3:囚われた聖女
シルファはミアを休ませると、自室で部下の持ち寄った報告書に目を通していた。些細な事件も、もしかすると大魔女への手がかりになる可能性がある。
だが、いつもよりは気持ちが入らない。
ミアを襲撃した女。
目的が未遂に終わった者との面会ははじめてだったが、何かに心を囚われた様子が脳裏に刻まれている。シルファは一連の事件について、信仰を隠れ蓑にした洗脳を考えていたが、そういう者は一見正気に見える。あからさまな狂気を表に出さない。むしろ理路整然と論破を試みたり、寡黙だったりする。
(あれが、薬剤の仕業でないなら――)
ひとつだけ可能性がある。
(もし、ヴァハラが古の盟約を破っていたら)
シルファは自分の考えに苦笑が浮かぶ。あまりにも都合の良い憶測だった。
アラディアにも繋がっていく道筋。自分の焦りが見せる幻想かもしれない。
決定的に裏付ける証拠があるわけでもなく、できれば外れていてほしいが、どうしても心が可能性を示唆する。あり得ないと思っても、選択肢から外すことが出来ない。
「ベルゼ」
「――はい」
「あの旧聖堂の当初の設計図が見たい」
「設計図ですか?」
「マスティアの大聖堂ほどの規模ではないだろうが、さすがに失われている部分があるだろう。ドラクル司祭の前に務めていた者に話を聞くのも良い」
「何か気になることが?」
「――地下室があるかもしれない」
今日の調査でもシルファは重点的にその可能性を探していた。だが、地下に続くような入り口や隠し扉は見当たらなかった。
「かしこまりました」
ベルゼは何も聞かず、するりと気配を消した。シルファは吐息をついて、いったん考えを緩める。大きな長椅子に身体を投げ出すようにして横になった。胸に手をあてて、一時的に取り戻した鼓動に意識を向けた。渇望に苛まれない身体。引きずるような気怠さもない。以前は当たり前だったことが、新鮮に感じられる。
(聖女の血――)
血だけでこの威力である。心臓を喰らえばたしかに自分は完全な復活を果たすだろう。けれど、ミアを手にかけることなど出来るはずがない。脳裏に面影を描くだけで、駆け抜ける気持ちがある。
「シルファ……」
突然ミアの声がして、シルファはぎくりとする。思いが昂じて幻聴を聞いたのかと思ったが、振り返ると大きな扉を開けて、ミアが顔を覗かせていた。
街はずれの小さな家でも、彼女が夜更けにシルファの部屋に顔を出すことはない。ミアには毅然とした守るべき境界があるようだった。
その境界線を越えて訪れてくる意味。シルファはふと夕食時のゾンビの話を思い出した。
(これは、少し怖がらせすぎたかもしれないな)
反省したのは束の間だった。
目が合うと、彼女は足音もなく部屋へ入って来た。シルファはさっきまでの考えが一瞬にして覆る。危機感にも似た違和感がよぎった。
「ミア?」
何かを羽織ることもせず、薄い夜着だけを纏った姿。
あまりにも無防備だった。いつもの彼女からは考えられない。
「どうしたんだ?」
咄嗟に長椅子から身を起こすと、ミアは何のためらいもなくシルファに近づき、手を伸ばす。
「とても大切なことを忘れていたから」
「大切なこと?」
「うん」
頷きながら、ミアはシルファに腕を回して身を寄せてくる。恥じらいも戸惑いもなく、そうすることが当たり前のように身体が触れる。
「わたしは聖女だから」
迷いのない仕草で、ただでさえ心もとない夜着の襟元を開く。結っていない長い髪をかきあげて首筋を晒した。
「シルファの糧だから、血を捧げなくちゃいけない」
白く細い首筋を差し出すように、ミアが迫ってくる。シルファは寄り添ってくる身体を遠ざけるように力を込めた。
「駄目だ、ミア。――今は必要ない」
「どうして?」
まるで別人のような振る舞い。ミアが、ミアではなくなっている。シルファは警戒しながら、注意深く彼女の様子を窺う。
「どうして? じゃあ、まず聖女の恩恵から?」
再び細い腕が伸びてくる。か弱いはずのミアが、信じられないほどの力で絡みついてくる。油断していたシルファに、彼女が唇を重ねた。
渇望が遠ざかっていても、心が奪われるほどに甘い。聖女の唾液に身体が反応する。シルファはまずいと思ったが、瞳が真紅に染まった自覚があった。獲物を捕らえようとする本能が働いてしまう。
「やめろ、ミア。どうしたんだ?」
彼女は不思議そうにシルファを見つめる。どうして受け入れてくれないのかと、眼差しが語っていた。
「私は聖女だから」