後編
目を覚ますのが怖かった。
朝、瞼を開いたら、真っ暗な世界に放り出されていそうで。何も見えなくなっていそうで。
不安で不安でたまらなかった。
だから、夜眠るのが怖くなった。瞼を閉じるのが怖くなった。
朝起きて、左目に光が射し込むと安心した。今日も見えたと安心した。
でも、明日は? 明後日は?
いつかその時はやって来る。
海が見たい。
幼い頃からずっと、海に憧れていた。
山に囲まれて育った自分には、未知の世界。紙を介してのみの情報だけれど、誰もがその素晴らしさと偉大さを謳っていた。
海は青いらしい。空とはまた違う青さらしい。
海は広いらしい。果てしなく広がっているらしい。
檻の中の自分には、もうそんなチャンスなど巡ってこないと思っていた。そう、諦めていたのに。
そのチャンスを、彼が与えてくれた。他の誰でもない彼が。
海が、見たい——
◆ ◆ ◆
目的地を定め、そこへ向かい始めてから、およそ二週間が経過した。
大晦を迎え、年を跨ぎ、よりいっそう厳しさを増した寒さの中。大陸最東端の港町へは、着実に距離を縮めている。おおむね順調だ。このペースでいけば、今後一週間以内には到着できるだろう。
これに伴い、ホークとメリアの距離も縮まってきた。とりわけ顕著だったのは、ホークの心境の変化だ。
他者との間に壁を作り、必要以上に関わりを持たなかった……興味すら抱かなかった彼が、みずから手を差し伸べた。それどころか、行動をともにし、捨てていたはずの〝過去〟までも拾い上げた。
すべては、彼女の強さ——その真っ直ぐな〝生きる〟姿に、言葉では表し切れないほどの感銘を受けたからであった。
彼女と過ごす時間は、あと少し。港町に到着し、大陸に渡れば、彼は御役御免となる。
彼女の行く途に、光あらんことを——そう、願わずにいられなかった。
だが。
現実は、あまりに無情で、
残酷だ。
◆
「……それは?」
「雪うさぎです!」
眉尻を下げて問いかけるホークに、眉尻を上げたメリアが答える。口角をつり上げ、どこか勝ち誇ったような表情だ。俗に言うドヤ顔。
ホークの視線の先には、手のひらサイズの真白い雪うさぎがあった。宿の玄関へと続く階段。その手すりの上に、ちょーんと鎮座している。
耳は緑の葉っぱ。目は赤い木の実。どちらも柊のものだった。白銀の体は、太陽の光を浴びてきらきらと輝いている。
なんとも愛らしく、幻想的な雪うさぎだ。
「さっき許可を取っていたのはコレだったのか」
そう言って左手の人差し指を伸ばすと、ホークは耳の部分をつんつんと突いた。短時間でよくここまで作れたものだと、彼女の器用さに感心する。
直前まで、ホークはここの女主人と話をしていた。とある交渉をしてもらうために。
その最中、二人のもとへメリアが近づいてきたのだが、彼女が話しかけたのは、ホークではなく主人のほうだった。
——前に植わっている柊の葉っぱと実、少しいただいてもいいですか?
おずおずと遠慮がちにこう尋ねたメリアに、主人は二つ返事で快諾してくれた。
それから今まで、一人でせっせとこれを作っていたらしい。この寒い中、黙々と。
「お話は終わりましたか?」
「ああ。今ここに来ている荷馬車屋に、次の町まで乗せて行ってもらえることになった」
宿の庭には、一台の荷馬車。荷物を下ろし終えたら、次は東へと進むのだそう。
ホークは今しがた、カーターに対して自分たちを運んでくれるよう、女主人に交渉してもらっていたのである。
「そうなのですね。……この雪うさぎは、やっぱり壊したほうがいいのでしょうか?」
思い付きで作り始めたゆえ、最初は終わったらすぐに壊すつもりでいた。けれど、いざ出来上がってみれば、想像以上に愛着が湧いてしまったようだ。
愛おしそうに、雪うさぎの頭を撫でるメリア。……と、何かに気づいたホークが、おもむろに口を開いた。
「……このままでいいと思うぞ」
「え……?」
ホークの言葉にメリアは顔を上げた。が、彼と視線が合わない。
彼の視線は、宿の中へと向けられていた。同じように、メリアもそちらへと視線を動かす。
すると、玄関扉の硝子越しに、女主人が見えた。笑みを浮かべた彼女は、身振り手振りで、メリアにこう語りかけてくれていた。『とっても可愛いから、そのまま置いといて!』と。
メリアは、満面に喜色を湛えると、勢いよくお辞儀した。
壊さなくていいということに安心した。だが、それ以上に嬉しかった。自分が作ったものを褒めてもらえたことが。形として残しておけるということが。
些末なことではあるけれど。
彼女にとっては、たまらなく嬉しかったのだ。
ちょうどそこに、用を済ませたカーターがやってきた。二人に出発してもいいかどうか伺いを立てる。
彼に頷き、振り向いて、再度女主人に頭を下げる。これに対し、彼女は高く手を振ってくれた。
気をつけてね——そう、大きく口を動かしながら。
胸に染み渡る優しさを噛み締め、二人は馬車の荷台へ。
幌で覆われたそこには、たくさんの荷物が積み込まれていたが、二人分のスペースがちゃんと確保されていた。
「先に乗れ。下から支える」
巨大な車輪が四つ付された立派な荷台。地面からの高さはかなりのものだ。乗り降りのためのステップが備わっているとはいえ、小柄なメリアが一人で乗り込むには少々難儀だった。
「あっ、ありがとうございます」
ホークの指示どおり、メリアは彼よりも先に荷台へと向かった。自身の身長とさほど変わらない高さ。その下へ、ゆっくりと近づく。
そして、ステップに足を掛けた、
次の瞬間——
「きゃっ……!!」
「危ないっ!!」
メリアは、ホークの腕の中へと落ち込んだ。
「大丈夫か!?」
「あっ、だ、大丈夫です! すみません……」
彼女はステップに足を掛けた……つもりになっていただけだった。彼女が足を掛けようとしたところに、それは存在しなかったのである。
確かに見えていたはずなのに。そう思い、気を取り直して、彼女はもう一度ステップへと目を遣った。
しかし。
「……っ!?」
目に飛び込んできた場景に、彼女は絶句した。
彼女の視界は霞んでいた。雪とは違う〝白〟が、彼女の左目を覆っていたのだ。
心臓が破裂しそうなほど、バクバクと音を立てている。背筋が凍り付き、身体がわなわなと震えた。
しばらくすると靄は晴れ、見え方もマシにはなったけれど、彼女は悟ってしまった。
「……どうした? どこか痛めたのか?」
「いえ。……大丈夫です」
刻一刻と、〝その時〟が迫っていることを。
それを現実のものとして痛感させられたのは、辿り着いた町の宿で起こった、ある出来事だった。
フロントで手続きを済ませた後、二階の部屋へ向かおうと、メリアが階段を上ろうとした時のこと。
一段目、二段目と、スムーズに足を運んでいた彼女だったが、三段目に差し掛かったところで、その足は空を切った。
踏み外したのだ。
慌ててホークが彼女を庇うも、咄嗟のことにバランスを崩した彼は、彼女を抱えたまま床に激突。思いきり肩を打撲してしまった。
幸いにも大した怪我ではなかったが、この出来事が、彼女の心に黒い大きな穴を開けた。
そして、その日の夜。
「……ホークさん」
「うん?」
「お話したいことが、あります」
メリアは、ホークにこう切り出した。
ベッドに腰掛けたホークのもとへと近づく。その表情には、不安と恐怖がまざまざと投影されていた。
伝えたいことははっきりしている。けれど、それをどんなふうに彼に伝えればいいのかわからない。俯き、唇をキュッと結ぶ。
室内に流れる重たい空気。二人の間を漂う沈黙。
しかし、それらを先に打破したのは、メリアではなくホークだった。
「……左目、良くないのか?」
「!!」
予想だにしていなかった彼の言葉に、メリアは目を見開いた。
驚き固まる彼女を自身の隣に座らせ、ホークは言葉を続ける。
「今朝も、さっきも……見えなかったんだろう?」
「っ……」
否定したかった。大丈夫だと、嘘でもそう主張したかった。
けれど、偽ることなどできはしない。正直に告白すると決めたのだ。自分の現状を。固めた決意を。
自分のためではなく、彼のために。
彼に、進んでほしいから。
「……もう、わからないんです……色しか。……何もかもが、ぼやけて、滲んで……」
ぽつり、ぽつり……と、今の症状を包み隠さずに吐露する。とてもじゃないが、彼と顔を合わせることはできなかった。
今の自分の醜い顔を、彼に曝け出すのが怖かった。
「貴方の、顔の輪郭も、もう……」
声が、身体が、震える。
込み上げる嗚咽をこらえ、喉につかえそうな言の葉を、それでもなんとか音にしようと必死で絞り出した。
「……っ……わからないんです……」
メリアの目に溜まった涙が、頬を伝い、顎へと流れる。大粒の雫となったそれは、落ちてシーツに染みを作った。
ここまでは、彼女の現状。
ここからは、彼女の決意だ。
「貴方の足手まといにはなりたくない。……だから、見えなくなったその時は——」
叫びにも似た、
「——私を……置いていってください……っ」
彼女の、真っ直ぐな想い。
まるで氷柱のように鋭く尖ったそれは、ホークの胸を一気に貫いた。メリアの震える小さな身体を、その想いごと強く強く抱き締める。
彼女が何を考えているか、なぜ自分にこれを伝えたか——ホークは、ちゃんと理解していた。
彼女の胸中に巣食うのは〝罪悪感〟。ホークの枷となっている自分に対する、ホークに怪我を負わせてしまったことに対する、その〝罪悪感〟に、彼女は苛まれていたのだ。
「……ふっ……う……っ……」
メリアは、ホークの腕の中で、声を押し殺して泣いた。彼の服をぎゅっと握り締め、胸元に顔を埋める。
そんな彼女に、掛ける言葉が見つからない。
言葉は無力だ。どんなに慰めの言葉を並べたところで、彼女の目はもう治らない。
抱き締める力を、握り締める力を、互いに強める。
離れたくない——これが、今二人の心に灯る共通の願いだった。
同情心から生まれたものではない。依存心から生まれたものでもない。
互いの心が共鳴し、惹かれ合ったがゆえの、
儚く、美しい——
——願いだった。
◆ ◆ ◆
あの日以降、メリアの視力は低下の一途を辿った。なんとか光は射し込んでいるが、独りの歩行も、しだいに困難となった。
それでも、彼女は笑っていた。涙を見せたのは、あの日の夜一度だけ。翌朝からは、また今までのように、二人で旅路を描き始めた。
そうして到着した港町。
二人が出会った聖夜から、およそ三週間が経過していた。
潮の香りがメリアの鼻翼をくすぐり、出帆の汽笛がメリアの鼓膜を刺激する。
大小さまざまな船が停泊しているその向こう側に、ちらりと覗く碧い景色。
「うわあ……」
本でしか見たことのなかった海を目の当たりにし、彼女は感嘆の声を漏らした。書き記してあったとおり、空とはまた違う青さだった。
けれど、厳密に言えば、ここは〝湾〟だ。彼女が本当に見たい〝大海原〟は、この外に広がっている。
果てしなく、広がっているのだ。
目に映るものが、どんなにぼやけ、滲んでいても、今見えるものすべてを脳裏に焼き付けたい——そう心に固く留め、メリアはホークとともに乗船した。
「向こうの港に着けば、そこで古い知人と会うことになっている。今後の具体的な話は、それからだ」
「……わかりました」
ホークのこの言葉に、メリアは一瞬だけ顔を曇らせた。
だが、すぐに明るさを取り戻すと、微笑みとともに頷いた。
互いの気持ちはわかっているが、それを口に出したりはしない。あの日の夜、蓋をして封じ込めたのだ。双方とも、心の奥に。
ずっと一緒にいるという選択肢は、彼らの中には存在しない。
彼女を危険に晒したくないから。
彼の邪魔にはなりたくないから。
ボーッと、鈍く重厚な音が湾内に響いた。……出航の合図だ。
「甲板に行けば、湾の外に出たとき、水平線まで綺麗に見渡せる。少し寒いが、行ってみるか?」
二人に残された時間は、あとわずか。暗く沈んだ別れ方などしたくはない。
メリアは、もう一度、微笑みとともに頷いた。
ホークに支えられながら、ゆっくりと甲板へ向かう。人の動きはわかるため、ぶつかることはそうそうない。……が、ここは船の上。足元が不安定なせいで、なかなか思うように進むことができなかった。
ゆえに、細心の注意を払い、ホークは彼女をエスコートしていたのだが。
「……っ!!」
「……メリア?」
突如、メリアが歩みを止めてしまった。さらには、がくりと膝をついて崩れ落ち、一点だけを見つめ始めたのだ。
……明らかに様子がおかしい。
ハッとしたホークは、すぐさまメリアを抱え上げ、その場から駆け出した。振り返る人の目も気にせず、ただひたすら必死に。
彼女の光、その灯は、今にも消えてしまいそうだった。
どうか間に合ってくれ——その一心で、ホークは船内を直走る。階段を駆け上がり、廊下を突き進み、やっとの思いで甲板へと飛び出した。
冷たい潮風が、二人の肌を刺すように撫でる。寒いからだろう。そこに人気はほとんどなかった。
彼女を連れ、彼はデッキの縁へと進む。
揺れる船の上。彼女はもう、立つことさえできなくなってしまっていた。ホークはデッキチェアに彼女を座らせると、なおかつその体を隣で支える。
二人の前に広がるのは、碧く澄み渡る大海原。彼女が憧れた、大海原だった。
その時。
ピーヒョロロロ——……
二人の上を、一羽の鷹が旋回した。
大きな翼を広げ、悠々と空を泳いでいる。
ピーヒョロロロ——……
「……綺麗ですね」
そう言って、メリアは涙を流した。
彼女の紫水晶からとめどなく溢れる雫。
彼女の目がどこを向いているのか、何を捉えているのか、ホークにはわからなかった。
大海原が綺麗なのか、鷹が飛ぶ姿が綺麗なのか。
鷹の鳴き声が、綺麗なのか。
メリアは、自身の体を支えているホークの腕にそっと手を添えると、俯き、静かに瞼を閉じた。
触れた部分から伝わる熱と想い。
メリアの瞳が光を失った——そう悟ったホークは、彼女の体を強く抱き締めた。
ありがとうも、ごめんなさいも、それ以上の言葉も。
口には出さなくとも、互いにわかっている。
痛いくらいに、伝わっている。
闇の中で彼女が見たもの。
それは、まぎれもなく、
〝光〟だった——
<END>