2:崇高な一族(サクリード)と聖女
「生贄」
反芻してみるが、生贄の意味が持つ悲惨な印象が浮かんでこない。シルファと共に過ごした記憶には、まるで馴染まない。
「わたしは、いつかシルファに心臓を食べられちゃうの?」
「そう出来れば良かったのかもしれないな」
自嘲的に笑うシルファに、ミアは何と言えばよいのか分からない。彼が生きるための生贄。
そのために優しくされていたのだとしたら悲しいが、仕方がない。彼には命がかかった事情があったのだから。
シルファにとっての特別。命を繋ぐための糧。
やはり好きとか嫌いで語れるような関係ではなかった。覚悟はしていたが、いざ突きつけられると心が沈む。
けれど、知らずに彼を慕っているよりは、救いがあるような気がした。期待をして、心が破れることもなくなる。片想いの覚悟もできる。
「でも、どうして復活を果たさないの? わたしの心臓はここにあるのに」
胸に手を当てて示す。とくりと自分の鼓動が触れた。
事情を語られても、シルファがこの鼓動を止めてしまうような行いをするとは思えない。全く想像ができないのだ。
知らずに恐れていた頃の方が、得体の知れない不安が大きかった。蓋を開けてみれば、もう怖くない。
ミアは打ち明けられた事実を、自分でも意外なほど気丈に受け止めていた。
シルファはミアを見つめたまま、少し目を細める。労わるような声が響いた。
「崇高な一族にとって聖女は慈しむべき対象でもある。よほどの決意か、渇望で我を失わない限り、手にかけることは簡単じゃない」
「――なんだか、複雑な関係なんだね」
他人事のように感想を述べてしまい、自分がシルファとの関係を実感していないのだと悟る。
同時に、今までどうやってシルファは自分から糧を得ていたのだろうという疑問が頭をもたげた。彼に血や肉を与えた記憶などない。自分は聖女として生贄の役割を果たしているのだろうか。
(――そういえば、前にセラフィが喪失がどうとか言っていなかったっけ?)
さすがに少し恐ろしくなる。シルファが記憶を操作できるのだとしたら、自分が覚えている筈もない。ミアは身震いしながら、はっきり聞いておこうと覚悟を決めた。
「シルファは今までどうやって私から糧を得ていたの? 私にはそんな覚えはないけど」
少し緊張して尋ねると、彼はミアの不安を察したのか、気遣うように微笑む。
「ミアにはわからないように、恩恵を受けていたよ」
「それは、喪失っていうやつ? シルファは私の記憶を操作できるということ?」
記憶を消されることには嫌悪感があった。たとえ彼に血を与えるために痛みを伴うのだとしても、ミアは知っていたい。シルファとの日々を受け入れて、覚えていたかった。
彼と過ごした記憶に欠落があることは承服できそうにない。
「たしかに、私は人の記憶を改竄できる。それを喪失と言っているが――」
「そういうのはやめてほしい」
ミアははっきりと伝えた。
「自分の記憶が知らずに消されているとか嫌だよ。シルファに血をあげるために、どこかを切って痛い思いをするとしても、記憶を消されるよりはずっと我慢できる」
「――知らない方が良いこともあるかもしれない」
静かな声には諭すような色が含まれている。ミアは輸血のような処置を思い描いていたが、想像以上に苦痛が伴うことなのかと、少し気持ちが怯む。
「でも、それはわたしが決めることだよ。耐えきれないと思ったら、お願いするかもだけど。――それは、その……、そんなに痛かったり苦しかったりするの?」
不安になって尋ねると、シルファは困ったように笑った。
「どうだろうな。ミアには耐え難いかもしれない」
ミアは思わず自分の身体を確かめるが、彼に噛み千切られた跡などは見当たらない。貧血を起こした記憶もないが、もしかすると喪失と同じように傷や怪我も治せるのだろうか。
(――めちゃくちゃ痛かったらどうしよう)
血肉を与える。それが記憶を操作される嫌悪を上回る苦痛だとしたら。
(肉を食いちぎられていたりとか?)
ミアが想像に怖気づいていると、シルファが長椅子から立ち上がって歩み寄って来た。
「いま、試してみようか」
「え?」
思わず怯えた眼差しでシルファを仰ぐ。罠にかかった獲物のような心もとなさが、シルファの顔を見るとすぐに失われた。獲物を狙うような気配は微塵もない。彼は哀し気にミアを見つめている。
胸をつかまれたように、何も言えなくなった。
彼が身動きするたびに、ふわりと甘い香りが漂う。自分を見下ろす美しい双眸が、じわりと色を移した。
宝石のような澄んだ紫が侵食されていく。血のような真紅に染まった。甘い香りがさらに濃度を増す。
身動きできないでいると、ゆっくりと自分を抱くように回された腕に、抱きすくめるように力がこめられる。シルファの細い銀髪がさらりと頬に触れた。ミアは首筋に噛みつかれるのかと、痛みを覚悟してぎゅっと目を閉じる。




