23. 河内富美子(6)
あの夢で見たことは、現実の一部なんだと思わせる内容だった。
頭がくらくらする。いつもあの夢をみたあとは頭がふらつく。わたしはテレビで放送していた番組を思い出した。夢を見るときはノンレム睡眠と言って、眠りが浅い状態のことを言うらしい。やはりこのふらつきは浅い睡眠のせいなのか、それとも単に寝不足からくるものだろうか。
目覚まし時計を見ると、朝の八時だった。いつもなら焦ってベッドから飛び上がるところだが、今日は土曜日だ。わたしは遅めの朝食の準備をした。
朝食の準備をしている途中、夫が起きてきた。
恵子のことは、夫にはすでに話をした。といっても学校でクラスメイトを怪我させてしまったことに関してだ。当然、夫は恵子がそのクラスメイトをいじめているという事実を知らないが、わたしもまだ完全に確信したわけではなかった。本人にちゃんと聞いてみないとそれはまだわからないことだ。
恵子はまだ起きてこない。昨日あんなことがあったのだ、顔を出しづらいのだろう。
朝食を食べ終えたら、わたしは恵子の朝食をサランラップで包み、冷蔵に保管した。
食器を洗い終えて、洗濯機を回した。洗濯機が回っている間に部屋に掃除機をかけた。夫はリビングの床にごろ寝していたが、掃除の邪魔にならないようにソファの上に避難した。わたしがいつも掃除の時に床にいる夫を何度となく注意してきたことか。夫はそれを察したのか、自分から動いた。
掃除機をかけ終わり、少し休憩した。洗面所から洗濯機がひと仕事終える音が聞こえた。
洗濯機に入っている衣類を洗濯かごに入れ、ベランダに向かった。
ベランダには寝室と恵子がいる部屋から入れる。わたしは寝室からベランダに出た。
洗濯物を干しながら、恵子の部屋をベランダからのぞいてみた。遮光カーテンは開いていてレースのカーテンだけになっていた。うっすらだが、外から中の様子を確認することはできた。そこに恵子の姿はなかった。いつのまに外出したのだろうか。わたしが起きてからは恵子が出て行く気配は感じられなかったので、わたしたちがまだ寝ている時なのだろうか。学校での出来事があったので、少し不安な気持ちになった。
洗濯物を干し終わり、リビングに戻った。
「ねえ、恵子しらない?」わたしは夫に訊いてみた。
「さあ、まだ寝てるんじゃないのか」
「わたしもそう思ったのよ、でも部屋にいないみたいなの」
「僕たちが気づかないうちに外出したんじゃないの?」と夫は何も心配ないと言った表情でわたしをみが、わたしはそう思わなかった。
「恵子ももう子供じゃないんだ。そのうちに帰ってくるよ」夫も少し心配している様子だった。
「だったらいいんだけど」
午前十一時を過ぎた頃に夫はゴルフの打ちっ放し場に向かった。
そういえば、夫が会社の同僚とゴルフに行くと言っていたことを今思い出した。
わたしはといえば、とくに予定はなかった。外もかなり暑そうだ。外出する気力もでない。もう少し涼しくなる夕方からにしよう。
わたしは夢の中の出来事を整理してみた。
この家族だけの問題じゃないんだ。今までなんとなく踏み出せないところがあったが、恵子ときちんと話合う必要がある。恵子が帰ってきたら、きちんと話合おう。できれば夫も一緒に。
自分の中での決心が固まり、時計を見ると、夕方の五時を回っていた。買い出しにいかないと。
わたしは駅前のスーパーに向かった。ここはいつも利用するスーパーで、近所でも評判がいい。
今夜は恵子が好きな鯖の味噌煮にしよう。これはわたしが恵子について知っている、数少ないうちの一つだった。
買い物が終わり、家に帰ると夫がすでに帰宅していた。
「あら、帰ってたのね」
「うん、今日は調子がよくてさ。これ以上やって調子が悪くなる前に帰ってきた」
いつもはちょうど夕飯ができる頃に帰ってくるのだが、今日に限って少し早めだった。夫はああ言っているものの、恵子のことがやはり気になるのだろう。
「ちょっと後で話をしたいことがあるの」
「どうしたんだい? 何かあったのかい?」
「うん、ちょっとね……恵子のことで」
夫はわたしの真面目な口調でただならぬことを感じとったのか、わかった、とだけ返事をした。
夕食の支度が終わったのは十九時を過ぎたあたりだった。恵子はまだ帰ってはなかった。
「恵子遅いわね、どうする? もう少し待ってみる?」
「そうだな、恵子が帰ってくるまで待ってみるか」
しばらくテレビを眺めながら、恵子の帰りを待ったが、一向に帰ってくる気配がしなかった。そして時計を見ると午後十時を過ぎていた。
「ねえ、ちょっと遅過ぎない?」
「たしかに遅いな、いつもは遅くても九時までには帰ってくるはずなのに…」
さすがの夫も明らかに不安そうな顔をしていた。何か不吉なことが脳裏に浮かぶ。
「ちょっとわたし、外を見てくるわ」
「外といっても、どこにいるかわかってるのかい?」
「わからない、でももしかしたらもうすぐそこまで帰ってきているかもしれないと思って、
夜道はあぶないもの」
わたしたちの家のまわりは住宅街であまり人通りは多い方ではなかった。
「それだったら僕もいくよ」夫はそう言ったが、なんとなく、わたしだけが行くべきなのだと気がしてならなかった。
「いいの、わたしに行かせて。それにもし行き違いになるかもしれないから、あなたは家にいてちょうだい」夫は納得いってはいないようだったが、しぶしぶ承諾した。
「もしわたしが外に出てる間に恵子が帰ってきたら、連絡ちょうだい」
「わかった。気をつけてな」
「ええ、それじゃあいってくるわね」そういってわたしは玄関を出た。
恵子の行きそうな場所などは、正直に言ってまったく想像できなかった。
とりあえず駅周辺を探してみることにした。
まずは、駅前にあるロータリーエリアを探すことにした。この辺でよく学生が立ち話をしたり、座り込んで友達同しで楽しそうにおしゃべりしている姿をよく見かけていた。わたしはもしかしたらそこに恵子がいるのではないかと思い、高校生と思われる面持ちを持った人を探した。土曜日ということもあって制服を着ている学生は少なく、恵子がどんな服装をして外を出たのかすら知らなかったので、探すのが困難であった。
恵子の友達を知っていれば、何かしらの情報を得ることができたかもしれない。わたしは娘の交友関係も把握していなかった。本当にダメな母親だ。
駅周辺を探し回ったが、恵子の姿を見かけることはなかった。ショッピングモールにいるかもしれないと考えたが、あそこは午後九時で閉店するのでその可能性はない。
わたしは恵子がなぜ返ってこないのかという理由をもう一度よく考えた。
やはり、あのことが原因なんだろう。家に返ってこないのは、わたしがいるからに違いない。
学校も早退して、しばらく学校も休んでいたので、クラスメイトにもあまり会いたくはないだろう。一人でいても不自然に思われることがなく、かつ時間が潰せそうなところがどこかを考えた。
女子高生が行きそうなところはおそらく、いないだろう。
わたしは人目があまりつかない喫茶店に目をつけた。駅前から徒歩園内だと二店舗あった。
南出口と北出口にそれぞれあった。どちらの店も駅から徒歩五分といったところだ。
わたしはまず自分がいる南口の喫茶店に行くことにした。
南口から五分ほど歩いたぐらいに喫茶店と思わしき看板が煌々と輝いていた。
外からだと店内がよく見えなかったので、わたしは店をドアを開けた。店内は店の看板とは違い、照明は薄暗く、とても落ち着く雰囲気だった。
娘を探す目的ではなかったらとてもいい感じの店内だと思っただろうけど、店内の客の容姿がよく見えないので、薄暗い店内が逆に不快に感じ、イラッとした。
わたしは店員に、高校生ぐらいの女の子はきていないか、と訪ねたが、いないようだった。店内の客は多いまではいかないが、ところどころ空いた席が目立つ。わたしは念のため、店内を見渡したが、恵子らしき人物はいなかった。
次は北口の喫茶店に向かった。今いる場所の真反対なので、少し嫌気がしたが、そんなことを思っている場合ではなかった。
十分ほど早足で歩くと、看板が見えてきた。こちらの看板は先ほどの喫茶店に比べて、明かりが弱い。
外のからの様子を確認することなく、わたしすぐに店内に入った。そして店員に先ほどと同じように訪ねた。
いた、恵子だ。わたしは安堵した。やはり一人でいるようだ。
恵子は白いパーカーを着ていた。わたしは何も言わず、背後に近づいた。恵子は入り口から背を向けた状態だったので、わたしの存在にまだ気づいていない。
「恵子ちゃん」
恵子はわたしを一瞥して、そしてかなり驚いた表情をして、こちらにからだごと向き直した。
「富美子さん? なんでここにいるの」
「なんでって、いつまで経っても帰ってこないから心配して、探し回ったのよ」
そういうと恵子は「もうそろそろ帰ろうかと思ったところだったのよ」
「だったら、遅くなるなら連絡のひとつもしてくれたっていいじゃない」
「忘れてただけよ」
恵子の態度を見て、いつものわたしなら、これ以上は何も言わずに終わるところだったが、今回に限ってはそういうことにはならなかった。
「いいかげんにしなさい!」わたしは怒鳴りつけた。しまった、と思い、彼女の顔を恐る恐る確認した。
彼女はわたしが怒鳴ったことに驚いたのか、目を大きく見開いていた。
「ご、ごめんないさい。大声だして。とにかく、もう遅いから家に帰りましょう。お父さんも心配してるから」そういってわたしは、伝票を持って、レジに向かった。
店から出ると恵子は黙ったままわたしの後ろを付いて歩いた。
しばらくお互いの沈黙が続いた。
息が詰まりそうだ。わたしはこの空気をなんとかしたかった。
「ねえ、いまから河川敷にいかない?」
「えっ、なんで今から? 意味わかんないんだけど」
「いいじゃない。ね、行きましょう」
そういって、わたしは恵子を手を引っ張った。意外なことに、恵子はそんなに嫌そうでもなかった。
「あ、ちょっとお父さんに電話するね。お父さんもすごく心配していたから」
しばらく歩くと、川が流れる音が聞こえきた。この河川敷は日中にランニングや散歩で利用している人が多い。
河川敷を降りると、野球場やサッカー場がある。河川敷にはところどころに街灯もあって意外と明るくベンチもあったりする。
そのおかげか、夜に散歩したり、ランニングしている人もちらほらと、見かけたりもする。
わたしはすぐ近くにあったベンチに座った。
「恵子ちゃんも、ほら座って」恵子はためらいを見せたが、黙ったまま座った。
「ここっていい場所でしょ。悩みが合ったときによくここに来てたわ。まぁ最近はあまり来なかったけど、昔はよく来てたの」恵子はなんの反応もせず、ただ黙って聞いていた。
わたしはふうっと息を吐いて、意を決して聞いてみた。
「ねぇ、恵子ちゃん。この前の学校のことなんだけどね」
その話を切り出した時、恵子が一瞬、ぴくりとした。
「なんで突き飛ばしたりしたの? その……突き飛ばした子をいじめてるって本当なの?」
わたしは恵子の顔をじっとみた。恵子は顔をうつむけたまま、だんまりとしたが、やがて顔を上げた。
「その通りよ」
「なんで、そんなことをしているの?」
「なんでって……気に入らないから」
「気に入らないからと言って、いじめていい理由になんかならないわ」
「うるさいなー、本当の母親でもないのに指図しないでよ!」
わたしはその言葉が胸に突き刺さり倒れそうになったが、ここで怯んではいけないと思った。
「たしかにそうね、わたしはあなたの本当の母親じゃないわ。血も繋がってないし、お腹を痛めて産んだ子じゃないわ」
「だったら、わたしにかまわないでよ」
「でもね、それでもわたしは今のあなたの母親なのよ。自分の子供が間違ったことをしていれば、叱るのは親の役目よ」
「こんな時だけ、母親面してすんな!」恵子は呼吸が荒くなり、肩を震わせた。
「どうしてその子のことが気に入らないの?」
「どうして……」本人にもうまく説明ができないようだ。
「人の顔色ばかり伺って、本当は言いたいことがあるはずなのに、言わないところ! あいつ、わたしと初めて交わした言葉がなんだったとだと思う?」
わたしには想像がつかなった。
「『ごめんなさい』たったその一言だけだった。その時は明らかにわたしが悪かったのに、あいつは誤った。しかも同級生に敬語で」
「でもそれがどうやっていじめにつながるの?」
「わからない。でもそれからだった。あいつを見ているうちにすごく苛々してきた」
「わからないって、葵ちゃ──」思わずいつもの呼び方で言いかけたところを堪えた。
「その子は自分がなんでいじめにあっているかわからなくて、苦しんでるのよ」
「なんでそんなことわかるんだよ」
つい口走ってしまった。葵ちゃんが実際に苦しんでいるのを知っていたせいか、迂闊なことしてしまったと、後悔の念に駆られた。
「相手方の親御さんから聞いたのよ」咄嗟に出たことばだった。
「ふーん、相手とはもうそんな話してるんだ。わたしのことより相手の方が大切なんだ」
「だれもそんなこと言ってないでしょ」
「あんたもいっしょなんだよ!」
わたしは恵子の言っていることばの意味が理解できなかった。
「いったいそれはどういうことなの?」
「いつもわたしの顔色を伺ってた」
わたしは思わず、あっ、と漏らしそうになった。
「わたしの顔色ばかり伺って、本音を言わないところがあいつにそっくり。それがわたしにとっては苦痛なことだった。それでなんか腹が立った。母親って娘の顔色を伺って、ご機嫌をとろうとするものなの?」
わたしは返すことばが見つからなかった。恵子の言う通りだった。嫌われたくないせいか、恵子の顔色ばかりみて、本音をいえず、薄っぺらい会話しかしていなかった。
「そうね……恵子ちゃんの言うとおりだわ。わたし、母親失格ね。それじゃあだめよね」
わたしはなんて愚かだったんだろう。自分が傷つくことを恐れたせいで、娘をこんなにも苦しめていたのだ。娘と葵ちゃんに申し訳ないことした。
「ごめんなさい」わたしは謝ることしかできなかった。
「べつに誤ってほしいわけじゃないんだけど」恵子は困惑したような顔をした。
「わたしも……ごめん」
「え?」
「だから、ごめんってば」
「なんで恵子ちゃんが謝るの?」
「それは……わたしもあんな態度とって悪かったってこと」
「恵子ちゃん……」
「あと学校のこと、迷惑かけてごめんなさい」
「謝る相手、違うでしょ……」
「うん……」
「宮本さんのところに行って、一緒に謝りましょう」
「うん……」
恵子の返事からは、かすかに啜り泣く声が混じっていた。




