01.青春諸兄に物申す
誰もが自分の人生の主人公である、という言説がある。
それは勿論、決して悲観的な意味の文言ではなく、人生を前向きに捉えよう、君も主人公だ、輝け新一年生、つまりはポジティブな考え方であることは確かだ。
この意見に沿うならば、世の中には実にたくさんの人生があり、膨大な主人公が跳梁跋扈していて、ゆえに人生と銘打たれた書物は無数に並び続けているのだろう。
例えば。
手近な一冊を紐解いてみれば、それはきっと四章立てになっているに違いない――これすなわち四季である。
青春。
朱夏。
白秋。
玄冬。
この構成は、恐らく長大に並ぶどの一冊を開いてみても、古今東西に異類を見ないだろう。勿論、ときには不幸にも序章で終わってしまった一冊も少なくないであろうし、あるいは驚くほどのスペースを占拠している一冊もあるだろう。
思うに。
この四章立て、各章の厚さはそれぞれであろうが、きっと多くの人間は青春が分厚くなっていることだろうと思う。
青春。
つまり人生で最も波乱と苦悩に満ちた、人生の謳歌をものにしている一瞬だ。怒涛のように目まぐるしく過ぎ、その濃度の濃さと反比例するように瞬く間に終わってしまう、そんな時代。青春を経た人々は、一度ならずこの輝きの一瞬を回顧し、憧憬を抱かずにはいられない。まあ人によっては朱夏こそがピークである場合も少なくないだろうが、そこは大目に見てほしい。とにかくも、多くの場合、青春こそが人生の絶頂なのである。
けれども。
一度、考えてみてほしい――これは決して、既に青春を終えた諸兄へ向けての提案ではない。今まさにこの青春の真っただ中にいる御同輩たちへの提言である。
青春とはこれ如何に。
眩しいばかりの青春時代を謳歌する彼らは、殊に友人と恋人を得たがる。これらを潤沢に有している連中は羨望の的となり、これに失敗した同胞は暗がりにわだかまっている。
だが、これらにどれほどの違いがあるのだろう。
よく考えてみてほしい。
青春とは、若葉の芽吹き出したばかり、まだ木々の青々とした春である。
未だ成熟をみていない季節。
つまり未熟なのだ。
舞台上でスポットライトを燦々と浴びている彼らと、その背後で張りぼての木や建物を背負っている奴らと、未熟さにおいて差異はない。
ならば、両者の明暗を分かつものは一体なにか。
結局のところ、それもまた青春なのである。
ここで事実と現実が乖離する。
誰もが人生という物語の主人公であり。
誰もが同じ青春を謳歌しているにもかかわらず。
舞台上に躍る連中と。
背景に消える奴らが分かれているのは。
全て一重に、青春の為せる業なのだ。
そして背景は言う。
誰もが主人公であるなんて、嘘っぱちだ。
だって俺は主人公じゃない。
俺のことなんて誰も見ていやしない。
自分が輝くどころか、真の主人公たちを照らすだけの存在。それが俺だ。
青春は、人生の成功者たちだけに許された聖杯なんだ――
認めよう。
それこそが青春だ。
主人公になれない奴らが羨む、生まれながらにして主人公である連中が持つ全てが、青春の条件だ。
性格。
容姿。
学力。
運動能力。
家柄。
友人。
恋人。
諸々。
それらを兼ね備えている連中こそが、主人公だ。
それらを、世に跳梁跋扈する腐れ青少年共は殊に欲しがる。
それらを売り歩けるほどぶら下げて闊歩する連中を妬む。
しかし、と俺は言いたい。
そんなものが必要か?
空気がなければ詰まるだろう。
水かなければ干乾びるだろう。
だが、友達や恋人がいなかったところで死にはしない。
そんなものは所詮、どれもこれも嗜好品に過ぎないのだ。
あれば幾許かの満足が得られるかもしれないが、強いて求めるようなものでもない。
だから俺はそもそも、考えない。
自分が主人公でないのはなぜか、どうしたら彼らのようになれるのか。そんなことは最初から思考しない。友達で集まってわいわいと談笑している連中を見て、あるいは仲良く手を繋いでキャッキャウフフと歩いている男女を見て、なにも感じない。
興味を持たない。
ゆえに俺は、認めない。
主人公の条件を全く揃えていない俺の人生において、青春の存在する余地など一切認めない。
だから、ここまでつらつらと述べてきたあれこれは、すべからく戯言だ。長々とページを割いた挙句にこれかと文句のひとつも言いたくなるかもしれない。全て受け付けよう。ただし書面に限ります。宛先は俺の脳内によろしく。
なんちゃって冗談だよ嘘だけど。
しかしまあ、そんな戯言ついでに、改めてちょっと考えてもらいたい。
【問題】
以下の問いに答えよ。ただし回答には“友情”“恋愛”あるいはこれらに類義する語をそれぞれ一度以上用いること。また“御社・陽は青春を認めない”という事実は考えないものとする。
青春とはこれ如何に(配点:人生)