25. 宮本葵(9)
目が覚めたらまだ朝の六時だった。
重りが載っているかのように頭が重かったが、そんなことが気にならないほど、気分の方が重かった。
わたしはついさっきみた夢の内容を思い浮かべた。
河内さんが泣きながら嗚咽をし、そのままその場から退場した。わたしはそのあと、残ったみんなと話をしたのを思い出す。
伊藤さんは、つらい思いをしたね、と言って慰めてくれた。
上條くんはなんて声をかけたらいいか、わからない様子で少しおろおろとしていた。
わたしは山辺家の事情を聞いた時、そんなのわたしには関係ないと思ったのが本心だった。
でも河内さんが山辺恵子がしたことに対して、真剣に謝ってくれたこと、本当に申し訳なさそうな表情を見て、気持ちが伝わってきたのを感じた。
山辺恵子と本音でぶつかり、河内さんと山辺恵子のわだかまりが解消した。
それは良いことだ。でもそれと同時に思うことがある。
それじゃあ、わたしは一体なんだったのか。あの家族が仲良くなるために、いじめられてた、ただ、それだけとういことになる。
みんなはわたしのその言葉を聞いて、狼狽えた様子を見せた。
「たしかに、本当に葵ちゃんは気の毒な思いをしたね。でも、葵ちゃんも河内さん家族と同じで、一皮剥けたんじゃないかな」院長はわたしを慰めようとしているのか、よく分からなかった。
「一皮?」
「だって、いままでの君なら、他人に対して本当の自分を見せてなかったじゃない。いじめがきっかけとはいえ、山辺恵子さんにぶつかったじゃないか。それに河内さんに対しても、ちゃんと言いたいこと言えてるように見えたよ。今だってこうして、本音をぶつけているているところが前の葵ちゃんからしたら、想像できないことだよ。」
「たしかに。その通りだよ」伊藤さんが、慌てた様子で同調する。
「そう、なのかな」そう言われれば、そうかもしれない。以前のわたしなら自分の気持ちを押し殺し、本音を言わないようにしていたはずだ。河内さんに対しても、本音を言うこともなく、何も言わず、謝罪を受け入れていたに違いなかった。
「前のいじめが原因で葵ちゃんは変わったけど……いじめがそれをまた解決してくれたってことだね」
「院長、不謹慎ですよ」小鳥遊さんが院長をぎろっと睨みつけた。
「ごめんなさい」
院長が言っている前のいじめとは小学生の時のこと言っているのだろう。
「それでも、これまで受けたことは、わたしにとっては辛いことに変わりはないです」
「そうだね、その通りだと思う」
「──よし、じゃあ今日はここまでにしようか、葵ちゃんも疲れたでしょ」
「いえ、大丈夫です」とは言ったものの、本当のところ、もうくたくただった。神経を研ぎ澄ました状態が何十分も続いたので、かなり疲労していることにさっき気づいた。
「お二人も、今日はありがとうございました」
わたしたちは椅子から立ち上がり、部屋に戻ろうとした。
「あ、そうだ。上條少年、ちょっといい?」
上條くんは少し、気だるそうに院長の元に向かった。
なにを話しているんだろう。上條くんが何やらすこし、慌てているようにも見える。
疲れのせいなのか、はやく部屋に戻ってベッドに横になりたかったので、二人のことを、さほど気にすることなく部屋に戻った。
*
あたまの異常もなく、予定通り退院できたのは先週のことだ。
母はわたしの担任の先生から事情を聞いたらしく、険しい顔をしてわたしに聞いてきた。
わたしは母に学校でいじめを受けていたことを話した。
母はわたしが苦しい思いをしていることに気づけずにごめんねと何度も言った。わたしも黙っていて、ごめん、と言った。
退院してからはしばらく学校を休んだ。母がそうしろと言ったからだ。そして母も今日は仕事を休んだ。母は午前中に学校に用事あると言って、家を出た。
服装がいつも仕事に行っているような格好だったので、何か重大なことでもあるのだろうと思った。
お昼を過ぎた頃に母が帰宅した。
わたしは母が何をしに学校に行ったのかは訊かなかった。大人同しの話し合いだろうと思ったからだ。
あたまの傷も治りかけた頃、母から話しがあると言われた。
どうやら今日の夕方に、山辺親子がわたしたちの家に来るというのだ。
母は、会いたくなかったら別にいいのよ、と言ってくれたが、わたしは会うと言った。
河内さんのことがなければ、わたしはおそらく、拒否していただろう。彼女たちの苦悩も知っているせいか、わたしは複雑な思いをしていたのはたしかだった。
夕方の五時を少し過ぎた頃だった。玄関のチャイムが鳴った。
わたしの緊張は一気高まり、ダイニングテーブルに座っていたわたしの背筋が自然と伸びた。
最初にリビングに入ってきたのは、母だった。続いて、河内さんとその旦那さんと思われる人。最後に山辺恵子だった。
わたしは彼女たちの姿を見て、あの夢の中であった河内さんが、今、自分の目の前にいることに、おとぎ話のような出来事と山辺恵子が自宅にいる不自然さが混ざり合った、なんともいえないないような感じがした。
ダイニングテーブルを挟んだ状態でわたしたち家族と河内さんの家族が座っていた。
まず話を切り出したのは河内さんの旦那さんだった。
「このたびは娘のしたことで、お宅の娘さまに怪我をさせたこと深く、お詫びいたします。申し訳ございませんでした」
そういって、河内さんと旦那さんは椅子から立ち上がり、深々とお辞儀をして謝罪をした。
わたしは山辺恵子の方を一瞥した。彼女はうつむいたままで、ぴくりともしなかった。
「ほら、恵子もちゃんと謝って、約束したでしょ。ちゃんと謝るって」
河内さんにそう促され、山辺恵子はわたしの方に向いて、「怪我をさせてしまって、ごめんなさい」とそう言っただけだった。
「謝るのはそれだけではないですよね」わたしの母はやや威圧的な態度で山辺夫妻に向かって喋った。
「はい、もちろんです。今回、恵子が怪我を追わせただけではなく、葵さんにしていたことについても謝罪をしに参りました」河内さんの声が少しかすれて、震えていた。
「わたしの娘は、あなたの娘さんからいじめを受けていたと担任の先生方から聞きました」
「はい、おっしゃる通りです」
「娘がどれだけつらい思いをしたか、ご存知ですか?」母は額に血管を浮き上がらせていた。
母のことばを聞いて、すこし胸が締めつけられるような感覚がした。
わたしは河内さんの家の事情のことを知っているせいか、一方的に糾弾されている河内さんを見るとなんだか心が痛くなる思いだった。母が河内さんに話している内容が、わたしの耳には何も入ってこなかった。河内さん、はい、はいと返事をする声しか聞き取れなかった。
どのくらいの時間が経っただろうか、わたしは時計をちらっと見たが、まだ十五分ぐらいしか経ってはいなかった。一時間はここにいるような感覚だった。
これだけ時間の流れは、遅いものなのかと思わせる程、それだけこの場いることが苦痛に感じたのだ。
やがて、山辺家三人が椅子から立ち上がり、玄関へと向かった。
山辺夫妻は玄関で靴を履き替え、こっちに向かって何度も深々とお辞儀をし、謝罪をした。山辺恵子も二人につられるようにお辞儀をした。
結局、山辺恵子からは怪我を負わせたことに対しての謝罪のことばしか聞くことはなかったが、その後はわたしへのいじめはなくなった。
あたまの傷も完治したので、今日から学校に登校することにした。
わたしはこの日、学校に登校することを不安に思っていたが、楽しみしていることもあった。というのも先週の土曜日のことだ。小向沙緒里が突然、わたしの家に来たのだ。
わたしは驚いた表情をしたが、彼女はわたしに話したいことがあると、真剣なまなざしをしていたので、家に入れることにした。
そして、沙緒里はこれまでのことをわたしに謝った。
いじめられてる時に、わたしと距離を置いてしまったこと、財布を盗まれた事件のこと、山辺恵子に階段から突き落とされたこと、これまでのこと全部、友達としてなにもしてあげれなかったこと。
彼女は嗚咽を吐きながら泣きじゃくっていた。泣きたいのはわたしの方だった。でも、こんなにもわたしのことを思って泣いてくれて、なにより、自分の過ちに気づいた彼女のことを責めることができなかった。わたしも沙緒里から距離を置かれて、悲しかったことなどを彼女に話しているうちにわたしも泣いてしまった。二人して泣きまくっていて嗚咽まじりの声に気づいた母が部屋に入って、驚いた表情をした。後から母が、暖かいホットミルクを持ってきてくれたが、そのホットミルクの味が甘いのかしょっぱいのかよく分からなかった。でもそれがわたしたちにとって、一生忘れられない思い出の味となった出来事だった。
わたしは教室に入ることに緊張していた。
あんなことがあったのでは無理もなかった。わたしはいつも通りにして、教室に入った。
クラスみんなの視線を感じる。席に着いた時、わたしに真っ先に声をかけてくれたのは沙緒里だった。
「おはよう、葵ちゃん」
「おはよう」
わたしたちはお互いにあいさつを交わした。わたしは照れくさかった。沙緒里もそのようだ。
「もう大丈夫なの?」沙緒里の言いたい事が、わたしはすぐに分かった。
「うん、大丈夫だったよ。もう病院には来なくていいって」
「そっか、よかった」
「あっそうだ、お昼一緒に食べようね」
「うん」
そういって、沙緒里は自分の席に戻った。
昼休憩になると、わたしはいつものように鞄持って出ようと思ったが、今日はそれをしないで、お弁当と水筒だけ持って中庭に沙緒里と一緒に向かった。
こうして友達とお弁当を食べる日が来るなんて、夢みたいだった。
お互いにお弁当を食べ終わった頃にはお昼休憩の時間も終わりに近づいていた。腰を上げて、教室に戻ろうとした時だった。
山辺恵子がわたしたちの前に現れたのだ。沙緒里の方を見てみると固まっていた。
「何か用?」とわたしは冷たい態度をとった。
山辺恵子はしばらく立ったまま黙っていた。
「用がないなら、わたしたちもう行くね」そう言って、立ち去ろうとした時だった。
「ごめん」
わたしは自分の耳を疑った、が、たしかにそれは、山辺恵子の口からはっきりと聞こえた。
「ごめんってなにが」と彼女の方に振り返り、憮然な態度で聞き返した。
「今までのこと……ひどいことして、本当にごめんなさい」
わたしは彼女のことばを聞いて、しばらく黙った。
「わたしは──」途中で唾を飲み込んだ。
「あなたのことをすぐには許せないと思う。でも……もしかしたら時間が経てば忘れることができて、許すことができるかもしれない」彼女は頷きもせず、ただ黙って聞いていた。
「ひとつだけ、確認させてもらえる?」
「えっ、なに?」
「お母さんとはうまくいっているの?」
「えっ? それどういう意味」
「そのままの意味よ」
彼女は訝しげな表情をしたが、その後、すこし考えるしぐさをして、まぁ普通かな、とだけ答えた。
それを聞いてわたしは、そう、とだけ言った。
「え、だからそれが今回のこととどう関係あるのよ」
「なんでもない。いこ、沙緒里」わたしはとなりでぽかんとしている沙緒里の手を引いた。
「え、ちょっと」山辺恵子はわたしたちを引き止めようとしたが、わたしは沙緒里とその場から立ち去った。
彼女の、まぁ普通、ということばを聞いた時、彼女が少し照れ臭そうにしていたのを見ると、河内さんの悩みが解決したのだと確信することができた。
それで、わたしがこれまでされたことは、少しは意味があったことなのかな、と、なぜか、今はそう思えるようになっていた。
それは、わたしもこのいじめがきっかけで、変われることができたということもあったので、まぁそれはそれでいいか、と、どこか割り切れたような気がしたのからかもしれない。




