7年前
嶺二が死んだ。雨の日の夜に交差点で、車にはねられてあっけなく死んだ。夜遅かったこともあり、救急車が呼ばれることもなく、1人でひっそりと息を引き取ったらしい。次の日の朝に嶺二の家族から連絡が来た。葬儀は明後日。私と嶺二の関係は簡単に言えば恋人というものだった。付き合って5年、長い付き合いだった。連絡が来てからもう十数時間も経ったけど、私の気持ちはただひたすら、実感がわかないだけだった。5年も付き合って、泣き崩れるわけでもなく、電話口でただ淡々と、そうですか、と答えた私を嶺二の母はどう思っただろうか。
悲しくないわけじゃない。だけど、それだけの情報に頭が追いついてない。人の死、ましてや自分の身近な人の死というものは生まれてから初めてかもしれない。何も初めてが嶺二じゃなくても良いのに、そういう怒りは少しだけある。
ーーー7年前
「高橋さん、」
2階と3階をつなぐ階段を掃除していると初めて見る男の子に話しかけられた。
学校で人に話しかけられるのは今日はこれが初めてかもしれない。
「隣のクラスで虐められてる、高橋さんだよね?」
いきなりの不躾な質問に否定をするのは難しかった。虐めを受けているのは事実だ。高校2年の夏休み明け、教室に入ると世界はガラリと変わっていた。クラスの子たちはまるで私がいないかのように日々を過ごしていた。初めこそ戸惑って、かつて友達だった子達に話しかけてみたりしたが、
三日もすればそういう行為は全て無駄だと気付いた。今は私も私自身が空気であるように生活している。虐められてると言っても、ものを隠されたり、直接的な攻撃は一切受けない。せいぜい無視されるか、トイレで悪口を言われるかそれだけだ。何か実害があるなら私も行動のしようがあるが、これだけ地味だと何をすることもできない。ただ、毎日心臓の奥の方はキリキリと痛む。
「…普通そういうこと面と向かって言う?」
「それしか持ってる情報がないから。んー、そうだな、例えば高橋さんの家が肉屋だったとすれば、肉屋の高橋さんって呼んだかもしれないけど。」
「ていうか、あなた誰なの。なんか用?」
「いや、用はないけど。なんか泣きそうな顔して箒はいてるからさ。」
「だから何。」
「ほっとけなくて。」
「そういうの要らないから。」
「泣きそうなのは否定しないんだ」
その瞬間、プツリと何かがキレたような気がした。悔しい、悔しい、悔しい。どうして初対面の人にこんなに惨めな気持ちにさせられなきゃいけないの。私が何かした?虐めのターゲットにされたあげく他のクラスの男子にもからかわれるなんて冗談じゃない。少し乱暴に箒と塵取りを掃除用具入れに投げ込んで、その男子をひと睨みしてから帰った。
家に帰ってすぐ、制服から私服に着替えて、駅の近くの銀行でお金をおろしてそのまま美容院に行った。この時は怒りという感情だけが原動力だった。
次の日、学校へ行くとすぐに生徒指導室に呼ばれた。ひとしきり怒られたあとに、周りの生徒たちからの注目を受けながら、教室までの道を歩くとあの人は少し驚いた顔をしていた。やってやった。心の中で呟いた。
「金髪ってどういう心情?イメチェン?」
「あんたが言ったんでしょ。虐められてる他にこれといって特徴のない高橋さんって。」
「そういう意味で言ったんじゃないよ。」
「私はそう捉えたのよ。」
「だから昨日怒って帰っちゃったんだ。」
「…ねえ、あんたなんなの?私のことかわいそうだと思って話しかけてるならもうやめてくれない?迷惑。」
「あ、俺、隣のクラスの水原嶺二。 昨日は怒らせちゃったみたいでごめんね。」
「別に。この髪にしたら、他の子から無視されるのはコレのせいだって割り切れるようになったから、逆にありがとう。」
「え、てことは俺が昨日怒らせたから髪染めたの!?案外行動派だね」
「うるさい」
この男が言ってることはある意味正しかった。私はハタから見たら、虐めを受けている女子生徒という、それだけの人間だった。もちろん金髪にしたからといって私自身がガラリと変わったということはない。でも、どこか今の状況に吹っ切れた。この行動に後悔してないことが少し嬉しかった。
それからというものの、以前に増して私は同級生達に避けられてるというのに、嶺二はやたら私を構うようになった。
「高橋さんこれから体育?」
「高橋さん国語の教科書貸して!」
「高橋さん帰りマック寄って帰ろうよ。」
最初こそフルシカトを決め込んでいた私だけど、2週間後には彼を受け入れていた。彼は人と距離を詰めるのがやたらに上手かった。そうでなければ、私自身がなんだかんだ言って人との関わりを捨てきれなかったのかもしれない。
1ヶ月もすれば2人での下校は当たり前のことになっていた。
「高橋さんは進路調査書になんて書いた?」
「大学進学だけど。」
「いやうちの高校の人で大学進学しない人の方が少ないでしょ。そうじゃなくて、どこの大学にするかって聞いてるの!」
「決めてない。」
「えー!嘘でしょ!!」
「高校卒業までまだ2年もあるじゃん。」
「2年しかないよー!!!」
私にとって残り2年は想像するだけで苦痛だし、もう卒業の日なんて一生来ないんじゃないかってくらい遠く感じるのに、この男は”2年しか”と言った。つくづく私とはものの感じ方が違うと思った。
「日が落ちるの早くなったなぁ」
「もう秋も終わるから。」
「年越しまであと1ヶ月かー。地球回るの早すぎ。」
「そうだね。」
いつしか私は嶺二の言葉に頷くことが増えていた。今日は少し雨の匂いがするね、とか、現国の真野先生の筆圧の濃さとか。内容はどんなことであれ、彼の発する言葉にはそうだね、と返していることが多くなった。2年が長く感じる私、短いと嘆く彼、私たちはまるで真逆の人間だったはずなのに。
嶺二は私に構うようになってから、所属していたバスケ部にほとんど顔を出さなくなった。最初こそ鬱陶しく思ったし、自分のやるべき事をせずに私の横にいるのってどうなの?と思っていた。帰る際の、部活行きなよという台詞はもはや決まり文句だったけど、冬休みに入る前にはそれが本心ではない事に気づいた。事件が起きたのは丁度その頃だった。
「先週、1年生のフロアで数人の財布が盗まれていました。前にも言ったように、財布、携帯等の貴重品は自己責任で管理しなさい。各々自分のロッカーがあるんだから使用時以外はそこにしまうなり、肌身離さずに持つなりすること。」
担任教師である小池先生が淡々と話す。私立であるためなのか、それとも面倒ごとは勘弁という方針からなのか、うちの学校は盗難に関しては自己責任、そこは揺らがなかった。事実、年に数回こういう事は起こる。盗まれた生徒は納得がいかず学校側を叩いたりしているみたいだが、私はそれでいいと思ってる。自分の身は自分で守る。自分の事は自分で完結する。社会に出たらいずれ学ばなくてはならない事だ。今回も何て事はない、所詮他人の不幸だと気にせずにいた。
授業の前、トイレで私の悪口が聞こえた。金髪にしてからしばらくは何もなかったけど、実害がない事に気付いたのか最近また陰で後ろ指を指されている気がする。
「なんでうちの学校は犯人見つけないわけ?泣き寝入りとかあり得ないんですけど。」
「美春いくら取られたの?」
「2万抜かれてたわ」
「えー!やばい金額じゃん。それは辛い。」
「だからまじ親に頼んで学校に連絡入れてもらおうか悩んでる。」
「そうしなよ!もしかしたら学校が2万返してくれるかもしれないし」
なんで浅はかな、というか馬鹿な会話をしてるんだろう。なんとなく出にくくて個室に篭ってしまっているから、結果として今の状況は2人の会話を盗み聞きしてる事になっている。立花美春、それから金澤志保。どちらもチアダンス部に入っている。いわゆる一軍ってやつだった。もともと入学した時にこの2人に気に入られて、私もその中にいたはずだけど、誰から始めたかわからないシカトによってそのポジションは消された。
だいたい、学校が自己責任で管理しろと言っているのは今に始まった事ではないし、学校に2万も持ってくる方がおかしい。自己申告で2万盗まれましたと言って学校側がその被害額を負担するなんて客観的に考えてありえない。
「てかぶっちゃけた話、うちのクラスにいると思うんだよね、犯人。」
他人の不幸を覗き見している気分だったが、志保のその一言で状況はガラリと変わった。
「他の2クラスが被害にあった時って、うちのクラスだけ美術の時間で校内歩き回ってたじゃん。まぁ他の学年の可能性もあるけど、うちの学年に犯人いたら、間違いなくうちのクラスじゃん?」
「え、やばい志保なんか探偵みたいじゃん。」
「林田とか、根暗だしあり得るよね」
「ひでぇー!いきなりの雑さ笑うわ。」
「それか、山崎?なんか金ないって喚いてたし〜」
「あー確かに、なんか課金しまくったんでしょ?馬鹿だよね」
「あとはー…タカハシさんね。」
「あー…」
出た。絶対出ると思った。進学校と呼ばれる学校に金髪で通ってるんだ、多少頭のおかしい人間だと思われても仕方ない。当初から疑われる対象になり得ることは覚悟していた。ただ、私の場合は林田さんや山崎くんのような疑われ方ではなく、要するに悪意から疑われている。
気に入らないから、ターゲットに組み込む、そんな感じ。だいたい、入学して間もない頃はタカハシさんなんて呼び方してなかったのに。2人がトイレから出たのを見計らって個室から出た。
20歩も歩けば教室に着く。教室の扉を開けたらすぐにわかった。あ、疑われてる。入る瞬間の周りの視線、聞こえるか聞こえないかギリギリの話し声、うっすらニヤニヤしている表情、それだけで十分にわかる。本当は誰がお金を盗んだとか関係なく、このクラスでは犯人は私という事に決まったのだと。私が教室にいなかったほんの数十秒でもう意見がまとまっている。文化祭の話し合いでもこんなに早くまとまったことはないのに。
「なに?」
丁度目があったクラスの子に問いかけたけど相手は気まずそうに目をそらすだけだった。沈黙が続く。それでもみんなの視線の先は私、もしくは私を直接見るにはそれなりの度胸がいるのか数人は私の机をぼけーっと見ていた。この沈黙はいつまで続くんだろう。まるでダルマさんが転んだみたいだ。鬼がじっと見ている間は誰も動かない。私がこのまま動かなければ、一生このクラスの時間は止まってくれるのかもしれない。心の中では私の事を責めていても、それが言葉として出されない限り私は傷つくこともないだろう。いっそこのまま、ずっと、教室の時を止めてやろうか。私の思いとは裏腹に、すぐに状況は変わった。あの男がやってきたのだ。
「高橋さーん!メロンパン欲しくない?朝買いすぎちゃって……え、なんかあった?」
「水原じゃーん!どうした?うちのクラスになんか用でもあった?」
私の代わりとでも言うように、彼に話しかけたのはバスケ部のマネージャーであり、うちのクラスの一軍に所属している矢野さんだった。
「あー…いや、てかこの教室なんか空気悪くない?どしたの?」
「それがさー、聞いてよ。例のドロボーがうちのクラスにも来たみたいで」
「そんでピリピリしてたわけ?」
「まぁね、ほら、美春なんて2万も取られたんだって!超可哀想!」
「立花さん、だっけ?めっちゃ大金じゃん」
「だよね〜、本当犯人最悪!」
最悪なのはこの状況だ。そう叫んでやりたかった。わざわざご丁寧に友達の被害額まで教えちゃって。水原嶺二という男が馬鹿じゃない事くらいこの数ヶ月でよくわかってた。いや馬鹿なところもたくさんあったけど、それ以上によく考えてよく頭が回る人間だった。きっと今のこのクラスでどんな疑惑が埋めいているかもあらかた把握したはずだ。何しろクラスの殆どの視線が私に向いている。
私としても残念だった。矢野さんの親しげな態度を見れば、きっとある程度あの2人の間には信頼関係が成り立っている。今だから認めるけど、彼が隣にいる時間は鬱陶しさもあったものの、私だって楽しんでいた。いつか私に飽きて離れることは想定していても、こんな形で嫌われるなんて流石に考えてなかった。
「うーん…でも、もともと自己管理前提だから結局は自己責任じゃね?」
思わぬ発言に何人かは顔を上げた。
「入学してすぐだって、先生から忠告は受けてたじゃん。盗難事件は少なくないから、ロッカー使うなりしなさいって。しかも2万なんて学校に持ってくる額じゃないし、そんな額を入れた鞄を放置してたらそりゃ狙われてたっておかしくないでしょ。」
「え、水原は犯人の味方してんの?嘘でしょ?」
「いやそうは言わないけど、確かに気の毒だけどさー…。うん、でも明らかに盗まれた側にも隙があったのに教室で率先して犯人探しするってなんか……」
「いかにも頭が悪そうだよね。」
クラスメイトの唖然とした顔は少しだけ面白かった。目から鱗というか、そんな風に否定されるとは思わなかったのかもしれない。当の本人は何食わぬ顔で授業5分前の予鈴を聞いて教室へ帰っていった。私の事を庇ってくれたのか、そんな事は私の自惚れでただただ自分の意見を突き通したのか、真意はわからないけどそんな事はどうでもよくなった。私達の教室を去る時に、彼は私にこう言った。
「葵、愚痴なら帰りにミスドで聞いてあげる。」