29. 伊藤達也(5)
僕は加奈子に親父と会ってくるということを話をした。
彼女は僕の決意の本気度を感じとったのか、あまり深いことは聞くことはなく、わかった、とだけ言ってくれた。
親父がどに入院しているのか、分からなかったので、文江さんの自宅に伺って、訊くことにした。
文江さんは僕が親父に会いにいくと聞いた時は本当に嬉しそうな顔した。この人は親父のことを好きだったんだろうなと感じさせるような、笑顔だった。
親父が入院している病院は意外に近くにあった。ここから隣駅にある、大きな総合病院だった。
駅前でお見舞いのフルーツの盛り合わせを買った。
僕は電車に乗って、汗で滲んだ額を手で拭った。
総合病院の最寄り駅に着くと、そこから歩いて十分ほどのところにある。
僕はスマホの地図アプリを見ながら、総合病院に向かって歩き出した。坂道が多く、歩くだけで、汗が皮膚から滲み出て来る。徒歩十分だと歩いていけるかと思ったが、タクシーを使えばよかったとあとから後悔した。
ようやく病院の入り口が見えてきた頃には背中のシャツがびっしょりと濡れていた。
病院内はかなり快適な気温だった。さすが病院だなと感心した。暑過ぎず、寒過ぎだった。
案内所で親父の病室を教えてもらった。親父は四階の外科病棟の六人部屋で入院しているとのことだった。
エレベーターを待っている間、どうのような顔をして会ったらよいものか考えていた。
そうこうしているうちに四階についてしまった。みんなの言葉を思い出し、僕はもう考えるのをやめた。
親父がいると思われる病室の入り口横に貼ってある、入院患者の名前を確認した。
『伊藤匠』間違いなく親父の名前だ。
僕は入り口前に立ち止まり、深呼吸した。
よし、と心の中で気合いをいれ、今から戦場に行くようなそんな気持ちで親父がいるベッドに向かった。
「親父!」
親父は窓の方を向いて、各一人に設けられているテレビを見ていた。イヤホンを付けていたせいか僕の声が聞こえていないようだ。
「親父!」僕はさきほどより、すこし大きめの声をだした。
ビクと驚き、振り向いた。親父は一瞬誰が来たのか分からなかったようで、目をぱちぱちと何度か瞬きをした。
「なんだ、達也か」
「そうだよ、俺だよ」
「おまえ、なんでこんなとこにいるんだ」
「なんでって、文江さんって人から、親父のことを聞いたんだよ」
「文江……あー、あいつか、まったく余計なことを」と親父はぶつぶつと文句を言っていた。
「今更、何しに来たんだ」
「なにって、親父の容態があまり良くないって聞いたから、来たんだよ」
「はん、そんなの頼んじゃいねーよ」
相変わらずの頑固親父だ。
「まあそういうなよ、ほれ、フルーツ買ってきたから」
「まったく余計な御世話なんだよ。久しぶりに顔みせたと思ったら、なんだかしけた面しやがって」
そういって親父はなんだか嬉しそうだった、ような気がしないでもない
「それで容態はどうなんだよ」
「どうもこうもね、医者は大げさなんだよ。ちょっと腰が痛くて動けなくなっただけでよ」
「腰? 腰ってそれだけ?」文江さんが、あと余命何日みたいな言い方をしていたから、まぁ実際はそんなことはひとことも言ってなかったが、それは僕の早とちりだったみたいだ。あの人にしてやられたというわけか。
僕はくすっと笑ってしまった。
「なに笑ってんだよ」
「いや、べつになんでもないよ、そうだ! 親父が飼っている犬のナナも元気そうだったよ」
「おーそうか、あいつはわしに黙って勝手にいなくなってりするから心配だったんだよ」
「今も勝手にいなくなるよ」
「そうなのか、あいつちゃんと言うこと聞けよな」
そういって親父は嬉しそうに話をしていた。
「あのさ親父、おれ結婚することになったんだ」
「そうか」と言って、窓の方を向いて、しばらく黙ったままだった。
「今度、相手の人、紹介するから、それまでに元気になってくれよ」
親父は黙ったままだった
「おれ、そろそろいくよ」と立ち上がって帰ろうかと思った時だった。
「達也」と親父が僕を呼んだ。
僕は歩き出そうとした足を止めて、立ち止まった。
「よかったな。おめでとう」
その言葉を聞いただけで僕と父の間にあった蟠りが、ふっ、と消えるような感じがした。
僕の目からは涙が出そうになった。親父のたったそのひとことが全てを教えてくれた。
親父は最初から自分のことを許していたのだ。息子が本当にやりたことに対して納得してくれていたのだ。
僕は父の方を振り返ることはせず、ありがとう、それだけを言って病室を出た。
病室を出た時は、前が見えなくなるほど、涙が流れていた。
母親が亡くなってから、親父は寂しい思いをしていたに違いない。
どうしてもっと早く、親父と話をしなかったんだろう。そういった後悔が今更ながら湧き上がってきた。
*
あれから親父の腰の調子もすっかり元通りになり、無事退院した。
文江さんにお礼をしたかったので、加奈子と改めてあいさつに言った。
その時の文江さんは本当に嬉しそうで、やはり僕が思っていた通り、僕に親父の容態が悪いように思わせるためにそのように話したそうだ。
そしてナナは僕が初めてこの家を訪ねてから、一度も一人で外を出歩いていないそうだ。
ナナが僕と親父を仲直りさせるため、あんな行動に出たのかもしれない。僕はそう思うようにした。
親父と話をした日を夜、僕はまた夢を見た。
親父に会いに行ったことをみんなに話した。
葵ちゃんは話を聞いたら、泣いてしまった。
泣いている葵ちゃんを慰める、河内さん。
院長は相変わらず、いつもの調子だった。
そういえば、今回に限って、僕が描いたと思われる絵がドアの前の床に立てかけてあったのだ。
一体これはどういうことなんだと思い、床に置いてある絵を取ると、絵の具と筆があった。
僕は気づいたら筆を握っていた。いつまで経っても書き終えることができなかった絵に向かって。
なぜだか、今なら描ける気した。
僕は夢中になって絵を描き続けた。ここが夢の中であることも忘れて描いた。
完成した絵を見て僕は一人で、うん、とうなづいた。納得のいく絵がかけた。不思議だ、どれだけ考えても一向に描けなかった絵がものの三十分ほどで描き終えてしまったのだ。
僕は描き終えた絵を持って、いつのもの場所に向かった。
以前に絵を見たいと言っていた院長や葵ちゃんが驚いていた。
絵がここにあるのもそうなんだが、葵ちゃんは現実で僕の絵を見たと聞いた時は驚いた。
ショッピングモールの展示会で見たらしい。
僕が描き終えた絵はなんの変哲もない河川敷の絵だった。ここは昔よく親父とキャッチボールをした場所だった。
この絵を描き始めた時は、そんなことを思いながら描いてはいなかった。けれど、この夢の中で描いた時は、その当時のことを思い出しながら描いていた。キャンパス中に吸い込まれてたような感覚になり、当時の河川敷の草の色や匂い、赤とんぼがそこら中にたくさん飛んでいるのを見て、気持ちが悪くなりながら親父とキャッチボールしている感触が僕の手にまだ残っていた。
僕がこの絵に対して足りなかったこと、それは画家としての自信だった。
僕が選んだ道は正解だったのか、自信が持てなかったのだ。でも親父と会ったことで、自分の選んだ道は間違えではなかった。そう思えるようになると自然と絵が描けるようになったのだ。
今ならなんでも描けそうな気がした。それだけの自信が付いたようにも思えた。
ここは不思議なところだ。夢とは思えないほどのリアリティがあり、ここで出会った人たちとはまったく縁のないひとたちだと思ったけど、実はそうではなかった。
信じらないことだが、こんな漫画みたいな世界がほんとにあったなんて、にわかに信じらないことだが、傍からみると、薄気味悪く、非現実的で、気持ち悪いように思うかしれない。でも僕はこの奇跡のような現象が、たまらなく好きだ。




