3:聖女の恩恵
「――っ……」
何が起きたのかわからない。ただ唇に触れた熱が甘い。
それは夢で見た光景をなぞるように、甘い蜜をもたらす。ミアは咄嗟にシルファから逃れようと身動きするが、強い力に抗えない。
味覚に飢えた自分が、甘さに翻弄されていくのがわかる。
欲しい。
素直な欲求だった。花に群がる蝶のように、甘い蜜にとどまっていたい。欲望のままに受け入れてしまうと、ミアは力を抜いてシルファに委ねた。
(もしかすると……)
この行いが彼の糧になるのだろうか。血肉ではなく、口移しで与えることのできる唾液が。
これまでに見てきた甘い蜜をねだる夢が重なる。シルファが自分に求めたこと。
まるで恋人同士のように、唇を重ねる行為。
甘さに酔っていた感覚に、疼くような異なる熱が滲み出す。思わず声を漏らすと、自分を抱く腕にさらに力がこめられる。
ミアは激しい熱にかき回されて、何も考えられなくなる。
「シルファ……」
囚われていた熱が緩むと、ミアは朦朧とした思考のまま目の前の赤い瞳を見つめた。すぐに考えがまとまらない。何かに酔っている。度数の高いアルコールを与えられたような、ふわりとした心地でシルファの胸に寄りかかってしまう。
「――ミア。……大丈夫か?」
緩慢な動作でシルファを見ると、彼の瞳がゆっくりと紫に色を戻す。むせかえる程辺りを包んでいた甘い香りが、まるで風に払われたかのように、緩やかな芳香に変わり始めていた。
ミアは酔いのせいで乱れた呼吸を、少しずつ整える。熱に浮かされるようにうっとりとしていた意識が、いつもの明瞭な世界に戻り始める。
ようやく我に返ると、ミアはかあっと全身に熱が回るのがわかった。
「なっ、な、何? 試すって。――もしかして、今のが?」
あたふたと自分を支えていたシルファから逃げるように椅子を立って、食卓の周りをうろうろしてしまう。
「もしかして、今まで私が見ていた夢は夢じゃなくて。――そうなの?」
「夢?」
「シルファは眠っているわたしに、その――」
「そうだな。ミアの唾液を貪って渇望を癒していた」
「さ、最低!」
「そう言われると思っていたよ。こればかりは弁解の余地もない。だが、力を取り戻すまでは他にやりようもない。とりあえず耐えがたいなら喪失を施すが、どうする?」
「ど、どうするって……」
肉体的な苦痛はかけらもない。はっきり言って、ミアにとっては心の問題である。自分には気持ちがあるが、シルファにはないのだ。恋人でもなく、自分を好きでもないのに、熱のこもった口づけを交わす。
仕方がないと割り切ってしまえば良いことなのだろう。むしろシルファの方が可哀想なのかもしれない。
けれど、彼を意識しているだけに、ミアには相当な試練になりそうだった。
「ち、ちょっと考えさせて下さい」
頬を染めたまま、ミアは戸惑いのまま答えを保留した。嫌悪感は記憶の操作が圧倒的に上回っているが、さすがに心の準備が間に合わない。
戸惑いの最高潮にいるミアを眺めながら、シルファは「へぇ」と意外そうな声をあげた。
「な、何よ?」
「いや、ミアが考えてくれるとは思わなかったから」
「だ、だって、仕方ないんでしょ? シルファはそれしか方法がないって」
「それはそうだが。……私はまたミアが泣き叫んで、心底私の事を軽蔑するんだろうと思っていたよ。このまま同居を続けるのも厳しくなると覚悟していた」
「覚悟って……」
口づける前に見た、シルファの哀し気な眼。それが物語っていたこと。ミアには何の齟齬もない。彼の示す覚悟が素直に理解できた。
「もし私が拒否したら、どうするの?」
「諦めるしかないな。私は聖女が嘆くのを見たくない。――まぁ、おまえが現れるまでは人で補っていたし、面倒だが何とかなるだろう。だから、ミアには拒否権がある」
シルファはきちんと逃げ道を用意してくれている。これまでに培われた彼への印象は変わらない。事情を語られても何も覆らなかった。今もミアの中で、シルファへの気持ちは綺麗な発色を放っている。
「人で補うって、どうやって?」
「人の場合は唾液というわけにはいかないから、血をもらうことになるな」
「犠牲になる人は、辛い思いをしないの?」
「――辛いというよりは、……気持ち良いかもしれないな」
「気持ち良いって――」
ミアはハッと初めてシルファの真紅の眼を見た状況を思い出す。渇望や興奮で色を変える瞳。
聞こえたのは、女性の甘い声。あれは血を求めることの延長にある行為なのだろうか。
「……なんとなく、わかった」
恥ずかしくなりながらも、心の底ではむくりと黒い気持ちが沸き上がる。自分に嫉妬するような資格がないのはわかっているが、芽生えた感情はどうしようもない。
ミアは気持ちをまとめるために、大きく息をついた。
「シルファ。……わたしだって、そんなに子どもじゃないよ。きちんと事情を話してくれて、ありがとう」
彼が驚いたように瞠目するのを見て、ミアは笑ってみせた。
「だから、シルファに絶望したり軽蔑したりはない。でも、ーーその、……方法については、ちょっと時間がほしいというか……、とにかく、考えさせて下さい」
言いながらさらに頬が紅潮するのがわかった。こんなにあからさまでは、いつか彼に自分の気持ちを見抜かれてしまうかもしれない。
シルファの特別と自分の想いは違いすぎるのだ。彼の力になれることがあるのなら、尽くしたい。同時に彼を困らせるようなことだけは避けたかった。
「――ありがとう、ミア」
シルファの声に、はじめに感じた暗さはない。ミアは少し安堵する。けれど、自分に向ける眼差しには隠しようもなく影があった。
生贄が必要な立場。シルファは自分の背負っている罪を思い知っているのだ。
人とは異なる種族。気の遠くなるような永い時、彼はどんな気持ちで生きてきたのだろう。
思いを巡らせると、切なくなる。
憂いを含んだ気配のまま、彼はミアに綺麗な微笑みを向けた。それから何かに気づいたように視線を投げる。
「さっきから、何か焦げていないか?」
「え? あ!」
ミアは慌てて煮詰めていた鍋に飛びついた。蓋を開けて悲鳴を上げる。シルファが可笑しそうに笑いながらミアの手元にある鍋を覗き込んだ。
「ひどいな、これは」
「う。ごめん、シルファ」
ミアは「はぁ」とため息をついて、がっくりと肩を落とした。




