5:ヴァハラの権威の象徴
気を失ったミアを寝台に残したまま、シルファは部屋を出た。
永い時を振り返っても、これほど最悪の夜があっただろうか。少し含んだ聖女の血のせいで、ふわりとした陶酔感が残っているが、何とか意識を飛ばさずにやり過ごした。
(――耐えた)
素直な感想だった。聖女の血を矛にした欲望と、自制心を盾にして戦った。もし渇望が満たされていない状態で同じことを試せば、彼女を貪りつくして、深刻な過ちを犯したかもしれない。
不幸中の幸いだった。
血を与えるというミアの衝動だけを叶えて、一線を前に踏みとどまった自分を、心から称賛したくなる。
まだ血に酔っているが、シルファは素早く身支度を整えて一階の広場へ降りる。すぐに離れの影を一族に招集をかけた。
「ミアが口に入れたものを、出した食事の食材の出所も含めて、徹底的に調べてほしい。少しでも不明なことはすぐに報告しろ。この件を最優先する。――ゲルム!」
「はい」
「私は本部へ行く。引き続きミアを頼む」
「今からですか? それにシルファ様、何だか具合が悪そうですが」
「少し酔っているだけだ、心配ない。それより、ミアには暗示がかかっている。衝動は止んだと思うが、部屋から出さないようにしてほしい。仕掛けも強めておく」
ゲルムは何か感じていたことがあるのか、早口にシルファに伝える。
「ミアの暗示は、教会に行くと言ったことも含まれていますか?」
「ああ。何か気になることが?」
「食材の件にも通じますが。ドミニオ王子にもらった聖糖で、ミアが気になることを言っていたんです」
「王子にもらった聖糖?」
「はい。ミアは一つだけ緑に光っていたと、そう言っていました。僕には全て同じ純白にしか見えませんでしたが。いま思えば、それを食べてしばらくしてから、教会へ行くと落ち着きがなくなったような気もしていて。はじめにドミニオ王子が教会へ誘った時は断っていましたし」
「――緑に光る聖糖、か」
なるほどと嘲笑が浮かぶ。また一つ、かちりと歯車が噛み合った。どうやら聖女には崇高な一族と同じ目があるようだ。
記憶をさかのぼっても、何の齟齬もない。
破られた盟約。アラディアとの婚約と引き換えに、ヴァハラが呑んだ条件。あの時に全てを焼き払ったはずだった。
脳裏に蘇る、闇の中で発光する光景。ヴァハラの権威の象徴。
「わかった。ありがとう、ゲルム」
報告に頷いて、素早く今後の展開を予想する。ミアの暗示を解く筋道も見えた。
早急に聖糖を回収する必要がある。
シルファは傍らの影の一族に、犯罪対策庁への報告と依頼を命じた。崇高な一族に繋がるヴァハラの件は伏せなければならないが、もはや原因は明らかなのだ。疑いようもない。
幾重にも先読みをして、うまく収束させる筋書きは描けそうだと検討をつけた。
問題はその原因がどこから出たかということである。
(――この手掛かりは、わざとかもしれないな……)
大魔女は待っているのかもしれない。
シルファはようやくアラディアの影を踏んだ気がしていた。
「ゲルム、私は本部へ行く前にドミニオ王子に会う。ミアを頼む」
「わかりました」
シルファは素早く王子訪問の手続きを取った。非常識な時間帯だが火急の用件である。
Dの称号で望めば、王ですら拒むことなどできないだろう。ゲルムに見送られながら、シルファは王宮へ向かった。