4:聖なる光(アウル)
「わたしはこの世界の人間じゃないから。元の世界に帰らなきゃいけないし」
「でも気持ちがあれば恋はできますよ」
「わたしにあっても、シルファに気持ちがないでしょ」
「ミアには気持ちがあるんですか?」
「ち、違うよ。もう!」
思わず立ち上げると、同時に菜園に風が吹いた。ざあっと緑態が波打つように揺れる。風に乗って、どこからともなく甘い香りが運ばれてくる。
「――良い香りがする」
この菜園で、時折感じる芳香だった。どこから流れてくるのかは分からないが、今日は風に煽られたのか、いつもよりくっきりと鼻についた。
(これは、――シルファの匂い?)
彼からは、心地の良い甘い香りがする時がある。一度だけキスされた時に味わった唾液の甘さを思わせる、胸を締め付けるような香り。
もしかして風上にシルファがいるのではないかとミアは菜園の向こう側を見るが、見慣れた光景があるだけだった。
菜園の果てにある小さな建物。倉庫というには美しすぎる、古びた聖堂のような趣があった。締め切られており、教会で使用している気配もない。
ミアは期待していた人影を見つけることができず、芳香がどこから流れてきたのかわからないまま、再び手元に視線を戻した。
「ミア? どうしたんですか?」
「良い匂いがしたなって。セラフィは感じなかった? 甘い匂い」
セラフィも立ち上がってすうっと辺りの匂いを嗅ぐ。
「私は土と草の匂いしかしませんけど」
ミアにはまだ少し甘い芳香が感じられる。
今までにも何度か同じことがあったが、子供たちの反応もセラフィと同じだった。いつも自分だけが反応している。
「この匂いを感じるのは、わたしだけなのかな。味覚がない分、やっぱり嗅覚が良くなってるのかも」
「ちょっと待って下さい、ミア。いま味覚がないって言いました?」
「あ!」
しまったと思ったが、知られてしまったのであれば隠すこともないかと、すぐに考え直す。
「うん、実はそうなの。この国に来てからなんだけどね」
「だから、料理オンチだったんですね」
セラフィのはっきりとした物言いに、ミアには笑うことしかできない。
「シルファ様は知っているんですか?」
「……知らないと思う。言ったことないし」
「ええ? どうしてですか?」
驚くセラフィに、ミアはうまく説明できない。再び雑草と向き合いながらどう答えるべきか考えていると、セラフィが畳み掛けてくる。
「他には? 何か他にも隠していることがあったりします?」
「いや、別に隠していたわけじゃなくて……。その、言い出すきっかけがなかったというか」
しどろもどろと答えながら、ミアは思い切ってセラフィに聞いてみることにした。
「ねぇ、セラフィ。あの、――この世界ではキスって甘いの?」
「え? えっと、なんですか? 突然、乙女ちっくな話?」
戸惑うセラフィに、ミアはカッと顔が赤くなるのを感じながら、「違う!」と吠えた。
「乙女ちっくな意味じゃなくて、味覚の話」
「味覚って、……キスの味?」
「だ、だって、本当に甘い味がしたから!」
恥ずかしすぎて暴露してしまうと、セラフィの顔からさっと笑みが消える。
「ち、ちょっと、ミア、それは笑えないですよ。いつ? 誰とキスしたんですか? 好きな人がいるんですか? シルファ様以外に?」
「違うよ、事故! シルファとそういう事故があったの! 一回だけ」
「シルファ様と、事故で――?」
「そう。その時に甘い味がしたから、こっちの世界ではそういうものなのかなって」
セラフィの顔を見ることができず、ミアはぶちぶちと雑草を引きちぎる。居心地の悪い沈黙があった。黙り込んでしまったセラフィが気になって、ミアはそっと顔をあげた。
「甘いのは、キスだけですか?」
「え?」
セラフィからは、いつもの陽気な雰囲気が消え失せていた。じっとミアを見据える瞳に気迫がこもっている。
「甘いのは、キスだけですか?」
「えっと、シルファからは甘い香りもするけど。それは、別に私だけじゃないよね?」
「いつからですか?」
「え?」
「シルファ様から、甘い香りを感じるようになったのは、いつからですか?」
「どうしちゃったの? セラフィ。なんか、怖いけど」
「いつからですか?」
セラフィは余裕のない面持ちで繰り返す。ミアは気圧されて、仕方なく記憶をたどった。言われてみれば、はじめから甘い芳香を感じていたわけではない気がする。
一緒に過ごすようになって、しばらくしてからだろうか。芳香を感じるようになっても、はじめはもっと淡かった。それが日を経るごとに、よりはっきりと香るようになったのではないか。
「わからないけど、はじめからじゃなかった気がする」
セラフィはいったん俯くと何かを堪えるように唇をかみしめる。再びミアを見た顔は泣きそうにも見える、複雑な微笑みだった。
「セラフィ?」
「ミアは、――聖なる光かもしれない」
「アウル?」
「あなたはシルファ様が好きでしょう?」
唐突に話題がはじめに戻って、ミアは横に首を振った。
「だから好きとか嫌いとかじゃないんだっ――」
セラフィが突然ミアに腕を伸ばした。強く抱きしめられて、ミアは言葉を失う。
「ミアなら、きっと――」
「セラフィ?」
ミアの呼びかけに、セラフィははっとしたように腕を解いた。
「――あ、ごめんなさい、ミア。……今のは無しで」
今まで見たこともない狼狽えた様子で、彼女が困ったように笑う。セラフィの綺麗な翠色の瞳が潤んでいるように見えるのは気のせいだろうか。
「さぁ、ミア。雑草をやっつけちゃいましょう」
まるで全てが幻だったかのように、セラフィはいつもの陽気さを取り戻して笑顔になった。
「あ、うん」
背を向けたセラフィに、ミアはそれ以上何も聞くことができず、所在なく手元の雑草に目を向けた。