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聖女からの贈り物

作者: 響

病院の一室で加代子は眠っている。


胸部から顔面にかけて重度の火傷を負った加代子は意識も戻らぬまま眠り続けている。幾重にも巻かれた包帯の隙間から、ケロイド状に焼けただれた皮膚が垣間見え、異臭を放つ。


あの美しかった妻が……


顔も焼けただれ視力も失い、もはや自力で呼吸すらも出来ない状態で三日目を迎えた。回復の見込みも無く生命維持装置に頼る加代子を俺はただ眺めていた。


……憎い。俺のこの手で殺してやりたい


三日前の夕暮れ、一台の車両が歩道に突っ込み横転炎上した。巻き込まれた通行人のほとんどは軽傷で済んだものの、加代子だけは炎上に取り残され助け出された時にはすでに瀕死の重体だったという。


飲酒運転による追突事故。酒に酔った男による無謀な運転が原因だった。しかもこの男は、燃えさかる車両からいち早く逃れており焼かれる加代子を黙って見つめていたそうだ。


こんな事を許せるわけがない。許していいはずが無い。今からでも今すぐにでも殺してやりたい。激しい憎悪と怒りを抱えたまま三日目の朝を迎える。


「なんで加代子がこんな目に……」


悔しさに打ち震えながら俺は何度も何度も呟いていた。


そんな重い状況のなか更なる地獄が俺を苦しめる。沸き上がる憎悪や怒りさえも今は抑えなければならない状況に直面していた。


もはや回復の見込みも無い加代子。

加代子の命をギリギリ繋いでいる生命維持装置の電源を……


あまりにも残酷な選択に迫られていた。


仮に奇跡が起き、意識を取り戻したとして加代子に待っている苦痛は生きるよりも辛いものなのでは無いのだろうか。


解らない…… 俺は一体どうすればいいんだ……


解っているのは加代子を奪われた俺には何も残らないということ。身寄りの無い俺達は同じ孤児院で育ち、どんな苦楽も共にしながら常に助け合って生きてきた。いつでも二人寄り添って生きてきた。


そんな加代子を奪われることは全てを失うにとどまらず、身体の一部を剥ぎ取られるのと何ら変わらない。


無理だ…… 俺には出来ない……

そんな決断を下せるわけがない。


物言わぬ加代子を見つめながら、繰り返す葛藤に押し潰されそうになっていた。




 静寂のなか俺が一人で頭を抱えていると、隣室から突然怒号のような声が漏れ聞こえた。どうにかなりそうだった俺は、その場を立ち上がると逃げるように部屋をあとにする。


廊下に出ると向かいの個室から言い争う声が鮮明に聞こえてきた。看護婦とおそらくは入院患者であろう中高年の女性の声。


俺は聞き耳をたてようと個室に近づく。


ガラッ! あっ…… 突然横引きのドアが滑り開くと俺は思わず声をあげる。なんとも気まずい。目の前には顔を真っ赤にした看護婦が立っており、俺を一瞥するとスタスタと早足で行ってしまった。


相当な剣幕であったのは立ち去ったあとの温度で感じられた。周りの空気よりも二度は高い。

俺はドアがゆっくりと閉まっていく中、チラリと個室を覗いた。


「!?」 


一瞬腰が引けるような何ともいえない異様な光景が俺の目に飛び込んでくる。


ベッドに上体を起こした老婆が手に持った何かを見つめていたのだが、異様なのはその顔つきだ。色も変化も抑揚も感じられない、のっぺらぼうのような表情。険のある額につり上がった眉、そしてやけに黒目の多い瞳。まるで童話に出てくる悪魔のような……


失礼な話ではあるが、思わずギョッとせずにはいられなかった。


それでも俺は何故か躊躇もなくノックをすると老婆の部屋に入っていく。自分でも解っていた。誰でもいい。側に居て貰いたい。それが奇妙な隣室の老婆であっても。


「あの、大きな声がしたんですけど大丈夫ですか」


白々しくも声をかけ老婆を凝視する。

やはり異様だ。手に持った古い懐中時計を見つめたまま視線を上げようともしない。


気まずい沈黙が流れる。見ず知らずの人間が突然部屋に入って来たというのに老婆は身動き一つせず、ただ懐中時計を見つめていた。


お互い無言のまま少し冷静になった俺は、しばらく続く沈黙にも耐えられなくなり軽く会釈をすると部屋を出ようとした。



「何か用か」


貫禄のある低音ボイスが俺の足を止める。その際も老婆の視線がこちらに向く事はない。俺はゆっくり老婆に近づくと身分を明かし、言い争う声がしたことを伝えた。


すると老婆の口から奇怪な返答を得ることとなる。


「わしは魔女だからな」


痴呆だろうか。いや、意思の強い口調からはとても呆けている感じはしない。ならばからかわれているのだろうか。まあ、それでもいい。今の俺にとっては誰かが居てくれるだけで心が保っていられるから。


それにしても世の中変わった老人がいるものだ。おそらくは壊れているだろう懐中時計を見つめながら、滑稽とも言える話を老婆は淡々と語っている。


俺にとって会話の内容などはどうでも良かったが、少しでも長居するため適当に相槌をうっていた。


老婆の一族は代々魔女の血統であり産まれた時に人間社会へ養子に出されるという。そこで周りにいる人間の影響を受け、良い魔女になるか悪い魔女になるのか決まるそうだ。


「ばあちゃんは良い魔女? 悪い魔女?」


話を合わせながら聞いてはみたものの、どう見たって悪い魔女に決まっている。よほど周りの人間に恵まれなかったのか、顔を見れば誰でも一発で判る。


「代々良い魔女など見た事も聞いた事もないわい」


うっ…… 人間批判ともとれる不意討ちに俺は一瞬息を飲んだ。だが、そうかもなと妙に納得もしてしまった。


なかなか面白い老人である。


いちいち偏屈でぶっきらぼうに話す老婆であったが、何故か俺には心地良くもあった。母親が居ればこんな感じなのだろうか? そんなわけない。異質過ぎる。


「魔女というからには、やっぱり何か魔法的なものが使えたりするの?」



その質問に初めて老婆がアクションを起こす。

やっと俺の顔を見たのだ。表情は変わらないものの、どこかいびつな雰囲気を感じる。


意趣返(いしゅがえ)し」


ボソっと老婆が口にした言葉は、まるで呪いの呪文のようなおどろおどろしさを纏っていた。


自身の身体に傷をつけると、狙った相手の同じ場所に同じ傷を与える事が出来るという。


ここまで話を合わせてきた俺も、これにはさすがに閉口してしまった。


そんな俺の怪訝を感じとったのか、老婆は見てなと一言つぶやくと右手を口元に持っていき、突然自分の親指にかぶりついた。


「!?」


血の流れる老婆の親指を見て俺はパニックに陥る。当たり前だ。急いで備え付けの引き出しからガーゼを取り出すと老婆の親指にあて、止血をする。


「な、何やってんだよ! ばあちゃん」


止血の間も老婆の表情は一切変わらなかった。


俺は後悔していた。こんな頭のおかしい老婆を相手にしてしまった事に。そのまま逃げるように部屋を出ると休憩室へと向かう。恐ろしく喉が渇く。完全にイカれてる。


部屋を出た俺は狼狽したまま早足で廊下を進んでいた。息を荒らしながら休憩所へ向かうと、その途中にある看護婦の詰所が何やら騒ぎになっていた。


「ちょっと大丈夫?」 「早く手当てしなよ」


どうやら誰かが怪我をしたらしい。様子を覗いてみると自分の右手の親指に傷テープを巻く看護婦を見つけた。


「突然、血が吹き出したの。本当よ」


ざわつく詰所を見ながら、俺は驚愕した。

怪我をした女性は、さっき老婆の部屋から出て行った看護婦だったのだ。


「ま、まさか」

 

この世に奇妙な偶然は多々あれど、こんなことが有り得るのだろうか? 


意趣返しと言っていた老婆の顔が頭から離れない。俺は動揺したまま、その日は帰宅することにした。



 あくる日、俺は工具箱を持って病院に向かった。あれから色々考えたものの、何一つ答えは出ていない。加代子の事も老婆の事も。


ただ怪我をした老婆を放って、何も言わずに逃げ出してしまった事は少なからず尾を引いていた。病院についた俺は真っ先に老婆の部屋を訪ねることにした。


「ばあちゃん。昨日は突然帰ってごめん」


相も変わらず無反応な老婆は、昨日と同じ姿勢で懐中時計を眺めていた。俺は老婆の横に腰掛けると懐中時計を見せてもらえないか頼んだ。


一瞬、いぶかしそうな表情を見せた感じもするが多分気のせいだろう。いつも通りの鉄仮面だ。


「俺を信じて」


手を差し出す俺に老婆はしばらく無視を決め込んでいたが、俺が引かないのを悟ったのか壊れて動かなくなった懐中時計を渡してくれた。


俺は早速時計を調べる。思った通りネジ式の簡単な仕組みだ。工具箱から小型レンチを取り出し接触不良を直すと、ネジを巻いて老婆に渡した。


カチカチカチカチ……

命を吹き返した時計を手に持った老婆は、口をあけながらそれを眺めていた。礼などは当然返って来ないが俺は充分満足していた。 

そんな時……


「えっ」


ほんの一瞬、まばたきのような刹那、老婆の顔が別人に変わったような気がした。温和で柔らかい慈愛に満ちた表情。まるで女神のような…… だがそこにあるのは、いつもの無愛想な顔。今日は気のせいが多い。疲れているんだな。


俺は結局昨日の出来事は聞かずにいた。あんなものは偶然に決まってる。目の前に居る一人の女性は、ただの偏屈で放っておけない寂しい老婆なだけだ。決して魔女なんかじゃない。


だからこそ俺は出来うる限り老婆の話に付き合おうと思う。いや本当は孤独な者同士、親近感が沸いていたのかも知れない。


「ハハハ。良い魔女が居たら一体どんな魔女なんだろうね」


「そりゃ、わしと正反対じゃろ」


これには思わず仰け反ってしまった。老婆は自分の異様な容姿を一応自覚しているのか。確かにそうだ。良い魔女が居れば姿形も声も性格も全て正反対だろう。


俺は本気で吹き出してしまうが、老婆は意にも介していないのか、いつも通りの無表情のままだった。


結局その日は半日ほど老婆と語り合っていた。

気づけば自分の事や加代子の事まで、今まで誰にも話さなかった事まで吐き出していた。


「もうこんな時間か」


さすがに長居も過ぎた。俺はそろそろ戻ろうと立ち上がり、大きな伸びをしていると老婆が驚くようなことを口にする。



「加代子という(むすめ)に会わせろ」


突然の要求に一瞬たじろいだが、特に断る理由もない俺は面会を了承した。




 老婆を車椅子に乗せると俺はゆっくり加代子の病室へ向かった。隣室へと向かう短い時間、俺の顔は強張っていた。そう、俺は緊張している。偏屈婆さんの事だ。どうせ良いことは言わないだろう。


だがそれとは別に、妙な緊張感にも襲われていた。まるで実の親に自分の婚約者を紹介するときのような…… 変な話だとは思うが確実に俺の足は震えていた。


「あまり良くない状態だけど、驚かないでね」


加代子の病室に入ると、車椅子をベッドの真横まで押して行く。顔中を包帯で巻かれた加代子を老婆はただジッと見つめていた。


「…………」


勘弁してくれ。この()はきつすぎる。悪口でも何でも良いから早く喋ってくれ。俺は棒立ちのまま固まっていた。




「……誰よりも幸せな娘だねぇ。こんなに綺麗な魂は見た事がないよ」


「えっ……」


「産まれた時からずっと幸せだったんだろうねぇ。なんて()んだ魂じゃ。いつも側に居た人から無限の愛を注いで貰っとる」


「……」


「どこまで行っても幸せじゃろうな。どんな道を選んでもずっとずっと幸せじゃ。お前が決めた道ならの」 



「うっ……」


不意をつかれた老婆の言葉に俺は泣き崩れる。地に膝をつき、声をあげて泣いていた。今まで人前で泣くことなど一度もなかった。いつも強がって生きてきた。全ては愛する加代子のため。どんなときでも強い男でいるために。


だがそれももう……


加代子を黙って見つめる老婆を前に、俺は子供のように泣きじゃくった。枯れるほど泣き明かした俺は、その日の家路につくと決断する。



加代子を楽にさせてあげようと……



 

 あの事故が起きてから、まともに眠った記憶はない。心も身体も疲れ果てている。それでも俺は責任をまっとうしなければならない。加代子の夫として。加代子を誰よりも大切に想う者として。


俺は腫れた目を押さえながら老婆の病室に向かっていた。この決断を最初に伝えたかったからだ。


いつものように無関心なまま、まともな反応は得られないかも知れない。それでも彼女だけには聞いて貰いたかった。俺の決心を。


老婆の部屋を前に俺は大きく深呼吸をする。

気持ちを決めた俺はノックをすると、ゆっくりドアを引き、中へ入った。


「?」


何か様子がおかしい。珍しくベッドに寝ていた老婆はいつもの顔のまま身体を痙攣させている。俺は急いで近寄り声をかけるが老婆は小刻みに震えるだけでまるで反応が無い。


「ばあちゃん! 俺だよ! 聞こえるか」


呼び出しボタンを押し、看護婦を待つ。早くしてくれ。早く何とかしてくれ。やってきた看護婦は老婆の様子を確認すると担当医を呼びに駆け出して行く。


「お前か……」


看護婦が出て行ったと同時に老婆が口を開いた。良かった。意識を取り戻したらしい。


「ああ。俺だよ、ばあちゃん。待ってなよ。今医者が来るからね」


表情はいつものままでも、あきらかに衰弱しているのが解った。


「……お前に機会を与えてやるよ。恨みのある人間の名前を言いな」


「何の事だよ。ばあちゃん」


「わしももう終わりじゃ。わしの命と引き換えに呪った相手を殺してやるよ」


俺は絶句した。


あの時ケンカをしていた看護婦を襲った、自傷による報復行為。あれはやはりこの老婆の力だったのか。そんなはずはない。そんなことは有り得ない。


意趣返し


だがもしあの力が本物ならば、老婆の命と共に憎い相手を確かに殺せるはずだ。


そう俺には憎んでも憎みきれない人間がこの世にいる。加代子をこんな目にあわせた人間が……


「早く名前を言え…… わしの命ももう……」


ますます弱っていく老婆の手を、俺はきつく握りしめる。確かに憎い奴はいる。殺したい相手がいる。


でも違うんだ…… 今は、今はそんなことじゃないんだ……


「ばあちゃん! そんな余力があるなら自分に使ってくれ! もっと、もっと生きていてくれ!」


俺は泣きながら叫んでいた。加代子以外の人間にこんな気持ちを抱くとは思ってもいなかった。老婆は俺にとって大事な存在になっていた。大事な人を二人も同時に失うなんて、俺には耐えられない。今の俺には老婆への想いが憎しみをも忘れさせる程に上回っていた。


それでも受け入れ難い非情な現実は目前にまで迫ってくる。


「ば、ばあちゃん……」



圧倒的な絶望を前にどうする事も出来ない無力感。何も出来ぬまま諦めかけたまさにその時、老婆の身体に思ってもいない異変が生じる。



……熱。あたたかい?


俺は違和感を覚えた。握りしめた老婆の手から柔らかい暖かさを感じる。消えかけた命の灯火(ともしび)に再び火が(とも)るような。


やがて暖かさは色を持ち、目に見えて広がって行く。


徐々に膨らんでいく白い光が、老婆の全身を包み込むと奇跡ともいえる変化に俺は圧倒された。


「こ…… これは」


美しく品のある慈愛に満ちた表情。優しさに溢れた顔つき。あの時、一瞬だけ見えた老婆の変化がもう一度再現される。


依然弱々しくはあるものの、まばゆい瞳を俺に向けた老婆は、優しく微笑む。


美しい…… この世のものとは思えない。全ての毒気を浄化するような暖かい優しさで満ち溢れている。


「ありがとう。最後にこんな気持ちになれるなんて」


包み込むような美声で老婆は言った。


呆けにとられる俺をよそに、老婆の呼吸は少しづつ弱まっていく。寿命までは変えられないのか、その命が尽きようとしている。


我にかえった俺は必死に言葉を(つむ)いだ。思いの全てを老婆にぶつけた。

生きていて欲しいこと。これからも話を聞いて貰いたいこと。加代子と共に大事な存在になっていること……


笑顔のまま俺の話を聞いていてくれる老婆であったが、最後には首を横に振る。


「ど、どうして? 俺にはばあちゃんが必要なんだよ」


「大丈夫。あなたにはもっと必要な人が居るのですから」


「そんな人間はもう居ないんだよ。ばあちゃん行かないでくれ」


優しい笑みを浮かべている老婆であったが

俺の声はもう届いていない感じがした。


「ば! ばあちゃん」


老婆はゆっくりと目を閉じていく。消え入りそうな小さな言葉を残して……


「あなたに会えて本当に良かった」


美しい微笑みを俺に向けたまま、老婆は旅立った。


「うわああぁぁ……」


俺は老婆の身体にしがみつくと顔を伏せて号泣した。たった数日の出逢いではあったが確実に通じ合い心を通わせていた。


同じ孤独を背負った者同士、時には友達として、時には母親のような存在として……



 


 「キャー!!」


突然の悲鳴に俺は跳ね上がった。部屋の入り口には担当医と看護婦が立っている。両名共に目を見開いたままこちらを見つめていた。


悲鳴をあげた看護婦は震えながら立ちすくんでいる。何事かと思った俺は老婆に視線を移すと、思わず仰け反りながら後ずさりをする。


「な、なんだ!」


老婆の顔から胸元に至るまでが、真っ黒に焼け焦げていた。さっきまでの美しい老婆の姿はそこには無い。髪も無くなっておりマネキンを燃やしたような姿になっている。


魔女だからなのか? 普通の人間とは違う死に方をするものなのか?


部屋に居る者が皆驚愕するも、次第に慌ただしくなり始め、どんどんと人が押し掛けて来る。


当然俺は事情を聞かれるものの、何をどう答えていいのか解らない。魔女だからなどとは、とても言えない。


もしかすると殺人の容疑をかけられるかも知れない。だが別にそれでも良い。もう何だって構わない。俺にはもう失うものも何も無いのだから。


「少し…… 休ませて下さい」


俺は周りの喧騒から逃れるように加代子の部屋へと戻る。中へ一歩足を踏み入れると、陽の暖かそうな光が窓辺に置かれた一輪の花に降り注いでいた。


控え目な美しい光景に俺は思い出す。

老婆の柔らかい微笑みを。





「とても綺麗ね」



「!!っ」


誰も居るはずのない加代子の病室に人の声。

いつも聞いていた心地のよい音。


もう数歩踏み出した俺は、声のしたベッドを見つめる。


「ま、まさか……」


情けない声をあげながら俺は左右の足を交互に踏み出す。ベッドに向かいフワフワと浮いているような身体を必死に地面に押さえつけながら。


何とかゴールにたどり着くと、いつも老婆がしていた姿勢をとる女性をマジマジと見つめた。

女性は窓辺に置かれた一輪挿しを見ているようだった。


俺は顔中に包帯を巻かれた彼女の手を優しく握る。女性は俺に視線を移すと顔を覗き込むような所作をみせた。


「目、見えているのか?」


「当たり前じゃない。どうして?」


俺は言葉に詰まるも彼女に巻かれた包帯をゆっくりと巻き取っていく。隙間から見える皮膚が以前とは全く違うものであったから。


「私…… 顔にケガしてるの? 何も思い出せない」


不安気に話す彼女をなだめながら最後にガーゼを剥がす。


「どんな感じなの? 酷い?」


素顔を晒した彼女は事故以前の美しい彼女のままだった。


「何も…… どこにもケガなんてしてないよ。

おかえり加代子」


俺は加代子を抱きしめる。強く抱きしめる。


驚いた様子の加代子もまた、次第に力を抜き俺の背中に手をまわした。


「私ずっと夢を見てたの」


「夢?」


「うん。綺麗なお婆さんの夢」


俺は加代子の肩を掴むと顔を覗き込む。


「おっ、お婆さん?」


「そう。品のある綺麗な人。そのお婆さんが私に言ったの……」


俺は息を飲んだ。



「これからもずっと幸せでいて欲しいって……」



「あ……」


声にならない息が漏れる。自然と溢れ出る涙と共に俺の震えは収まらない。うろたえる俺を心配そうに見つめる加代子だったが夢の続きを思い出したのかハッとした表情を見せる。


「そうだ。それで私にくれたの…… えっ! うそっ」


加代子は自分の左手に握られた物を見て驚いていた。それは、ゆっくりと時を刻む古い懐中時計。


「お婆さんが形見だって…… 夢じゃ…… 無い」


絶句した加代子を見つめながら俺は全てを理解していた。加代子に起こった奇跡は老婆の力だということを。老婆が加代子を救ってくれたことを。


真っ直ぐな人間の想いが魔女の魂に反応したのかもしれない。いやきっとそうだ。清廉な想いが通じたからこそ奇跡は起こる。


老婆は最後の最後に生まれ変わったんだ。



良い魔女に。


老婆が言った、良い魔女がいれば私とは正反対という言葉。あれは紛れもない事実だった。


全てが正反対なんだ。姿形も声も性格も、そして


能力も。


悪い魔女は相手を傷つける力。良い魔女は相手を癒す力。老婆は最後に生まれ変わり、加代子の傷を身代わりで受けてくれたんだ。



「私…… お婆さんに何かをしてもらったんだね。すごく重大な何かを」


「解るのか?」


「うん。この時計を見ていると何か感じるの。私の中にお婆さんの魂みたいなものを感じる」


「そうか、そうかもしれないな」


懐中時計を見つめる加代子の目にも涙が溢れている。


「私、どうすればいいのかな? お婆さんに返せるものなんて何もないよ」


泣きせびる加代子の頭を、俺は優しく撫でた。


「ばあちゃんに言われた事があるんだろう。それをただ守っていれば良いさ」


加代子は懐中時計を握りしめると俺の胸にしがみつく。


「うん。幸せでいる。ずっと、ずっと……」


胸の中で泣く加代子を俺は力一杯抱きしめる。


「それは、ばあちゃんの家で代々受け継がれてきた大切な時計なんだ」


「うん。解ってる。私が大事に継いでいく。何があっても絶対」



老婆の死因は老衰だった。死後に起こった謎の炎症は原因不明のまま処理されていた。気味の悪い現象だけに色々と不穏な噂も流れたが、真実を理解出来る者はいないだろう。


焼けただれた老婆の口もとに、うっすらと微笑みが浮かんでいた事は俺にとって唯一の救いだった。



(ありがとう。ばあちゃん。本当にありがとう……)




 あれから一年の時が過ぎた。日常を取り戻した俺達には待望の赤ん坊が産まれた。二人に似た元気な女の子だ。ただ、どことなく老婆にも似ている気がした。


きっと魂の一部がこの子に宿ったのかも知れない。いや、宿っていて欲しい。


俺は老婆のおかげで大切な家族を手に入れる事が出来た。老婆に出会っていなければ今の自分は存在していないだろう。彼女がくれた、かけがいの無い大事なものを俺は一生をかけて守って行きたい。



この世の聖女がくれた大切な贈り物を    





                   END



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