18. 宮本葵(8)
ここがどこだか分からなかった。現実、それとも夢の中なのだろうか。
わたしはベッドから起き上がろうとしたが、頭から痛みを感じ、起き上がることができなかった。
「よぉ、目が覚めたか」
わたしは目を丸くした。すぐそばに上條くんがいた。
「あれ、上條くん。なんでここにいるの? じゃあここは夢の中だ、あれ、でも、現実でも上條くんをみたから──」わたしはかなり混乱していた。
「落ち着いて、ここは現実だよ」
「あ、そうなんだ──。じゃあここはどこなの? それに頭が痛い」
「ここは病院だよ。それに、覚えてないのかい?」
「学校の階段の踊り場にいたところまでは覚えてるんだけど、それからのことはぜんぜん……」山辺恵子と言い争いをしていたところまでは覚えているが、そのあとのことはまったく記憶になかった。
「君は階段から転げ落ちて、頭を打って気を失ったんだよ」
「そう……なんだ……。わたしったらドジね」
「君は──」上條くんは一瞬、顔をしかめたが、話を続けた。「君はクラスメイトの女子に階段から突き飛ばされたらしい。医者と学校の先生がそう話しているところをたまたま聞いちゃってね」
「そうだったんだ──でもよく覚えていないわ」
「頭を強く打ったせいで、その時の記憶が飛んでいるらしい。医者がそう言ってた」
「そう……ところで、上條くんはどうしてここにいるの」
「それは……」上條くんは一瞬、困惑した様子を見せた。「た、たまたまみたんだよ。きみが救急車に乗るところを」
「そうなんだ、じゃあ心配して来てくれたってこと?」
「まぁ、そういうことになるかな」と少し照れくさそうな顔をした。
「じゃあ、上條くんは今日学校に来てたのね。学校中探し回ってもいなかったのに、いつ来たの?」
「んー、お昼ぐらいだったかな」
「何それ、社長出勤じゃん」とわたしはくすくす笑った。笑うだけで頭がズキズキしたが、久しぶりに笑った気がして、痛みがさほど気にならなかった。
「なんだよ、悪いかよ」上條君は少しムッとした。
「ごめんごめん」
「それはそうと、なんで君は突き飛ばされたの? 喧嘩でもしてたの?」
「喧嘩──そう言われると、そうかもしれない」
「なんだよ、意味深なこと言って」
「ごめんなさい、そんなつもりはないの」
「じゃあなんなんだよ」
「わたしね……」そういって一呼吸してからわたしが口を開こうとした時だ、コンコン、とドアをノックする音が聞こえた。
はい、と答えるとドアがひとりでに開く。白衣を着た男性が入ってきた。わたしはすぐに医者だと思ったが、夢の中で見るあの医者とは全然違い、いかにも医者という雰囲気を漂わせ、頭が良さそうなキリッとした目つきをしていた。
「目が覚めたようですね」医師は表情を変えず、機械じみた顔をしていた。
「頭を強く打ったせいで、気を失ったようです。幸い、頭の怪我の方は軽いものでした。念のため、精密検査してみましたが、とくに問題はありませんでした」
「そうですか」
「念のため大事をとって、一日、入院していただきます。それで問題がなければ、明日には退院できますので」
「わかりました。ありがとうございます」
「ご両親には、担任の先生がご連絡したそうですので、もうすぐしたら、お母さんが着てくれるようです」
「はい、いろいろとご迷惑をおかけします」医者の切れ目の端が少し落ちてにこっとした。
「それじゃあ、わたしはこれで。お母さんが来られる頃に、また伺いますので」
「はい、ありがとうございました」医者は忙しいそうに部屋を後にした。
「よかったな、大したことなくて」
「うん」
「それにしても奇跡だよな」
「えっ、なにが?」
「あ、いやこうして宮本さんが目の前にいるってこと」
「あ、たしかにそうだね」
たしかに奇跡としか言いようがなかった。上條空斗くんがわたしの目の前にいる。ここはまぎれもなく現実の世界なのに──
がらっ!、今度は突然ドアが勢いよく開いた。そしてそのドアと同じように勢いよく病室に入ってきたのは母だった。
「葵!」母はそう言ってわたしに向かって駆け込んで来た。
「大丈夫なの? 学校から連絡があって、階段から落ちたって訊いたわ。わたしもう心臓が止まるかと思ったわ」
「ごめんね、心配かけて。仕事だったんじゃないの?」
「そんなの途中で抜けてきたわ。娘の方が大切でしょ」
母のわたしを心配する顔を見ていると、自然と涙が出てきた。
「ちょっとどうしたの? どっか痛むの?」
「ちがうの、なんでもないから…心配しないで」
「なんでもないって…本当に大丈夫なの?」と母はさらに心配した。
「うん。大丈夫だって。頭の怪我も大したことないみたいだからに──あ、そうだ。紹介するね。こちら同じ高校の上條空斗くん」
「はじめまして、上條と言います」
母は驚きの表情をして、上條くんをまじまじと見た。
「あら、ごめんなさい。娘のことで頭いっぱいだったから気がつかなくて──もしかして、葵のボーイフレンド?」
「なに言ってのお母さん! そんなんじゃないから」
「はいはい、お父さんには黙っておいてあげるから」
「もう、だから違うってば!」わたしは夢の中で見せていた、上條くんの苛っとしている姿が目に浮かんだので、これ以上彼を刺激しないで、とう思いがあったが、母にもちろんそれが届くわけもない。
「ごめんね、上條くん。こんな冗談いう母だけど、怒らないであげて」わたしは彼の顔色を伺ってみたが、意外にも、この場をどうしたらいいのか、困惑している様子だった。
「いや、だいじょうぶだよ」
「あ、そうだ」母は何かを思い出したようで、両手をぽん、と叩いた。「わたし、先生のところに行って、葵の容態の事、もう少し詳しく聞いてくるね」
「うん、わかった。あ、でも先生、もう少ししたらもう一回ここに来るって言ってたよ」
「あら、そうなの? でももし先生がここに来られた時に、わたしがいない場合もあるから、今のうちに行ってくるわ。それに、お二人の邪魔したら悪いから、ね」
「だから、そうじゃないってば」
「上條くんも、ゆっくりしていってね」
「はい、ありがとうございます」わたしは礼儀正しい上條くんを見ていると、なんだか不思議な気持ちになった。夢ではいつも機嫌が悪く、ぶすっとした態度をしていた彼からは想像ができないくらい、誠実さを感じたからだ。
母はわたしと上條くんのことを気をつかったのか、それとも単に面白がっているか、どっちが真意なのかは分からなかったが、何かと理由をつけて病室を出た。
「もう、お母さんったら」
「面白い、お母さんだね」上條くんはくすっと笑った。
「ごめんね、いつもあんな感じなの」
「いや、なんか羨ましいな」
「そうかな」
「とりあえず、今日は大人しく入院だな」
わたしは、うん、とだけ、頷いたあとさっき言いかけたことをもう一度、話そうと思った。
「あのね…さっきの話の続きなんだけど……」わたしは静かに鼻から息を吸って、吐いて、呼吸を整えた。
「わたし──いじめられてるんだ」
彼はわたしの言葉を訊いて、動揺することもなく、そこはかとなく落ちついた様子をみせ、ひとことだけ返事をした。
「うん。知ってた」




