人をしている自分は恐ろしく、排他的であり、時間という物を無駄にしているのではないかと? 君は言ったよね? 金は頂点なり、されど時間は金に匹敵する大事な物だ。ピース!と……月を見るのも、季節によって変わる星の輝きを数えるのも悪くはない……でも少し、この胸の辺りがざわざわするのは、君がいなくなってしまったからかな?」
その君はもういない。土の下に埋まってどれだけ経ったろうか? だけれどあの日々は目を瞑れば再生できる。
“じゃあ、今日はケーキを食べようか? ボクの誕生日だから。作って“
「ケーキか、もう長い事食べていない気がするな。栄養面においては偏りすぎているけどエネルギー効率はよかったよ」
“そんな事いう人にはケーキを食べて欲しくないな!“
「君と食べたケーキは美味しかった。味覚機能がついていてよかったと心から思った。でもあれより美味しいケーキなんてあるのかな?」
“あるよ“
「本当に? あれは本当においしかった。少し焦げてたけど、甘くてレモンとパインの香りが実に魅力的で」
“ケーキだけじゃないさ。もっと美味しい物で世界は満ちている。美しい物、楽しい物、この最果ての洋館に辿り着いたからそう言えるんだ“
過去の声だ。過去の声と話す自分はきっとどこかが壊れているのかもしれない。
“心は決まった?“
「決まってないよ。でも君は言うのだろう? いや、言うんだよ」
このやりとりは、もう随分昔に終わったやりとりだったのだ。君と呼ぶ人の言う事を保留にしてこの洋館を守り続けていた。
“さぁ、世界は新しいことで満ちている“
「本当にそうだろうか?」
“それを確かめる為に飛び込んでいけ! 残念ながらボクの旅はここで終わりだ。永遠を生きられる君が羨ましい……いや、永遠というのは語弊があったかな?“
「そうさ。僕もいつかは停止する」
“ここが最果てというのは面白いだろ? 誰が決めたわけでもない。ここがボクのゴールだ。そしてここが最果てなら、ここから君は旅を始めればいい。クオン。ううん残り物の旅人さん。行ってらっしゃい。そしてさようなら“
「さようなら、親愛なる君」
その日、破ったスケッチブックのページ一枚に下手くそな絵を残して、最果ての洋館の守人は去って行った。