20. 河内富美子(5)
「──え?」
「階段から落ちた女の子の名前です」
わたしは身の毛がよだつ思いだった。そんなことありえるのだろうか。なんだか急に空気が冷たくなった気がした。そしてわたしは唾を飲み込んだ。
「そんな、まさか──こんな偶然ありえないだろ」上條くんは声を荒げて椅子から立ち上がった。
「まぁまぁ、少年。少し落ちついて。確証を得るのにはまだ早いよ」
上條くんは院長の言葉を訊いて、落ち着きを取り戻したのか、黙ったまま椅子に座りなおした。
「わたしも一瞬、思ったんです。でもそれはないだろう。きっと同性同名だと自分に言い聞かせていました。でもまさか本当に──あの葵ちゃんなんでしょうか」
「それはどうでしょう。だったら本人に直接確認してみましょう」
そういって葵ちゃんが向かいにある通路から出て来た。わたしはぎょっとした。
「こんばんは、葵ちゃん」と院長がまず声をかけた。
「こんばんは」
「それでは、これで全員が揃ったということなので、お話を訊いてみることにしましょう。葵ちゃん、話せるかな?」
葵ちゃんはしばらく黙ったままだったが、やがて、こくりと頷いた。
「わたし、まだ河内さんにだけにまだ話をしてないことがあるんです」葵ちゃんの話の内容も気にはなったが、そんなことよりも、わたしは彼女に対して、娘が怪我をさせたという後ろめたさがあったのか、彼女の顔をまともに見ることができなかった。
「じつは……」そういって、葵ちゃんはまたしばらく黙り込んだ。
「じつはわたし、学校でいじめを受けているんです」
彼女のそのひとことで、わたしもう大体のことを察した。パズルのピースが綺麗に嵌るようだった。
「わたしをいじめているクラスメイトが三人います。その中のリーダーといってもいい女子生徒に突き飛ばされたんです。わたしはそれ以降の記憶がありません。頭を打ったせいだと病院の先生は言ってました。それで、そのわたしを突き飛ばした女子生徒の名前は……」と葵ちゃんは緊張しているのか、息が詰まってしまったようで、わたしも思わず、喉をごくりと鳴らした。
「──その女子生徒は『山辺恵子』といいます」
ああ──、やっぱりそうだ──、もしかしたら別人では、と淡い期待をしていたが、その願いは無残にも散った瞬間だった。
「わたしは夢島院長から河内さんの娘さんが山辺恵子さんと聞かされた時は、驚きました。でも……まだ自分の中で信じきれないことがあります。なぜなら、ひとつだけ気になることがあったからです」彼女が一度、呼吸を整えた。そしてまた話を続けた。
「それは苗字です」
「たしかに、苗字がちがうね」伊藤さんが顎ひげを触りながら口を挟んだ。
彼女は伊藤さんを一瞥して、話を続ける。
「わたしはこの疑問が解決するまで、完全に信じることができませんでした」
「ですので、河内さんに直接聞きたったんです」彼女がわたしを見ると、つい下を向いてしまった。まさかうちの娘が葵ちゃんをいじめていたなんて。
なんてお詫びをしたよいのか。苗字なんかより、そのことで頭がいっぱいで張り裂けそうだった。
「河内はわたしの旧姓なの……」
「旧姓? ということは河内さんの本当の苗字は山辺ということで合ってますか?」院長がわたしに確認した。
「ええ、そうよ」
「なんでそんな嘘を…」彼女はわたしの答えを聞いて、困惑した様子だった。無理もない、彼女をいじめているクラスメイトの女子の母親が目の前にいるのだから──しかも首謀者ときてる。
「ごめんなさい、悪気はなかったの。ただ初めてここに来た時、まだ信用できる雰囲気ではなかったから、本名を名乗りたくないと思って、咄嗟に出た嘘だったの。それに、本当のこというのタイミングもなくて──」
「あちゃー、これは僕のせいかな。あはは」
「院長が胡散臭いから、結果として河内さんを不安にさせたんです」小鳥遊さんがいつものように院長を蔑んだ。
「夕実ちゃんきっつー」
「そうなんですか…やっぱり河内さんの娘さんが山辺恵子さんなんですね」彼女は複雑そうな顔した。そして少し悲しそうだった。
「ごめんなさい!」
わたしは席から立って、葵ちゃんに頭を下げた。
「そんな、顔を上げてください。河内さんは何も悪くはないです」
「いえ、そんなことはないわ。娘のしたことは許されることではないわ。それに葵ちゃんに怪我までさせてしまった。全ては親のわたしの責任です」わたしは再び頭を下げた。
「わたし──いじめられる側にも何かしらの原因があると思ったんです。自分なりにいじめに関する本と読んだこともありました。でも思い当たらなかったんです。何が原因なのか──。それで、わたしは勇気をだして山辺さんに訊いてみました。そしたら彼女は、『気に入らないから』ただそう言っただけでした。わたしはもうわけがわかりませんでした。それで口論になったんです。そしてきづいたら病院にベッドにいました」
わたしは彼女の話を黙って訊いているしかなかった。まさかそんな理不尽な理由で、娘が葵ちゃんをいじめているのを知るとますます申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「河内さん」院長が突如、わたしに向かって話をはじめた。
「いじめの原因はいじめる側の人間にも、何かしらの問題を抱えていることが多いんです」
娘にどんな問題があるのか想像ができなかった。
「もっとも多い原因は──お子さんの家庭環境です」
「家庭環境……ですか」
「河内さん、娘さんは家ではどのようなご様子で過ごされていますか?」
「どのようにって、ごく普通だと思いますよ」
「なるほど。では質問の仕方を変えましょう。娘さんとうまくいっていますか?」
「それは一体どういうことでしょうか」
「そのままの意味です。娘さんとの生活はうまくいっていますか?」わたしは少し渋ったが、院長がわたしの家庭環境のことを聞いてくるということは、それが葵ちゃんと関係があることなのだと思い、本当のことを話そうと決意した。
「そうね、正直言ってうまくはいってないわ」
「それは、どういった風にですか?」
「まず、会話がほとんどないわ。実をいうと、娘はわたしの実の子ではないの。結婚した夫の連れ子なの。わたしは初婚なんだけど、夫は再婚なの」わたしはふうっと息を吐いた。
「今から半年前に結婚したの。当時の恵子はまだ中学三年生だった。年頃の女の子だから、なのかはわからないけど、わたしたちの結婚に賛成でも反対でもなかったわ。わたしたちは恵子の反応が気になったけど反対されたわけじゃなかったし、恵子はそのうちに打ち解けてくれるだろう、と思うことにして、結婚することにしたの。でも現実はそんなに甘くなかったわ。今でもまったく心を開いてくれないの」
「その年頃の娘さんは気難しいのかもしれませんね」伊藤さんはわたしを慰めるように話した。
「でもそれが、いじめの原因と関係あるようには思えないね」上條くんも続ける。
「いや、そんなことはないよ。まず河内さんは娘さんのことを全然わかってないじゃないんですか?」
「わかろうとしたわ。でも恵子はわたしと向き合おうともせずに、すぐに部屋にこもるし、わたしなりに努力したつもりよ」
「恵子さんに直接わけをきいてみたんですか?」
「それは……」
言われてみればたしかにそうだった。わたしはできる限りのことをして来たつもりだったが、あと一歩の踏み込むことができずにいたのことは自分でもわかっていたはずだった。
「まずは娘さんが何を考えてるか、どんな想いをしているのかを知る必要がありますね。それからじゃないと、葵ちゃんをいじめる理由もわからないと思いますよ」
その通りかもしれない。もはや娘の問題はわたしたち家族だけの問題ではないのだ。娘が原因で葵ちゃんが苦しんでいる。
そしてわたしは娘のことを理解しようとしていなかった。
わたしは今まで何をしてきたのだろうと自分の不甲斐なさに苛立ちを感じた。




