6. 河内富美子(1)
目が覚めた。どうやら無事に戻ってこれたようだ。
目覚まし時計を見た。六時を少し回ったあたりだった。夫は隣でまだ寝ていた。
いまだにあの夢が現実ではないかと思わせるが、起きたらちゃんと家のベッドで寝ている。
わたしはひとつの仮説を立ててみた。それは夢ではなく現実だということにしたとする。
だが、その場合、いったいどうやってあの病棟に移動させているのだろう。移動している間、一度も起きることなく、ずっと寝ているとは考えにくい。そもそもとなりで寝ている夫が、わたしが連れ出されているのに、気がつかないわけがないと思った。そもそもなんでそんなことまでする必要がある。どちらにせよ、その可能性はありえないように思い、やはり夢なのだろう、と思うようにすることにした。
そろそろ起きて、朝食とお弁当の準備しなくてはいけない。
わたしはベッドから立ち上がったが、頭がふらふらとして、その場でしゃがみ込んでしまった。
最近は仕事が忙しく、家事もしなくてはいけないので、少し疲れているのだろうと思った。
少しすると良くなって来たので、あまり気にもせず、そのまま洗面所に向かって、顔を洗った。
台所に立ち、昨日の夕飯の残りものと、あと卵焼きを焼いてお弁当に詰めた。
白いご飯を弁当箱によそい、これでお弁当の準備は完了した。
次は朝食の準備をした。トーストとサラダとスクランブルエッグ。どこの家庭でも出てくるような朝食だ。
そろそろ夫と娘が起きるころだろうか、わたしは急いで準備を進めた。
そうこうしているうちに夫が先に起きてきた。
「お、今日の朝食はパンか」
「コーヒー飲む?」
「うん、もらおうかな」夫はそういって、椅子をひいて座った。
「あれ、今日も食べないの?」夫は怪訝な顔した。
「最近、朝は食欲がなくて」
「体調が悪いようなら、病院に行ってもいいんじゃないか」夫は心配しているようだった。
「最近仕事が忙しくて、行く暇がないのよ」
「そうか…あんまり無理したらダメだよ」
「わかっているわ」夫は相変わらず優しい。こんなところが夫に惹かれた理由のひとつだった。
「恵子はまだ寝てるのかい?」
「そろそろ、起きてくるころだと思うけど、ちょっと起こしてくるね」
娘の部屋の前に立ち、ドアをノックした。
「恵子ちゃん、もう起きてる? 朝ごはんできてるわよ」
返事はなかった。まぁいつものことだ。
わたしはこれ以上何も言わず、夫が居るリビングに戻った。
「もう起きていたわ。制服に着替えてる最中だって」
「そうか」とだけ、夫は返事をした。
「結婚して、君が恵子とうまくやっていけるか心配したんだけど、大丈夫そうで安心したよ」
「そうなの? そんなこと思ってたの?」
「ほら、あいつ思春期だろ? 新しい母親と仲良くできるか、心配だったんだよ」
「心配しなくても大丈夫よ。そんなことよりあなた、そろそろ出ないと遅刻しちゃうわよ」
わたしはこの話をすぐに切り上げた。夫には恵子ちゃんとの関係を気づかれたくなかったからだ。
「おや、もうこんな時間か」夫は急いで、会社に行く支度した。
「いってらっしゃい」夫は笑顔で、いってきます、と言って家を出た。
わたしは夫に嘘をついた。夫はまったくと言っていいほど、疑った様子はなかった。
夫を玄関で見送って、リビングに戻ろうとしたところだ。
恵子が洗面所から出てきたところだった。
「おはよう、朝ごはんできてるよ」恵子はこちらを見ず、黙ったままリビングに向かった。
恵子はテーブルの上に置いてある朝食には目もくれず、冷蔵庫にある牛乳をコップについで飲んだ。
これもいつものことだ。
恵子は牛乳を飲み終えたコップを流し台に置いて、そのまま学校の鞄を持った。
「あ、ちょっと待って、お弁当作ったの」
「体調悪くて、食欲ないからいらない」そういって彼女はお弁当を持たずに家を出た。
これもいつものことだった。
結局、恵子の為に準備した朝食をわたしが食べることにした。お弁当は会社に持って行き、昼食として食べることにした。恵子ではなく、わたしの為の朝食とお弁当と言っても過言ではない。
夫が不審に思わないように、どうせ食べてくれないとはいえ、恵子の分だけ作らないわけにはいかなかった。
そういった生活が夫と結婚してからずっと続いている。
夫は前妻の浮気が原因で離婚した。親権はもちろん夫が持つことになったので、恵子がわたしたちと住むことは当然だった。
わたしは今の夫との結婚が初めてだった。当時まだ中学三年生の娘さんがいると聞いた時は驚いたが、もちろん夫のことが好きなので、結婚したかった。そんな愛する人の子供なんだから絶対にうまくいく、そう確信しいた。
しかし、現実はそう甘くはなかった。夫からわたしを紹介された恵子は嫌な顔こそはしなかったものの、お父さんがそうしたいなら、とだけ言った。賛成とも反対とどちらかでもないといったような感じで、歓迎ムードではなかった。
わたしたちはそれが少し気にはなったが、さほど心配することではないと思い、結婚することにした。
結婚して半年が経つが、未だに恵子は、わたしに心を開いてくれてない。
仕事が終えるとわたしは今日の夕食の買い物にスーパーに寄った。
夕食の食材を買って家に着いたのは午後七時を過ぎていた。恵子はまだ帰っていないようだ。
家に帰ってすぐに夕食の準備を始めた。
夫は残業がなければ、八時ぐらいに帰ってくる。
今から作れば、ちょうど間に合う時間だった。
ガチャ
玄関からドアが開く音が聞こえた。時計を見ると夫ではない、と思った。玄関にいって確認すると、やはり恵子だった。
「おかえりなさい、晩御飯、もう少ししたらできるから」
「外で食べて来たから、いらない」
「あ、そうなんだ。ごめんね、そんなこと聞いてなかったから…」
「別に、言ってなかったから」そう言って、恵子は部屋に向かった。
いつものことだ。
予想していた通り八時頃に、夫が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりさなさい、ごはんできているわよ」
「お、今日は鯖の塩焼きか」夫は嬉しそうに言いながら、ネクタイを緩めた。
「あなたの好物にしたの」
「うれしいねー、恵子はもう食べたのかい?」
「ええ、先に食べたわ。宿題あるからって自分の部屋に戻ったわ」
「そうか、それよりお腹空いたな。さっそく頂こうかな」
「ビール飲む?」
「お、いいねー飲む飲む」
そういって夫はうれしそうにビール片手に鯖の塩焼きを幸せそうに食べた。
夫の顔見ていると、本当のことはいえないな、と改めてわたしは思った。
夕食を食べ終わり、夕食で使った食器の後片付けをした。
片付けを終えて時計を見ると、八時を過ぎていた。お風呂の準備がまだだったことを思い出した。
わたしは浴室に向かい、浴槽を洗い、お湯を張った。
二十分も経たないうちに、お風呂が沸いたようなので、恵子を呼びに行った。
彼女は黙ったまま、部屋を出て来て、そのまま浴室に入った。
これもいつものことだ。
わたしは最後にお風呂に入った。
風呂からあがり、髪を乾かし終えたら、冷蔵庫できんきんに冷えた炭酸水を飲んだ。
風呂上がりのこの一杯は最高だ。口の中に炭酸の泡が痛いぐらいがちょうどいい。今日の一日の疲れが、吹き飛ぶようだった。
わたしは炭酸水を飲み終え、寝室に向かった。ドアを開けると部屋は暗く、オレンジ色の豆電球だけが点いていた。
夫はもう寝ているようだ。わたしもベッドに入った。
「はぁー」思わず溜め息をした。恵子との関係がうまくいかず、自分でも気づいていないうちに、ストレスになっているようだ。
わたしはそんなことを考えながら、目を閉じた。




