11. 伊藤達也(1)
「ねえ、日取りどうする?」
この言葉は何度聞いたのだろう。
「そろそろ、決めないとなー」
結婚式というのはいろいろと面倒なことが多い。式場の予約、ドレス選び、招待する友人やお世話になった方々を決めたりしないといけない。やることが多すぎて、頭が痛くなる。
僕には交際して五年が経つ彼女がいる。雪村加奈子<ゆきむら かなこ>という。彼女は僕より年が、五つ歳が下だ。僕は画家としてはあまり売れてはいないが、絵画教室などもやっていて、収入は自慢できるような程ではないが、それなりの生活はできている。何より彼女は大手企業に勤めているので、かなり生活面では助けられている。僕はそんな彼女と結婚することにしたのだ。
五つも年が離れているとはいえ、彼女も今年でもう三十歳になる。
婚約指輪は給料の三ヶ月分という風習は随分と前の時代のことだ。今の僕では一ヶ月分がやっとだった。ダイヤモンドも大きくはないが、それでも彼女は涙を浮かべ、僕のプロポーズを受けてくれた。
「ほんとにいいの?」
「なにが?」と僕は彼女が言いたいことを分かってはいたが、敢えてわからないような振りをした。
「あなたのお父さんのことよ」彼女は、何度も言っていたよね、というような言い方をした。
「あー」やはりそのことであった。「いいんだよ、親父のことは」
「いいわけなんてないじゃない、あなたのお父さんでしょ」
父とは母が亡くなった時の葬式から、一度も会っていない。それも五年程前の話だ。母が亡くなった時に父と会ったのは実に十年振りぐらいだった。それは高校を卒業して以來になる。
父と会わなくなったのは、僕が父の仕事を継がず、画家を目指したのが原因だ。父の反対を押し切り、家を出ので、会わせる顔がなかった。
「わたしはあなたのお父さんには、絶対に結婚式に出席してもらいたい」
「知らせてもきっと来ないよ」
「そんなの話してみないと分からないじゃない」
この話をする度に、僕は不機嫌になってしまう。
「ちょっと画材屋に出かけてくるよ。絵の具を切らしていてね」
これ以上話をしていたら、喧嘩になりそうなので、僕はいつも何かと理由をつけては、逃げるように外に出ていた。
「もう! いつもそうやって話から逃げる」彼女は呆れた様子だった。
玄関を出てすぐに、ふう、と僕は一息ついた。
僕は正直いうと、結婚式を挙げたくはなかった。それは父のことがあったから。
相手のことを思うと、父だけを呼ばないわけにはいかない。そんなことは分かってる。でも今更どんな顔をして父に会ったらいいのか、分からなかった。結婚するという報告すらまだしていない。もちろん加奈子も、僕の父には会ったことがない。彼女は僕と父が仲直りをしてほしいと願っている。結婚という絶好の機会があるにもかかわらず、どうしてもその一歩を踏み出せないのだ。
僕は画材屋には行かず、いつもの散歩コースを歩いていた。絵を描いている時、息詰まるといつも家の近くの河川敷を散歩する。
河川敷に座り、今度はため息をついた。父のことを考えていた。今更会ったら、父は僕のことをどう思うだろうか。頑固な父のことだ、どの面さげて帰ってきた、と怒鳴り散らすかもしれない。
もしかすると、長い間、帰らなかったから父もこれまでのことをすっかりと忘れていて、おう、とだけ言うか
もしれない。そんな淡い期待をしてみたが、それはありえないな、と苦笑し、またため息をついた。
「わん!」
背後から犬が吠える声がした。僕は後ろを振り返ってみた。それは以前に見た、柴犬のようだった。ピンク色の首輪をしていことを覚えていた。
「お、またお前か。今度も一人でお出かけか?」と僕は犬に話しかけた。
周りを見渡してみたが、やはり今回も一人のようだ。
「まったく、お前のご主人様は。一体、何をしているんだろうな」
犬に話したところで、どうしようもないのは分かっていたが、僕は少し皮肉を込めて言った。
「わん、わん」と犬は何か欲しがるような動きをした。
「ごめんな、今はお前が食べれるようなものは何もないんだよ」
「くーん」犬は悲しげな様子だった。
「おし、じゃあ僕と遊ぶか?」
「わん!」犬は元気よく吠えた。
「よし、そうかそうか」
そばに犬が咥えやすそうなものを探した。
「お、あったあった」ちょうどよさそうな木の枝を見つけた。
「よーし、じゃあいくぞ。ほれ」僕はいきよいよく、木の枝を投げた。
すごい勢いで走っていった。少し待っていると、犬は僕が投げた木の枝を咥えて戻ってきた。
「すごい、すごい」僕は犬の頭の良さに驚いた。
犬から木の枝を取ると、また遠くに投げた。
「わん、わん」犬はまた走った。
「お前は偉いな」と感心した。そして、しばらく犬と遊んでた。
「じゃあそろそろ終わりしようか」
犬はまだ遊び足りないようだったが、僕はそろそろ帰りたかった。今度の展示会用の絵がまだ途中なので、帰って描きたかったのだ。
「じゃあな、わん公。また今度遊ぼうな」
僕は悲しそうにしている犬に手を振った。
「ただいま」
家に帰ると加奈子は晩御飯の支度をしていた。
「あら、絵の具を買いにいったんじゃないの」と彼女は皮肉を込めた言い方をした。
「ほしい絵の具がなかったんだ」
「あら、そうなの」加奈子は興味がなさそうな返事をした。
僕はアトリエ兼自室へ戻り、キャンパスの前に置いてある椅子に座った。そして、まだ完成していない絵を見つめながら、いつものように考えた。
何かが足りない。そして今日も筆が進まなかった。




