中編
翌日は雨だった。
授業が終わり、帰る用意をする友人達を後目に、俺は図書室に向かう。そこで何となくの時間を潰した。
彼女が公園にいるだろうことは、何となくだが確信できた。
それなら別のルートで帰ってしまえばいいのだが、そうするのも気分が重い。
俺は、俺にこんなもやもやした気分を与える彼女にさらに腹立ち、ちっとも頭に入ってこない赤本をめくり続ける。
「おぉ! 小林、熱心だが、もう閉めるぞ。さっさと帰れ」
図書室にやってきた教師は、俺を追い出してさっさと鍵をかける。
「傘持ってないなら、職員室の置き傘貸そうか?」
窓の外を見ると、雨は小降りになっているものの、水たまりがあちこちにできている。
しかも暗い。六時ともなると、辺りは真っ暗だ。
さすがに、あいつももういないだろう、と奇妙な安堵が浮かぶ。
「大丈夫っす。傘なら、前回借りたのを持ってきてますから」
「おいおい。置き傘を私物化するなよ。卒業までに返せよ~」
申し訳程度の注意と、随分寛大な期限を聞きつつ、俺は上履きを外靴に履き替えた。
大きな水たまりを避けつつ、公園に向かう。
彼女がいないことを確認するためだ。
住宅街の中にぽつんとあるその公園を遠目に見たとき、俺は立ち止まった。
オレンジ色のひまわりのような傘が、たった一つしかない街灯の下にぽつんと咲いていた。
俺が水しぶきをあげながら公園に走り込むのと、傘の人物がくるりと振り返ったのはほぼ同時だった。
「あ、こば……」
「バカやろう!」
お互いの傘がぶつかり、盛大に水滴が飛び上がる。
夏はマフラーと手袋をしていて、驚いたように俺を見上げていた。
「こんな雨の中! 暗くなるまで待ってるんじゃねぇよ!
この辺りだって変質者はでるんだぞ! 雨なんて防音効果高い中に突っ立ってたら、おまえ、良いカモだろうが!」
夏のマフラーからのぞく鼻が赤くなっている。心なしか、目も潤んでいるように見えた。
「それに、いくら防寒具つけてたって、コート着てなかったら寒いだろ! さっさと帰れよ、バカ! おまえは幼稚園児以下の判断力しかないバカだ!」
怒鳴りつけて息を切らせていると、夏はへにょっと表情を崩すように笑った。
「笑ってもごまかされねぇぞ、バカ! 俺とつき合いたいんなら、高校生程度の常識もってこいよ、バカ!」
普段から少ない語彙数が、苛立ちと腹立ちの両方でさらに少なくなっていく。
それを夏は、うんうん、と頷いて聞いていた。
「だいたい、こんな雨の中、何でこんな時間まで……」
「小林君なら、来てくれると思ったから。ありがとう、約束、守ってくれて」
「俺は! ……俺は……」
言葉が続かなくて、俺は黙り込む。
何かを言わなきゃいけないのに、何を言えばいいのかわからない。言葉がのどにつかえて出てこない。
そんな俺にかまわず、夏は傘を少し傾けて、空を見上げた。
「雨、やんだみたいだね」
結局、俺は、夏の携帯電話の番号を聞きだした。
どうしても体調が悪い時や、何かがあった時に、連絡できるように。
俺の番号は教えていない。その時の俺は、俺が夏に連絡できればそれで良いと思っていたからだ。
「私、元気が取り柄だからね、何もないと思うよ?」
そんなことを言いながらも、夏は鞄から取り出したメモ帳に電話番号を書いて、俺に渡してきた。俺はそれを折り畳んで生徒手帳に挟み、胸ポケットにしまう。
聞き出した電話番号を、彼女の目の前でスマホに登録するなんて、すごく格好悪い気がしたのだ。
後々、俺はそれをすごく後悔することになる。
二週間を越えた頃、俺は仲のいい友人に呼び止められた。
「なぁなぁ、これ、お前だろ? 横の、彼女?」
友人のスマホの中には、写真データが一枚収まっていた。
川を挟んだ対岸から撮っただろう写真は、スマホではなく望遠を使ったデジカメで撮影したのか結構綺麗にとれている。そういえば、この友人の趣味は写真だったはずだ。
夕闇が迫る中、俺は仏頂面で前を歩き、夏は小走りで俺の後ろをついてきているようだ。
夏の左手の先が、俺のブレザーの裾を掴んでいるように見える。
夏は少し俯き、口元に淡い笑みを浮かべていた。
俺の心臓が跳ねる。
「消せよ!」
「照れるなって! 可愛い彼女じゃないか。いつから?」
「違う! こいつは……」
俺は迷った。期間限定の彼女だなんて、どう説明すればいい?
写真の中の夏の幸せそうな笑顔が目に刺さる。
「……こいつとは、もうすぐ別れることになってるんだ」
考えた末に出てきた言葉にはなんの捻りもない。
友人は困ったような顔になり、俺と写真を見比べた。
「そっか。受験だもんな。……わかった、後で消しておく」
頼む、とだけ友人に伝えて、俺は教室を出た。
「小林君、ここ最近、何か悩んでることあるの?」
ギクリとして歩みを止める。夏は慌てて、両手を顔の前で降り出した。
「あ、あのさ! 別に小林君を縛ろうとかじゃなくて! わかったふうなことを言って操ろうと思ってるわけでもなくて!
たまに眉間にしわ寄せて空睨んでるから、何かな、と思っただけ!
言いたくないなら、言わなくて良いから!」
そんなふうに言葉を連ねた後、また普通に歩き出そうとするから、俺はそれを止めた。
「夏」
「ひゃい!」
初めて名前呼びすると、素っ頓狂な悲鳴のような返事をして、夏が振り返る。
俺は、のどの奥で笑いながら、川縁のベンチを指さした。
「あそこ、座らねぇか?」
「ひゃ、ひゃい!」
何故か夏は、今まで見たこともないような固まり具合で、右手と右足を同時に出してベンチに歩み寄ると、落ちそうなほど端っこに座る。
意味が分からず、俺は夏の横に並んで座った。
「な、何でそこに!」
夏が顔を真っ赤にして叫ぶから、俺はいつになく楽しくなった。
「何でって、俺たち、つき合ってるんだろ?」
「……そうだけど……それ、反則……」
何か口の中でもごもご言いながら、夏が俯いてしまう。
いつもの彼女らしい溌剌とした余裕はどこにもなくて、俺は一矢報いたような高揚感に胸がすっきりとした。
そして、その勢いのまま、言葉を音にする。
「おまえさ、俺のこと、好きだろ」
壊れたロボットのように、錆びた機械のように、ぎこちなく夏の頭が上がる。そして、ゆっくりと俺を振り返った。
「やっぱり、わかる?」
夕日をあびた以上に、夏の顔が赤い。
「見てればな」
そうは言ったが、俺がそれを確信したのは、友人が見せてくれた写真からだ。
俺がそっぽを向いている間、彼女がそんな顔をしていたのか、と驚いた。
これまでの短いつきあいで、彼女は俺に一言も「好き」と伝えたことはない。判で押したように、「小林君は優しいね」と言うばかりだ。
俺のどこを見てそんな風に言っているのか。
単に、顔以外に良さそうな点が見あたらないから、適当なことを言ってるだけじゃないか。
学校で全く接点がない彼女を、俺はずっとそんな風に考えていた。
だけど、あの写真の夏は「そんな女」じゃなかった。
そう思って、ここ数日、夏を観察した。夏は、俺が夏を見ていないと思っている時、いつもの強気の笑みではなくて、どこか儚くて切ないような表情を浮かべていることが多かった。
「どうして?」
夏は俺から視線をはずし、遠くに沈んでいく夕日を見つめる。
「この前の冬、この辺りにキタキツネがいたの、覚えてる?
あの時、カップルが狐に餌をあげようとしたのを、怒鳴って止めたでしょう?」
夏の指が、ベンチから少し離れた四阿を指さす。
唐突に切り替わった話題に、俺は慌てて記憶を総ざらいする。
大学生くらいのカップルだっただろうか。
可愛い可愛いと繰り返し、そんな女の嬌声を受けて、男はカバンの中のポテチを取り出して与えようとした。
確かに俺は、怒鳴って割って入った。
怒る男に更に怒鳴り返し、拳を振り上げてきたので俺は手に持っていた缶コーヒーを握力だけで潰してみせた。
怯える女と男は慌てて走って逃げた。
「まだ落ちてたスナックの袋を拾って、小林君は石も数個拾った」
遠巻きにポテチの袋を見ていた狐に向かい、俺は全力で石を投げつけた。さすが野生。石は一個も当たらなかったけど、狐は文字通り尻尾を巻いて逃げていった。
「そのどこに、俺に惚れる要素があるのか、わかんねぇな」
「それ以来、この辺りで狐が出たって話を聞かないの」
「人間様にかなわないことがわかったんだろ」
「小林君は本当に優しいね」
夏は首を横に振って、大きく背伸びをすると、バネ仕掛けの人形のようにピョン、とベンチから下りた。
黒々としたシルエットが、俺の前にあった夕日をふさぐ。
「実はね、私はその時の狐なのです。あの時、あなたが人間の恐ろしさを教えてくれたおかげで、今日も無事、生きていられます! ありがとうございます!」
「はぁ? 何、バカなこと言ってんだよ」
呆れて肩が落ちる。頭上から、くすくすという夏の柔らかい笑い声が降ってきた。
「でも、あなたを好きになるには絶好の理由でしょう?」
「石を投げて追い回したのに、か?」
「そう。わかりにくい優しさって、私、わからなかったの。それを教えてくれたのが小林君。
私、それまで、わかりやすい優しさだけが優しさだと思ってた」
「餌くれたり、撫でてくれたり、か?」
「そうそう。そういう感じ。……でも、そういう優しさになれちゃうと、狐はゴミを漁るようになるし、住宅街にも出没するようになる。車にひかれたて死んじゃう子って多いんだって」
いつの間にか俺は俯いて、顔を覆っていた。
夏の柔らかい手が、俺の頭をそっと撫でる。
「小林君は優しいよ。
見ず知らずの女子に呼び出されても公園に来てくれた。
好きでもない女の子につき合ってくれって言われて、まずは受け止めてくれた。
歩くの早いって言ったら、遅くしてくれた。
怒らせたのに、雨の中、ちゃんと来てくれた。
どこがおもしろいんだかわからないような私の話をちゃんと聞いてくれた。
……狐を追い払ってくれた。
ね? 惚れるなって言うほうが無理でしょ?」
何故だか、俺は一言もしゃべれなくなっていた。目が熱くて痛い。
夏はそれっきり黙り込んで、夕日が落ちきるまでの数分間、ずっと俺の頭を撫でていた。
それ以来、何が変わった、というわけでもなく、相変わらず、俺たちは公園で待ち合わせをして、駅までをゆっくり歩く。
四十分かかっていた道のりは、いつの間にか一時間ほどに延びていた。
夏がどんな感想をいうのかが楽しみで、俺は拙い説明も続けるようになっていた。
「小林君、小論文とかって苦手でしょ。言葉が足りないのと、要点をまとめるのは違うからね。練習した方がいいよ」
「夏は得意そうだな」
「もっちのろん、よ。これで大学受かるくらい!」
「推薦、受けるのか?」
「え? あぁ、色々考えてる……。小林君は? もう志望校は決まってるんでしょ?」
行きたい大学は決まっていたが、この時の俺は、夏が行こうとしている大学も気になった。
札幌市内の大学の数はたかがしれている。市内である限りは、志望校が分かれたところでどうとでもなる。
だけど、市外や道外の大学を目指していたら?
「夏は、どこの大学にしてるんだ? 俺は○大の工学部なんだ」
夏は少し目を見開いて、何故だか周囲を見回した。
「まだ色々迷ってるんだ。……○大の工学部か。小林君にはぴったりだね。将来、何になりたいとか決まってるの? ……一緒の大学、行けたらいいね」
俺はそれから、訥々と将来の職業についても語ったが、夏はずっと聞き役に徹していた。
違和感がつきまとったが、それを言葉にすることを俺は怠った。
何の理由もなく、俺は、「夏は俺が好きだから俺のそばにいる」と思いこんでいた。
それが誤りだと知ったのは、十月最終日の前日、三十日のことだった。
公園から駅までの道のりはあっと言う間で。
十月三十一日は目前。俺は決断を迫られていた。
今日はまだ三十日。土日には相変わらず会っていなかったから、週明けの今日と明日を残すのみ。
さすがの俺も、自分の中に答えをちゃんと出すべきだと思っていた。
今日はともかく、明日はちゃんと言わなきゃダメだ。
俺もおまえが好きだ、と。
これからも、つき合って欲しい、と。
でも、明日に向けてそんな決意をした今日、俺は夏とどう過ごせばいいのかわからない。
いっそ、今日、全部ぶちまけた方がいいんじゃないか、とも思うくらい気が重い。
悩みながらも公園にたどり着くと、そこは無人だった。
これまでずっと夏の方が先に来ていたからそれが当たり前だと思っていたけど、先生に呼び出しされたり、友人や後輩に用事ができることだってあるだろう。
俺はくすぶる不安を無理矢理飲み込み、公園の街灯に寄りかかった。
一時間経った。
辺りはすっかり暗くなっている。
鼻の頭に冷たさを感じ視線をあげると、街灯に切り取られたような明かりの中に雪が舞っていた。
落ち行く雪の不規則な軌道を追いながら、胸ポケットから夏の電話番号が書かれたメモ帳を取り出す。
かじかんだ指先からこぼれ落ちた紙片は、雪と同じように舞って、地面にたどり着いた。
屈んでそれを拾おうとし、大きな石に押しつぶされた紙片を発見する。
夏の好きなキャラクターが描かれた紙片は、今拾おうとしている紙片とうり二つだ。
夏は俺の電話番号を知らない。だから、こんな風に伝言を残したのだろう。
俺は、電話番号と伝言を一緒に拾って、まずは伝言に目を通した。
俺は、書かれた言葉の意味が分からず、三回それを読み返した。
そこには、夏の読みやすく整った字でこう書かれていた。
期限の三十一日が目前に迫り、その日に泣いてしまうかもしれないこと。
強引に取り付けた約束でも、俺が律儀に通い続けるものだから、勘違いしそうになったこと。
泣いて最後に罵倒されるくらいなら、その前に姿を消してしまおうと思ったこと。
でも、そんなことを考えて三十日を一緒に過ごせるとは思えなかったこと。
だから、約束のためだけに通う俺に、この手紙を置いていくこと。
『すごく楽しい一ヶ月でした。小林君には感謝しかありません。
そんな優しい小林君に一つだけアドバイス。
人と接することに臆病にならないでください。あなたは、あなたであるだけで十分素敵な人です。でも、自分の気持ちをちゃんと伝えられれば、もっと素敵になります。
それこそ、私があなたを忘れられなくなるくらいに。
贅沢なお願いですが、私をもし思い出すことがあるなら、笑顔だとうれしいです』
慌てて架けた夏の電話番号は、使われていなかった。