27. 伊藤達也(3)
「あら、どちらさま?」
僕に話し掛けた婦人は特に警戒した様子はなかった。
「すいません、そちらのお宅のわんちゃんでしたか」
「ええ、そうですが。あ、もしかしてうちの犬が何かご迷惑を掛けてしまったのでしょうか」
「あ、いえ、そういうわけではないです。お宅のわんちゃんをたびたび一人でいるところを目撃していまして。今回、そのわんちゃんに連れられて、それで気づいたら、こちらのご自宅に辿りつきました」
「あらそうなんですか。すいません、うちの犬がご迷惑かけてませんでしたか?」
「いえいえ、すごくお利口なわんちゃんでしたよ。わたしにやたら懐いてくれたみたいで、なんだか情が湧いてしまいました。──それで少し気になっていたのです」
「気になることですか? それはどういったことでしょうか?」婦人は少し怪訝そうに答えた。
「はい、どうして一人でいるのかな、と思いまして、飼い主の方も見当たらなかったもので」
「ああ、そういうことですか。──この子はたびたび一人で抜け出すんですよ。普段は門扉に鍵かけてないんですけど、この子は頭がいいのか、門を自分で器用に開けてしまうんです。一人で外に出るのは危険だと思って、門に鍵をかけるようにしたのですが、そうしたら、どうしても外に出たいみたいで、吠えてばかりいたんです。ここままだと、ご近所にもご迷惑をかけると思ったので、鍵を開けることにしたんです。そうしたら吠えるのをやめましてね。それ以降、毎日一度は必ず外に出てしまいまして。わたしとしては事故に合わないか心配なんですけど」
「なるほど、そう言ったご事情があったのですね。少し、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ。それはそうと、外をお暑いので、よろしければ家の中でごゆっくりしていきませんか?」
「え、そんなご迷惑お掛けしますので……」
「迷惑だなんて、そんなことはないですよ。ナナをここまで連れてきてくれたお礼もさせて頂きたいので」僕は婦人が話した言葉のある単語に反応した。
「ナナ? このわんちゃんはナナというお名前なんですか?」
「ええそうですけど、それが何か……」
「いえ、知り合いもナナという名前の犬がいまして、すこし驚いただけです」
「まあ、そうだったんですね。いい名前なんで、よその方も同じように付けたのかもしれませんね。さぁ、どうぞ。中は涼しくなっておりますので」
「はい、ではせっかくなので、お邪魔させていただきます」
玄関に入ると、冷気が熱く火照った僕のからだの熱をとった。玄関の横にある、アンティーク調の腰の高さまである靴箱と思われる棚の上に置き時計を見ると九時を少し回っていた頃だった。
ペルシャ絨毯と思われるものが玄関に敷いてある。周りの家具を見るとお高そうな匂いがプンプンと臭う。
僕には一生こんな家に住むことは無理なんだろうなと思わせるような雰囲気の家だった。
玄関でこうなのだからリビングはもっとすごいのだろうと想像を膨らました。
婦人にリビングへ案内された。予想通りの空間だった。
どんな仕事についたらこんな立派な家に住めるのだろうか。僕が今住んでいる家と比べるとなんだか自分が惨めに思えた。
「どうぞ、適当にお掛けになってください」
婦人はそういう言ったが、どこにいけば良いか分からなかった。広すぎるからだ。ソファが何個もあった。普通の家庭なら一個あっていいとこだ。しかも何個もあるだけではない、散らばっているのでるせいで、どれに座っていいのか、僕を迷わせる。僕は一番メインに使っているだろうと思うソファに座った。
「いま、冷たいお飲み物をご用意いたしますので」
「どうぞ、お構いなく」よくこの言葉は建前のような使い方が多いが、これは僕の本心であった。
すごい高級なものが出てきてくる予感がするので、恐縮してしまった。
「どうぞ。こんな暑い日は冷たい麦茶が一番いいと思いまして」
僕が予想していたものとは違い、ごく一般的な飲み物だった。
「あ、いえ。ありがとうございます。そうですね、まだ朝とはいえ、すごく暑いですもんね」
「ほんとに、最近は猛暑ばっかりで参っちゃうわ。庭の手入れももう大変で」
「そうですね、熱中症には気をつけないといけないですからね」
「そうなのよね。水分だけじゃなく塩分も取らないといけないみたいね」
「そういえば、まだ自己紹介がまだでした。僕は伊藤達也と申します。ええと木津さんでよろいですか? 先ほど、表札を拝見いたしました」
「はい、そうです。わたしは木津文江<きづ ふみえ>と申します」
そうやってお互いの自己紹介を終えて、あたり触りのない世間話をした。
「あのー、先ほど僕がいったことなんですが……」
「あ、そうだったわね。まだ話の途中でしたね」
「ええ、お宅のわんちゃん、そのナナはどうしてそんなに家から外に出たがるのでしょうか」
「外に出たがる理由ですか……」
「ええ、普通はそんなに出たがるような飼い犬はめずらしいと思いまして、それにお宅のお庭はだいぶ広いようですし」
「実はその子はわたしの知り合いの知人からお預かりしている犬なんです」
「知人からですか?」
「ええ、その方はこの家を建てくださった方なんです」
「この家を。それはまた立派な方ですね。大工さんか何かですか」
「ええ、そうです。大工をしている方です」
大工か。僕はその言葉を聞いて、父のことが頭によぎった。
「でもどうして、ナナを預かることになったのでしょうか」
「それはですね……」と文江さんは途中で踏みとどまった。
「あ、言いづらいことであれば、結構ですので」わたしは今日あった初対面の人だったので、図々しくするのも失礼だと思った。
「あ、いえ。大丈夫ですよ。実はその知人なんですが、今ご病気で入院されているんです」
「なるほど。それで一時的にお預かりしておられるということですか」
「ええ、そういうことです」
ひとにはいえない事情なのだと思ったが、案外ありそうな話しだったので、内心ほっとした。
「その方、伊藤さんと言いましてね」
「えっ?」
文江さんのふいの言葉にびっくりして、僕は一瞬、何かの聞き間違えかと思った。
「わたしの方からご質問してもよろしいですか?」と文江さんが言った。
「はい、どうぞ……」
「もし差し支えなければなんですが、伊藤さんのお父上はどういったご職業のされているか伺ってもよろしいですか?」
僕はためらった。なぜこの人はこんなことを聞いてくるのだろう。脇の下から汗が滴り落ちる。僕は動揺していた。
「僕の父も大工をしています。と言ってもまだ現役かどうかまでは知りませんが……」
「まあ、やっぱりそうだったのね。ちなみ、お父さんのお名前は?」
「──匠といいます」文江さんは、まぁ、やっぱり、といって手を両手でぽんっと叩いた。
「あの──、文江さんと父はどのような関係なのでしょうか? ただの大工とその建主のご関係のようにはみえませんので……」
「あ、そうね。ではご説明しますね」
僕は息を呑んだ。どういった関係なのだろうか、まさか親父の新しいパートナーとか…なのだろうか……
「わたしとあなたの父親、匠さんとわたしは同じ高校に通っていた同級生なの。それとね、あなたのお母さんとも親友だったの」
「えぇ! そうだったんですか?」僕は拍子抜けしてしまった。もしパートナーだったらどういった反応したらよかったのだろうか、と考えていたからだ。いや、そんなことよりも、こんな偶然があり得るのだろうか。
「わたしね、さっきあなたを一目見た時に、どこか懐かしい感じがしたのよ」
「僕を見てですか?」
「ええ、だってあなた匠さんが若い時とそっくりなんですもの。あと、あなたのお母さんのお葬式にわたしも参加していたの。その時、あなたの顔を一度みていたので、それを思い出して、確信したの」
「そうだったんですね、母の葬式に来ていただいてありがとうございました。でも僕は文江さんのこと全然覚えていないんです。申し訳ありませんが……」
「別に謝らなくても大丈夫よ。そんなこと全然気にしてないわ。それにしても本当にびっくりしたわ」
「僕もすごく驚いています。あの犬、いえナナの後を追いかけたら、まさかこんなことになるんて。偶然とは思えないですね」
「ほんとね、奇跡のようね」
「でもわたしがあなたのお父さんのことを話したら、今のお父さんのこと、知らないような様子だったけど、最近会ってないの?」
「ええ、僕と父は母の葬式以降、実家にも一度も帰っていません。もちろん父の顔もそれきりみていません」
「ああ、やっぱりそうだったのね」
「ご存知だったのですか」
「あ、いえ、ごめんなさいね。実はねあなたのお母さんのお葬式の時にね、匠さんから聞いたのよ。あなたとのことを」
「そうだったんですね……。あのー、父はなんで入院しているのでしょうか?」父のことにはあまり触れたくはなかったが、入院していると聞いたので、重い病気なのではないかと、不安にはなっていた。
「匠さんね、あまり容体がよくないのよ」
「え」
「今はまだ普通に話せる状態ではあるけど、ここままだと……。ごめんなさい、不安にさせちゃったわね」
「いえ」
「まだ、仲直りできてないようだけど、一度、匠さんに会ってみたらどう? きっと喜ぶと思うわ」
「今さら会わせる顔がないです。父は僕が大工になることを期待していたんです。僕もそのつもりでした。でもそれ以上にやりたいことが見つかったんです。父の反対を押し切り、僕は父に何も言わずに家を出たんです。そんな息子が会いに来てもあの頑固な父が喜ぶわけないです」
「そんなことないわ。匠さん、あなたのこといつも心配していたわ」
「そんなの信じられません……」
「あの、すいません。僕、この後用事がありますので、そろそろ失礼させていただきます」
「達也くん……」
「麦茶とても美味しかったです。ありがとうございました」
「いいのよそんなこと。またいつでもいらっしゃい。ナナも喜ぶと思うわ」
「はい、その時は是非、またお邪魔させていただきます」
僕はそう言って逃げるように、文江さんの家を後にした。




