1:狼藉には天罰がくだる
コトコトと鍋の内で具材が躍る。ミアはそれを眺めながら火加減を弱めた。肉を煮詰めたありふれたシチューだが、蓋をする瞬間に立ち上った香りが食欲をそそる。
「よし。今日の夕食は美味しそうにできた!」
ミアは鼻歌をうたい、食卓に野菜を盛った器を並べてから、皿と匙を配置する。時計を眺めながら、この館の主のために赤ワインを用意した。
「間に合わないかと思ったけど、今日は遅いのかな」
近くの教会に馴染みになった司祭がいて、ミアは良く手伝いに顔を出す。今日は時間を忘れて子供たちと戯れていたために帰りが遅くなった。彼の帰宅に間に合わないかもしれないと、慌てて食事の支度をしたが、どうやら徒労に終わったようだ。独りで食卓について頬杖をつく。
住処を移すことが多いが、今は王宮のある市街地の外れに住んでいる。事務所と住居を兼ねた、こじんまりとした館。敷地は決して広くはないが、小さな庭もあり、彼と二人で過ごすだけなら充分すぎる住処だった。ここにやってきて、もうどの位経ったのだろう。ぼんやりと目の前のワインの瓶に映る自分の顔を眺めていると、裏口からバンッと荒々しい音が響く。
「え?――シルファ!」
思わず悲鳴をあげて、ミアは裏口から帰宅した長身の人影に駆け寄った。
「ミア! 近寄るな! 私に触るな!」
普段聞いたことのない厳しい声で、帰宅した館の主ーーシルファが怒鳴る。ミアはびくりとして立ち止まったが、彼の足元は覚束ない。力がなく今にも倒れそうだった。
いつもの品のある立ち居振る舞いが失われて、手負いの獣ような妖しさすら感じる。白髪に近い美しい銀髪が、彼のふらつく足取りに合わせて、不規則に乱れる。
「くそ、意識が飛びそうだ。ベルゼ……あいつ、いったい何を考えて」
忌々し気に呟きながら、ふらふらと数歩進んだ先でシルファがその場に膝をついた。呼吸が浅く、怪我でもしているのではないかと不安になる。ミアはためらわず彼に歩み寄った。
身体を支えるように手を伸ばすと、拒むように、強い力で腕をつかまれる。
「――触るな。それ以上近寄るな。……頼むから、向こうへ行け」
苦し気な呼吸で、彼はうつむいたまま振り絞るように言い募る。決してミアの方を見ようとしない。
「でも、具合が悪いんだよね? ほら、肩を貸すからつかまってーー」
彼の身体を支えた瞬間、ミアはものすごい勢いで抱きすくめられる。同時にふわりとワインの芳香が漂った。
(嘘! 酔ってる!?)
腕を振りほどこうと力を込めた瞬間、彼の手に顎を持ち上げられ、状況を理解しないまま、唇が奪われる。咄嗟にもがいたが、ミアからいっさいの自由を奪うように、抱擁に込められた力は緩まない。貪るように唇を塞がれて、逃げ出すことも許されず、ミアは唸るような籠った声しか出せない。
ようやく口づけから解放されると、さらなる力に襲われる。天地が逆転する勢いで床に押し倒されると、シルファの身体がのしかかってくる。
「ちょっと! やめて! この酔っ払い! 変態! 痴漢!」
金切り声をあげるとシルファがふっと顔を上げて、組み敷いたミアを見た。ミアはぞっと身震いする。落ちかかる前髪の向こう側で光る眼。いつも澄んだ紫を讃えていた瞳が、燃えるような激しい真紅に染められている。
(あの時と、同じーー)
「シ、シルファ!?」
「――我に捧げよ……」
「? 何を言ってーー」
再び強引に重ねられた唇に言葉を奪われる。彼はそのままミアのブラウスの襟元に手を伸ばし、釦を飛ばす勢いで襟元を開いた。長い指先がミアの首筋に触れる。
同時に自分を戒めていた力がわずかに緩み、ミアは逃れようと思い切りもがいた。その勢いで近くの椅子の足に腕がぶつかり、ぐらりと椅子が傾く。
「ーーやめてったら、この変態!」
叫ぶと同時にミアは時間の流れが狂ったかのように、倒れてくる椅子を眺めていた。あっと思う間もなく、自分に襲い掛かっているシルファの後頭部に、椅子の背が見事に激突する。
咄嗟に目を閉じながら、ミアは鈍い音が響いたのを聞いていた。